エイシャは、月が出るのを待っていた。
 今宵は聖月夜。
 月面に咲くという聖白花がこの野に降ると言い伝えられている夜だ。
 エイシャにはどうしてもそれが必要だった。

 聖白花の花弁は、ありとあらゆる病を治すという伝説がある。
 が、勿論、実際に手にした者の噂は聞いたことがない。
 それでもエイシャは月を待った。
 栗色の長く波打つ髪を風に靡かせて。
 並々ならぬ決意を秘めた琥珀色の瞳を輝かせて。
 彼女の幼馴染みにして恋人であるナジェドは死の淵にあった。
 その病を治すことが出来るのは聖白花のみだと村の呪い師に告げられたのだ。

 辺りはもう暗い。
 しかし、星明かりのみで月光の一筋さえ見当たらなかった。
(今夜は月が出ないのかしら)
 広い野原を冷たい風が通り抜ける。草のざわめきが魔物の様に思え、身震いした。
 (呪い師はちゃんと出ると言ったけど……出てくれなくては……)
 人の影の全くない野原には風の音と草の触れ合う音しかない。
 少女が一人でいるにはあまりに暗く、恐ろしい。
その上、この月の野には魔物が出るという謂れがあった。
 だが、たとえ魔物が出ようと構わないとエイシャは思う。
 ナジェドを救う花弁を手に入れ、村まで届けることさえ出来れば、この命をくれてやってもいい。
 そこまで思い詰めていた。

 風は益々強くなる。その音の間に布を裂くような音を聞いた気がして、エイシャはハッと回りを見回した。
 空の裾の方に細い針金の様な月が見えた。
 冷たい光が、一筋だけ暗い野に射す。
「あ……」
 その不思議な光景にエイシャは開きかけた口から言葉を失い、その光の中から人の形をしたものが出て来た時には、瞬きすら出来なかった。

 強く吹いていた風がぴたりと止み、光から出て来た者の踏む草の音しかしない。
「──女……か……──」
 エイシャの頭の中に直接言葉が流れ込む。
 低く優しげな男の声。
 そこで、やっと彼女は自分が呆然として立っていたことに気づいた。

「あ……あなたは……」
「──我は聖白花。何故に我の野に立ち入る──」
 近づいて来る者の姿がエイシャの目にもはっきり分かる。
 月そのものの光を放つ、美しい男の姿が。
 月光に映える銀糸の髪は冷ややかな光を辺りに投げかけ、青白い、清光にさえ透ける白磁の肌は内から光を滲ませているかの様である。
 白い衣服がそれと相俟って、冥界の使者の様に見えた。

「聖白花……」
 エイシャはそう呟くのがやっとだった。
 男に気圧されて、指の一本もまともに動かない。
「──我に何用ぞ──」
 男はエイシャの前に立ち、彼女の顎に手をかけて自分の顔へ向けさせた。
 そしてじっと目の奥を覗き込む。
 エイシャは頬に血が上るのを感じた。

「──花弁が入り用か……──」
 ただ頷く。
 依然言葉は失われたままだ。
 聖白花は薄い唇に笑みを湛えエイシャを見詰める。

 吸い込まれそうな瞳だ。
 エイシャはそう思った。
 闇を孕んだ銀青色の双眸は高貴な宝玉の様にただ深い煌めきを湛えている。

「──聖白花の花弁……今まで幾人の者が欲したであろうな──」
 エイシャの心に声が染みる。
 低く心地よい声だ。
「──やってもよいぞ──」
 その一言に男の声音に委ねかけた心が現に引き戻された。
「本当に!!?」
「──条件はある。お前の一番大切なものを貰い受ける──」
「それだけでよいの?」
 顎から離れた手を名残惜しそうに目で追いながら尋ねる。
 聖白花はエイシャから離した手を上へ向け、もう片方の手でその手首を掴んだ。

「それだけでよいのね?」
「──二言はない。構わぬのだな? ──」
 エイシャは頷いた。
 聖白花の手に月の光が集まる。
 その光が揺らぎ、手から零れた。
 そして、落ちて行く間に純白の花弁へと変わってゆく。
 エイシャは慌ててそれを受け止めた。
「──十枚もあれば事足りような──」
「勿論! 有り難う!」
 十枚の花弁を受け取り、小袋へ入れる。
「──これで我に用はないな。ならば早々に立ち去れ。今宵の様な夜にはこの野に人が立ち入ってはならぬ──」
 エイシャはその語気に当てられ、後ろを振り返りつつも小袋を握り締めて、村への帰路についた。


 暗い道をただ駆ける。
 暗い野、暗い川端、暗い森。
 だがエイシャは不思議と恐怖を感じていなかった。
 いくら暗くても、たとえ森の中であっても、常に細い月の光が彼女を見守っていた。

 ナジェドの家まで後少しという時に、急に月光が途絶えた。
 辺りが暗闇に包まれる。
 エイシャは多少の不安を抱きつつ、家の戸を激しく叩いた。

「小母様! 小父様!」
 戸が開く。
 エイシャは勢いよく駆け込んだ。
「花びらを頂いて参りました! ナジェドは……」
 寝台へ目を移す。

 その途端、呪い師に渡そうとして開いた小袋がエイシャの手から滑り落ち、真っ白な花弁が昏い床に散った。

「有り難うね。エイシャちゃん……この子の為に、こんな夜に月の野へ行ってくれて…………」

 震えを押さえた声でナジェドの母親が言うのを、エイシャは夢うつつにして聞いた。

 全てが白かった。
 冥界をも統べるという月の神の気に入りの色で、ナジェドは統一されていた。

「……う……そ…………」
 まだ呼吸をしていそうな、無表情でありながら、それ故に美しいナジェドの白い顔を見詰めて呟く。

「私の一番大切なもの…………嘘よ! 嘘よぉぉ────!!!!」
 優しく添えられ様とした手を撥ね除けて、エイシャは家を飛び出した。

「エイシャちゃん、何処へ!?」
 声は虚しく闇に消えた。


 エイシャはただひたすらに走り、野へ戻った。
 月の光が、再びエイシャに降り注ぐ。

「──どうした? 立ち入るなと申したろう?──」

「……ナジェドを殺したのはあなた……?」
 肩に触れて来た手を弾き、声を震わせて尋ねる。
 エイシャの瞳は紅の、血の色に染まっている。尋常ではない狂気を宿した色に。

「──我は申したはずぞ? お前の一番大切なものを貰い受けると。それでも我を恨むか?──」
 嘲りを含んだ声音にエイシャは拳を握り固めた。
 聖白花はそれに動じず、エイシャの手を取り拳を開かせる。
 そして、その甲にそっと薄い唇をつけた。
 途端、エイシャの身体から力が抜け、彼女は草の上に膝をついた。

「くっ……くくっ……ふふっ、あはははは……」

 エイシャの口から笑いが洩れる。
 紅蓮の瞳は虚空を見詰めるだけで、何も見てはいなかった。

「あははははははははは…………」

 高らかに、笑い声は夜闇に吸い込まれて行く。
「──やれやれ。大切なものを二つも奪ってしまったか……まあ、これもまた一興よな……──」
 聖白花はエイシャから手を退け、ふわりと宙へ舞い上がった。
 銀の髪が風に舞う。
 月からの光が彼を包み込む。

 空は再び月と星のみが占めるものとなり、野はただ暗く冷たかった。

 エイシャは笑いを止めることをしない。
 徐々に四肢が凍え、夜の冷気が身体を侵しても、ただ笑い続ける。
 それを嘲るかの様に、冷たい月光がゆらりと揺らいだ。

──終──

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