お礼SS その2
「ねぇ、寛希。わたくしも、貴方と同じ学校に行きたい」
そう、郁弥様がいたずらっぽく仰ったのは、まだ夏も過ぎてはいない頃だった。
風の行方 番外 −寛希15歳−
「今からお勉強すれば間に合うかも知れないと思うのです。後は、お父様にお願いしたら大丈夫ではないかと」
郁弥様はおれの顔を見ないで、窓の外ばかり眺めながら仰った。
朝の光が清々しく、少し透かせたブラインドの隙間から入り込んできている。
郁弥様の、色素の薄い髪が光に透けて、殆ど金髪に見える。
だけど……どうお答えしていいものか分からない。
中学にだって、数える程しか行かれてないのに……。
「おれ……実昇を受けるんですけど……」
おれや昭隆様が受験する私立の実昇高校というところは、国内でも屈指の難関校だと言われている。
正直言って、受かる自信なんて全くない。
落ちたらこの近所の県立高校に行くことになるだろう。
「知っています。昭隆も同じなのでしょう? お父様が理事をしていらっしゃるから」
「ここからでは通学に時間が掛かるので、受かったらおれ達は寮に入ることになると思うんですけど」
「ですから、わたくしも、貴方達と同じように」
少し興奮なさった様に一息にそこまで言って、郁弥様はふと溜息を洩らされた。
「無理……でしょうね……」
完全に否定なんて出来る事じゃない。
「でも、来年にはお身体も良くなられるかもしれません。旦那様に申し上げてみるのは、悪くないと思います」
「ええ。後で、メールを送ってみます」
今回の入院は長引いている。
もう、どれだけお家に帰っていらっしゃらないんだろう。
窶れが日々濃くなっていくお顔は相変わらず美しいけれど、それが余計に痛々しかった。
「りんご、召し上がりますか? 下ろしますけど」
「いいえ」
「朝ご飯も、あまり食べていらっしゃいませんでしたね」
「ええ…………」
お粥やすり下ろしたりんご、経口栄養剤なんかは口になさるけど、あまり固形物は召し上がらない。
「夕方また伺いますけど、何か召し上がりたいものはありませんか?」
「何も。……参考書を買ってきて下さいませんか」
「ご用意いたします。他には」
「貴方が来て下さればそれでいい」
そうして軽口を叩けるなら、まだ今日は少しご加減も良いのだろう。
「ねぇ、寛希」
「はい」
「…………そろそろここを出なくては、一時間目に間に合わないのではありませんか?」
側の時計に視線を移される。
…………え?
うわぁ!!
「それでは、行ってきます!! 帰りに、参考書と、ええと……何か、お口に出来そうなもの、買ってきますから」
「ええ。貴方のお顔を見るのを楽しみに待っています。いってらっしゃい」
ぺこりと頭を下げて、大慌てて病室を飛び出した。
行ってしまった。
毎朝のように繰り返される光景。
「っ……」
寛希のいる前では、と必死に堪えてきた咳を繰り返す。
胸に手を当て、肩で息を継ぐ。
言わなければよかったのかも知れないと、毎朝軽い後悔を覚える。
時間を教えなければ、寛希は気付かずにそのまま側にいてくれるのではないだろうか。
毎朝、その背を見送るのが日課にはなっているが、それが苦痛で仕方がない。
本当に、夕方再び姿を見ることが出来るのだろうか。
どうしようもない不安が込み上げる。
窓に手を伸ばし、指を引っかけてブラインドをの向こうを見る。
一生懸命走って学校へ向かう寛希の背中が見えた。
寛希は光だ。
薄暗く、死を待つしかない自分の道を、明るく照らしてくれる。
光を失いたくなかった。
最期の瞬間まで、明るく、照らし続けていて欲しい。
その為にも、出来る限り同じ時間を共有していたい。
最期の最期まで…………死に逝くその時まで。
寛希の姿が通りの向こうに消える。
郁弥の瞳から、涙が一筋こぼれ落ちた。
終
作 水鏡透瀏