巡 り 会 う
Written by Mio,Mizumura

 涙みたいだ。

 ふと足を止めた歩道の端、はらはらと風に散らされるそれを見上げながら思う。柔らかい春の風に揺り動かされて木々はなおも泣き続ける。
 抱えるのは喜びか、悲しみか――

「キラ、遅れるぞ?」
 不意にぽんと肩を叩かれた。
 彼は隣に並び、キラと同じものを見ようとするみたいに空を見上げる。ほんのひと月前には皆同じお仕着せだったのに、春らしい私服姿の友人はどこか知らない人のような感じがした。
「あぁ…うん。」
 毎年、この季節が来るとぼんやりするキラのことを近しい友人はよく知っている。自覚があってそうしているわけではないのだが、キラは桜の木の下で花を見上げ、遠くを見るように目を細めているのだという。

『今にも泣いちゃいそうで心配になる』

 そんなキラに友人が零した言葉だ。
『キラの代わりに桜が泣いているように見えるの』
 いかにも女の子といった視点でキラをそう表現したのは、この友人の彼女。そういえばいつも一緒にいるはずなのに、今日は彼一人らしい。
「ミリィは…?」
 傍らに見当たらない姿を探し、訊ねて小首を傾げる。未だにぼんやりとしたキラの様子に僅か眉を寄せ、しかしトールは小さく肩を竦めて返した。
「あそこ。」
 視線で示されたのは校舎にほど近い一角だ。まるで春の花壇を切り取ってきたみたいに沢山の色が揺れている。それが彼女たちの纏う服の色だと気付くのには少し掛かった。
「化粧が〜とか服が〜とか講義が〜とかあの教授カッコイイ〜とか」
 そんな話してる。憮然とした呟きがおかしくてくすりと笑えば、トールは不満そうに唇を尖らせてしまった。きっとあの中に居るのも居たたまれず、キラを見つけて寄ってきたのだろう。
「先に行ってていいってさ。」
 キラの視線の先でミリアリアがこちらを振り返り、機嫌良さげにひらひらと手を振る。途端蕩けそうな顔で手を振り返すトールは、口ほどにはつまらなく思っていないらしい。ひと月前の卒業式でようやく纏まった彼ら二人も今、春真っ盛りなのだ。

「うん…あ、あのさ、ごめん」
「ん?」
「先…行ってて? 僕、もう少しここに居る…」
「もう少しって、後でも見られるんだし」
「そうだけど…ごめん」
 理屈ではそうだ。入学式はもう少ししたら始まるし、桜は数時間で散りきってしまうことはない。花を眺めているよりも、彼と一緒に会場へ向かわなければいけないことだってわかっている。
 でも、見ていたいのだ。もう少しだけ。
 ごめんね。駄目押しで申し訳なく笑ったキラにトールが深い溜め息を落とす。見ればさっきまで春の蝶よろしく群れていた彼女たちも歩き出していて、どうするかは一瞬で決まったらしい。
「じゃあ行ってるけど、遅れるなよ?」
「うん。」
 式開始の時間を言い含めてトールが駆けていく。ミリアリアに追いついて肩を叩き、途端はやし立てられているような光景が見えた。
 声は聞こえなくてもあの場の雰囲気と暖かさはよくわかる。
 その恋を手に入れるために友人がどれだけ悩み、つまづいたかをキラは知っている。だから幸せそうな彼らを見るのはとても嬉しい。きちんと互いの手を取り合うことができて良かったねと、心底思う。
 思うのに。
 皆の目を盗んでこっそり手を繋ぐ二人。
 照れてすぐ離されてしまった指。
 いいな…とごく小さく呟いた声は己で聞いてもひどく弱かった。祝福する気持ちは大きいのに、それよりも大きな寂しさがキラの中で渦を巻く。こんな顔をしていたら皆が心配するとわかっているのに、この季節だけはダメなのだ。

「わっ…」
 強い風が吹く。
 ぼんやりと眺めていたキラの視界を覆い隠すみたいに桜吹雪が舞った。散らされた花びらが頬を撫で、髪を撫で、キラの手を撫でて地面に降り積もる。雨よりも弱く、雪よりも温かく、まるでキラを慰める掌のように。

 風が収まってみればもうトール達の姿は見えなかった。束の間目隠しをされたみたいな風の悪戯にひとり笑い、手を伸ばす。
 花びらをたっぷりと纏いつかせて重く垂れ下がった枝。
 細工物のかんざしみたいなひと枝は、幼い日にキラが欲しがったものと良く似ている気がした。細い枝の先にまぁるく桜が咲いているのだ。わたあめのようで、でもそれよりもっと綺麗で、幼いキラは精一杯手を伸ばしてそれを欲しがった。

 今ならきっと、ひとりでも手が届く。
「も……ちょ…っと…」
 指先は花びらに触れるのに、風は意地悪をするみたいに吹いてキラの指から枝を遠ざける。そんなことを二度、三度と繰り返せば元々意地っ張りのキラに火が点いてしまうのは仕方がない。
 だって。あれを手に入れられたら、叶う気がするんだ。
 髪を撫でる仕草。繋いだ指。はにかんだ笑顔。
 もう一度、あの優しい時間を僕に下さい。

 それ、と石畳を蹴るつもりで強く手を伸ばす。
 途端強く吹いた風に、やっぱり僕の願いは叶わないんだと自嘲した。今ではもう手が届きそうなほど近くに想い出をちらつかせておきながら、春はやっぱりキラを哀しくさせる。
「逢いたいよ…」
 もう少しすれば桜も全て散って、また季節が一巡りする。その間にキラはまたひとつ歳を重ね、優しい記憶はより一層鮮やかに「想い出」になってしまう。
 どこに居るの。僕はここに居るよ。
 ここまで押さえ込んでいた弱音を吐いてしまったからか、目の奥が熱くなって困った。泣いたら皆に心配をかける。そう思って唇を噛み、俯く。頬を花びらが撫で、足下に落ちていく。
 本当に、代わりに泣いてくれているみたいだ。

「逢いたいよ…アスラン…」

 桜は願いを叶えない。だからそれはキラの心がほんの少し溢れただけの、独り言のはずだった。薄桃色に染まる視界から目を反らして俯いて、じっとしていればまた歩けるようになる。そのはずだった。
 なのに。

「うん」

 桜が、応えた?
 そんなことをキラが考えても、誰も責められなかっただろう。
 きょとんと目を瞬いてみれば、目の前にはさっきどうしても手の届かなかった枝があった。ほんの少し指を伸ばしただけで届く距離だ。鼻先を埋めて香りを嗅ぐことだってできる。
 その枝を、掴み下ろしている指。
 ゆっくりと振り返れば、いつの間にか背後に人が立っている。
 あの頃の面影を強く残す、だけど見たことのない青年。
 その人は、キラよりも少し高いところにある瞳を細めてふわりと笑った。驚き固まっているキラの髪をやや節張った指で梳き、花びらをつまみ落として頬を撫でる。
「ア…」
 髪を撫でる仕草もその笑い方も、こんな風にする人をキラは一人しか知らない。ならきっと、そうなのだ。たとえどれだけ信じられなくても。

 だけど、触れた途端に消えてしまわないか。
 恐る恐る手を持ち上げたキラに彼がくすりと笑う。そんな顔にどきんとさせられたのは、きっとあまりにも知らない人のように育ってしまっていたせいだ。
「アスラン……?」
 彼は触れても消えはしなかった。それどころか小さく震えるキラの指を包むように掴んで引き寄せる。

「俺も。逢いたかったよ、キラ。」

 額に、優しい唇が触れた。