「ふわぁぁ〜〜」
「風璃(ふうり)、眠ってはいけませんよ」
 大きな欠伸をした風璃を叱った誓貴(せいき)は、本を閉じた。
 もう二時間もずっと本を読んでいる風璃はすっかり疲れ、今にも眠ってしまいそうである。

 晴れ渡る青空。しかし風璃は書館の中。
 先生の誓貴が終わりだと言えば、すぐにでも外に飛び出したくて堪らない。

「ねぇ、誓貴。もう終わりにしましょう」
 眠い目を擦りながらお願いした風璃の頭を閉じた本で軽く叩いて、誓貴は溜め息を吐いた。
「仕方ありませんね。いいですよ、風璃。終わりにしましょう。気をつけて遊んでいらっしゃい」
「はーい」

 背中の翼を少し動かして風に乗り、風璃は空に舞い上がった。

 ここは高い山の頂上にある国だ。
 ここに住む人は皆背に翼を持っている。勿論風璃も例外ではない。
 空では友人が数人、輪になって遊んでいた。

「風璃、お勉強、終わった?」
「うん、終わったよ。遊ぼ」
「……風璃……? はね、どうしたの? 変だよ」
 友人の一人の言葉に、風璃は自分の翼を見て驚いた。
 きれいに生え揃っていたはずの羽根が、少しずつ抜け落ちているのだ。
「お家に帰った方がいいんじゃない?」
「病気かも」
 心配そうな友達の声に、風璃は青くなった。
「あたし、もう帰るね」

「お帰りなさい、風璃」
 家では風璃の母、朱華(しゅか)がレース編みをしていた。
 一週間後の風璃の誕生日の為に、綺麗なレースの服を作る為だ。

「お母様ぁ」
 朱華の顔を見るなり、風璃はわっと泣き出した。
「どうしたの、風璃?」
「あたし、病気なの? 死んじゃうの?」
 朱華は驚いて編み物を横に置き、風璃を膝の上に抱き上げた。

「誰がそんなことを言ったの?」
「だって…羽根が……」
 風璃の呟きに、背に目を移した朱華は、小さく息を呑んだ。
 しかし、すぐに気を取り直し、羽根の抜けた翼に優しく触れた。
「……貴風(きふう)…………」
 そのまま小さな娘を抱き締めて、朱華は目を閉じた。肩が震えて、泣くのを堪えているのが風璃にも伝わって来る。

「お母様……泣いてるの?」
「いいえ……ごめんなさい、風璃。誓貴を呼んで来て。大事なお話があります、って」
 風璃を降ろして朱華は微笑んだ。
 その笑顔はひどく寂しく、風璃は急いで誓貴の所へ向かった。

 風璃が呼びに行くと、誓貴はひどく慌てた様子ですぐに朱華の下へ向かった。
 気になって仕方がなくとも、風璃は部屋に入れてもらえない。
 自分の部屋に入って、大きな窓から真っ青な空を見上げる。自然に溜め息が零れた。

「フーウリっ! なぁにシケた顔してんだよっ。……って、何かあったのか?」
 突然ふわりと風が起こり、窓辺に一人の少年が降り立った。
 明るい茶色の髪を太陽の光に輝かせているこの少年は、風璃の一番の友達、従兄弟の風華(ふうか)である。
 三つ年上の風華は、子供達の中で一番風を操るのが上手だった。

「お邪魔しまー……」
「入っちゃだめっ!!」
 風璃自身今まで言ったことがない程、強い声で怒鳴って風華を外に押し出した。

「何すんだよ! せっかく心配してやってるのに」
「だめなの……帰って風華。あたし病気なの……」
「どんな?」
「羽根が抜けちゃって……」
 泣き出した風璃を放っておくことが出来ず、風華は怖がらせないようそっと風璃を抱き寄せた。

「違う。病気なんかじゃない。……多分、叔母さんなら説明してくれるはずだ」
「お母様は、何にも言わなかったもん。羽根を見せたら、すぐに誓貴を呼んで、って……あたしには何も教えてくれないの」
「大丈夫。二人がちゃんと説明してくれるさ。心配要らない。オレだって……三年前年そうだったんだから……」
「風華も?」
 風華はにっこりと微笑んで頷いた。
それだけで風璃は何か勇気づけられて、風華の顔を見上げて微笑んだ。
 たった三歳差だとは思えない程、高い位置にある従兄弟の顔を見て。

 そのとき、コンコンというドアをノックする音がした。
「はぁい。どうぞ」
 入って来たのは誓貴だ。
 顔が青白く見える。
「ああ、風華もいたのですか。丁度よかった。いっしょにいらっしゃい」
「仕方ねーよなぁ」
 風華は独り言を洩らした。
 けれども誓貴に続いて部屋を出た風璃にはその声は届いていなかった。

 誓貴が二人を連れて入ったのは、普段カギを締め切っている部屋だった。
 他の部屋は全て木で出来ているのに、ここだけは何故か石造りだ。
 部屋の一番奥は一段高くなっており、その上に大きくて立派な椅子が置いてあった。

 段下に跪いていた朱華は、三人が入って来ると立ち上がって振り向いた。
 たった今まで泣いていたのがよく分かる、紅く染まった目元をしている。

「風華も来ていたのね」
「御機嫌好う、叔母様」
 恭しく頭を下げる。朱華はそれを微笑で受けた。
「お母様」
「……ごめんなさいね、風璃。あなたには何も教えていなかったから……」
 ぶんぶんと首を横に振って、風璃は朱華に飛びついた。

「……貴風様がお亡くなりになられたわ」
「貴風様?」
「あなたのお父様よ、風璃。立派な風の王でいらっしゃったわ」
「聞いたことはある。ウチのババアが言ってた。国を出て奔放に生きる風。貴き風の王、貴風……叔母様の夫、だな」
 朱華は静かに頷いた。

「風を束縛することなんて出来ないものね。風を統べることさえ出来れば王はどこにいても構わないわ。でも風守は違う。王の伝える力の恩恵を守る風守は、この国から出ることは許されない……」
「風守と風の王は一対。先代の王が死ねば、自然、力は次代の王へと受け継がれます。証は他の者より早すぎる発育」
 言葉を続けるのも辛そうな朱華に代わり、誓貴が先を続ける。風璃と風華は、聞いていることしか出来なかった。

「風璃も成人に早すぎる時期です。よって、完全に成育するまで、風璃は風の洞穴に籠もりなさい。一週間後の、誕生日までには全てが終わっていることでしょう」
「いきなりそんなこと言われたって分かんないよ。あたし……お父様なんて知らない。風の王なんて知らないっ。誓貴も、お母様も、どうして黙ってたの? ねぇっ!?」
 風璃は泣きながら朱華の胸をポカポカと何度も叩いた。
 朱華には、ただ抱き締めていることしか出来ない。

 一方風華は、拳を握り締めて俯いていた。
 数年前の誕生日前。
 風華はすでにその説明を聞かされていた。
 自分は風守、王をを守り、支えていく存在……

「次代の風の王は先代の風の王と風守の間に生まれます。よって貴女は、貴女の風守である風華は婚姻することとなります。一週間後の誕生日に正式な儀式を行うことになるでしょう」
「待てよ……オレ達の意志はどうなるんだ……?」
 事務的な誓貴の言葉が終わった後、風華は例えようもなく低い声で尋ねた。

「そんな風習でオレ達を縛り付けようってのかよ」
「それが宿命です」
 次の瞬間、誓貴は風華に殴り倒されていた。
「宿命なんざ知ったことか! オレはそんなことに縛られやしねぇ。決まりなんかクソ食らえだ!! 風を束縛出来ないって言ったのは叔母様だろ? オレや風璃だって風なんだっ!!」
「風華っ!!」
 急いで風華の後を追おうとした風璃だが、朱華に抱き締められたままではそれも出来ず、ただ立ち尽くすばかりだった。


 それから六日。
 風璃は朱華と誓貴の言い付けを守り、風の一族の儀礼に則って、風の洞穴に籠もった。
 最奥は山の向こうに通じていて、どこまでも続く青空が眩しい程だ。

 六日間で風璃は幼女から少女へと見る間に成長した。
 それはまるで、大きすぎる力に追われる、そんな悲壮感さえ持ち合わせている様だった。

 そして明日、風璃の誕生会と共に、風華との婚姻の儀が行われようとしていた。


「風璃、綺麗でしょう。一生懸命編んだのよ」
 薄いレースを幾重にも重ねた服をふわりと風璃にかけて、朱華はにっこりとした。
 真っ白いレースの上に金色の髪がよく映える。
 それはとても綺麗で、まるで夢の国の住人のようだった。

「お母様……やっぱりあたし…………」
「風華の支度も整って来ている様だし、大丈夫ね。明日の手順は分かっているわね。じゃあ、私は他にもすることがあるから。今日はよくお眠りなさい。明日の儀式の最中に眠ったりしては困るから」
「お母様!!」

 朱華は風璃を全く無視して忙しそうに洞穴を出て行った。
 風華のことは嫌いではないが、こんな形でいきなり結婚などと言われても納得できなかった。
 結婚する時も相手は自分で選びたい。
 風の王だからと制約を受けるのは好きではない。
 それでも綺麗な服には惹かれて、そっと腕を通してみる。
 急に大きくなった身体には自分でさえまだ馴染めていないのに、朱華にはよく大きさが分かっているようでぴったりだった。
 風の神が好む真っ白な服は、女の子の憧れの的。
 風璃もその一人であったというのに、今それを着ても心は沈むばかり。
 その格好のまま、風璃は部屋の片隅に小さく蹲った。

 どれくらいの間そうしていたのだろうか。
 気づけば室内は真っ暗だった。
 辛うじて窓から入ってくる月の光で様子が分かるといった程だ。
 いつもならば暗くなる前に朱華が明かりを持って来るのだが、明日のことで忙しいのか、すっかり忘れている様だ。

 風璃はふらりと立ち上がって、窓辺に寄った。冷たく澄んだ月が、静かに見下ろしている。
 それを見ているのが苦しくなり、振り向いてベッドに向かおうとしたそのとき、折しも一陣の風が室内に吹き込んできた。

 慌てて再び窓辺に寄り窓を開けて身を乗り出す。
「風璃」
「風華!!」
「あんまし大きな声出すなよ。気づかれるぜ」
 ふわりとした動作で入ってきたのは、いつもとは全く違う雰囲気をした風華だった。
 服装を整え、正装した姿は、それだけでりりしく見える。

「ごめん。遅くなっちまって。着替えてるヒマ、なかったんだ」
「……どうして? 風華、ここに入っちゃいけないでしょ?」
「知るか。ヤツラが勝手に決めたことだ。オレにゃあ関係ねーよ。それより、もう身体は完全なんだろ? 逃げようぜ」
「そんな……どこに? 逃げるって言ったって……」
「長老には言った。……ま、オレが逃げるって言っただけで、お前まで一緒とは言ってないけどな」
 いたずらっぽく笑った風華は、それでもいつもより数段大人びて見えた。

「古い慣習全てがだめだ、なんて、いくらオレでも言いやしねーよ。でも、悪習ってのもある。改善すべきことはいくらだってあるんだ。風守だって同じさ。この国の誰だって持ってる力なのに、一族だけに任せてやがる。本当は特別な力なんかじゃない。そんなことだけのために、オレは縛られたくないんだ。慣習にも、国にも、親にも……」
 語調こそは力強く、けれども風華は優しく風璃の手を取った。
「一緒にきて欲しい。今日逃げるのは、お前と結婚したくないからじゃ絶対ない。お前のこと好きだから。だから、こんな因習のごり押しで、お前を手に入れたくない……だから…………」
 だんだん風璃の手を掴む力が弱くなっていく。
 風璃はそんな風華の手に、もう片方の手を重ねた。

「……いいよ。でも……絶対、幸せにしてくれる?」
「当たり前だぜ。オレがついてる」
「誓う?」
「もちろん。あの、永久に闇を照らす月に誓って」

 風華の唇が、そっと風璃のそれと重なった。
 それを見ていたのは月と、辺りのそよ風のみだった。

 それからも風が止まることも荒れることもなく、高い高い山の上の小さな国には、平和が続いたそうである。

──終──

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