冷 た い 手 を 暖 め な が ら
Written by Mio,Mizumura

 こんなに一生懸命走るなんて、随分久しぶりだった。
 講堂から吐き出される人並みを押し退け掻き分け、とにかく急ぐ。そんなキラを友人達は呼び止めようとしたけれど、「後で」ばかりを口にして足は止めなかった。

 だって。

 頭の中はその言葉ばかりが鳴り響いている。
 早くしなければ居なくなっちゃうかもしれない。そう心配したのは初めのほんの数分だけだった。今、キラの中を占めているのはもっと現実的な不安だ。
 講堂を飛び出し、未だ桜の吹雪く道を行く。頭の中にあるキャンパスの見取り図は苛々するほど不鮮明だ。必死に彼の言葉を思い返すのに早々に立ち尽くしてしまい、キラは途方にくれてしまった。

「…出て…西の、研究棟に…?」
 言われた通りに来たはずだ。なのになんだか場違いな場所に紛れ込んだような気がして落ち着かない。さっきまでは新入生らしき初々しい姿もちらほらあったし、早速サークルの勧誘を始めている先輩達の姿もあったのに……ここはそんな浮ついた空気が一切無いのだ。
 どうしよう、間違えた?
 気ばかり焦って困る。落ち着けと自分に言い聞かせて、とりあえずあまり目立たないよう端っこに寄った。こんなわかりにくい場所を待ち合わせに指定してきたのは、下手に騒がれないようにするためだと思ったのだ。
 だって、既に騒がれていた。

『ちょーっと、見た? 見た!?』
『見た! 何あれ、ここの学生だよね!?』

 式の最中、ひそひそにしてはちょっと大きすぎるくらいの声で内緒話をする女の子達を、キラは初めまったく意識に留めていなかった。あれが本当にアスランだったのか、この後待ち合わせの場所に行ってみても誰も来ないんじゃないのか、そんなことばかりが心配だった。
 でも、彼女たちの会話はキラの耳を強引なほど引きつけたのだ。

 濃い青の髪、穏やかな緑の瞳、背はすらっとしていて――

 呼び止めて名前を訊いておくんだった。そう悔やむ彼女たちに、アスランの名前を得意げに言ってやりたい気持ちがほんの少しだけ沸いた。
 でも、言わなかった。
 こういったテンションの女の子達に囲まれてしまったらゆっくり話なんてできるわけがないと、キラはよく知っている。彼女たちは皆が皆自分のことばかりを喋って、目当ての相手に自分の連絡先を押しつけるべく虎視眈々と笑うのだ。

「どうしよ…」
 建物の壁を背に貼り付くようにして、広く辺りを窺う。一応言われた通りに来たつもりなのだ。キラが間違えるような場所ならアスランは事前にそう言っただろうし、間違っていないのかもしれない。
 あぁでも、彼も間違えた可能性は?
「ありえない。」
「うん?」
 そんなのありえない。あのアスランが自分の指定した待ち合わせを間違えるなんて、想像しただけで違和感にぞぞっと鳥肌が立つ。
「寒い? 鳥肌が立ってる。」
「そうじゃなくて――」

 会話をしている自分が自然すぎて、すぐには異様さに気付かなかった。
 気付いたのは首筋につつ…っと触れたもののせいだ。ぞくんと強い震えが走り、さらに強い鳥肌が立った首を掌でさする。
「あぁほら、こんなに冷えて。」
 ぎゅっと。
 手を掴まれてしまって、キラは錆び付いた動きで振り返った。背後は壁のはずなのに、今自分の手を掴んでいるこれはどこから生えてきた?
「な…な…っ?」
 少しだけ高い位置、半分開いた窓の向こうに居るのはアスランだ。似合うんだか似合わないんだか、慣れない眼鏡越しの視線に言葉が詰まる。
「ほら、向こうを回って入っておいで。」
 外はまだ風が冷たい。
 そう言いながら自分の手が彼の頬にぺたりとつけられるのを、まるで他人事のように見守っていた。キラの頭が現実に追いついたのは、掴んだ手にすり…っと頬を擦り寄せてアスランが口元を緩めた、その瞬間だった。
「ああああ、アスラン…っ」
「走ってくるのが見えたよ。汗が冷えると良くないから」
 早くおいで、ともう一度促して手が離される。
 ぽんぽんと頭を撫でられて背を押され、口元に言葉を大渋滞させたままとにかく歩き出す。しかし数歩行っただけでちらり振り返ればまだアスランはそこにいて、彼は窓枠に肘を突いたまま笑った。

「温かいココアでいいかな。」





 大振りのマグカップにたっぷりのココア。
 ほんの少しクリームを浮かべたそれは幼い頃の記憶に幾度となく登場する。今では取り立てて好物というほどでもないのだが、そういえばあの頃のアスランはキラの機嫌が悪くなるとよくこうして甘い飲み物を持たせたものだ。
 しかし、今日のそれはちょっと様子が違うような気がする。
 緊張のせいか凍えかけている両手をカップで温めながら、首を傾げる。
「これ、何?」
 僅かに溶け残った部分を見ると泡立てたクリームにも見えるけれど。
 キラの呟きを聞いたアスランは小さく笑って立ち上がり、少ししてカップの上に手を翳した。ぽん、と放り込まれたのはマシュマロだ。それが熱い液体に溶けていく様を目を丸くして眺める。
「こういう飲み方もあるらしいよ。」
「へ、へぇ…?」
 内緒話のように顔を寄せて言われるとなんだか言葉に詰まる。ココアに掛かりきりになっているフリをすればそれきり彼も黙ってしまって、落ちる沈黙はなおキラを慌てさせる。

 だって、なんだか知らない人みたいだ。
 声も瞳も、笑い方ひとつとってもアスランでしかないと思う。だけどこんな風に成長しているなんて思わなかった。さっきは唐突な再会に驚いていれば良かったけれど今は違う。わけもわからずどきどきするものだから、キラはあれっきり彼の顔をまともに見ることができずにいる。
 なにか、喋ってくれたらいいのに。
 ふぅ、と熱い飲み物を冷ますフリで溜め息を落とす。本当はもうそんなに熱くない。だけど、カップの底に少し残っているだけのこれを飲み終えてしまったらもう逃げ場がないような気がする。
 いや、逃げたいわけじゃないんだけど……

「キラ、これはもう終わり。」

 とりあえずこれまでどこにいたのか。いや、今どこに住んでいるのか。それよりどうしてこのカレッジにいるのか。いやいや、その前にこの部屋はなんなんだ? ちょっとまて、どうしてキラが居ることを知っていた?
 そんなことをぐるぐると考えていたところに突然カップを奪われた。
「えっ?」
「終わり。」
 固い声だ。机の端にカップを置いて向き直ったアスランはどこか拗ねたような顔になっている。ちらりと横目で窺うキラを細めた目で見やり、やおら手を伸ばしてきた。
「ふぁっ!?」
「こっちを、向いて。」
 両手に頬を包まれて、ぐいっと正面を向かされたのだ。行動の突然さとは裏腹に掌の感触はやけに優しくて、逃げるに逃げられないままキラは胃の底からかぁぁぁっと焦げるような錯覚に陥った。
 近い。近い近い近いッ!
 幼い子供に言い聞かせるような仕草だが、キラはもう子供じゃない。額を付き合わせられても、笑うどころじゃなかった。吐息すら感じられる距離に目の前がぐるぐるとして、必死に腕を突っ張る。
「…キラ?」
 ちょっとだけ傷付いたみたいな彼の声。
「あっ、えっと…そうじゃなくて…っ」
 近すぎてパニックを起こしたけれど、彼が嫌だったわけじゃない。だから腕は突き放す形のままでも、アスランのシャツを掴んですぅはぁと深呼吸を繰り返す。
「そ、その…慣れなくて…っ」
「…うん?」
「だって、きき、君…こんな…っ」

 こんなに、格好良くなってるなんて…反則だ。

 耳まで赤くして、やっとの思いで言い訳を口にした。
 自分の言葉が言い訳どころか本音まるごとだったと気付いたのは、彼が嬉しそうに笑うのを見た後だった。長い指でさらりと後ろ髪を擽られ、くすぐったくて首を竦める。
 ふわりと耳元を呼気が掠め、うわぁと叫びそうになる。
 できなかったのは――頬に触れた唇のせい。

 額よりもっと近い、お互いの瞳のせいだった。