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お礼SS その3

 冷たい手が必死におれに縋る。

 おれに、何が出来る。
 ただこうして手を握り締めて、見守ることの他に何が。
 何が…………。

風の行方 番外 −寛希17歳−

 入院は勿論のこと、自宅に帰ることすら拒んで、郁弥様は学校の寮に留まり続けていた。
 たまに気分の良い時には授業にいらしたりもなさるけど、そんなことは一週間に一度か二度で、殆どの時間を部屋か保健室で過ごしていらっしゃった。
 我が儘が過ぎると厭な顔をする人だっていないわけではないけど、生徒の大半も、先生達も、保健の先生だって、郁弥様を見守っていてくれていた。

 郁弥様はとても頭の良い方で、試験ではいつだって上位につけている。
 出席率はどれだけ低くても、三年間過ごすことが出来れば卒業させて貰えるようだった。
 あと一年と半年ほどだ。
 きっと、一緒に卒業できるだろう。
 きっと……。

 命さえ、繋がっていれば。


 お薬は飲ませた。
 携帯を出して救急車を呼ぶ。
 しかし、ボタンを押す最中に、郁弥様の手が伸びて携帯を床に落としてしまった。
「郁弥様!!」
「だ……め…………」
「何故です。早く病院に行かなくては」
「……いや……っ……」
「そんな我が儘を仰らないで下さい」
「いや……です……いや……」
 携帯を取ろうとすると、より強く縋り付かれ、身動きが取れなくなる。
 こんな華奢な身体の何処にそんな余力があったのだろう。
 痛い程に抱き付いている。

「だい……じょうぶ……まだ………………」
「ですが、」
「いや…………い……や…………」

 縋ってくる手指が腕や背中に食い込む。くっきりと爪痕が付く。
 それくらい必死で、郁弥様はおれを引き止める。
「……ひろき…………そばに、いて……」
 浅く速い息の合間に、おれの名前を呼んで下さる。
 目が離せない。
 動けない。
 早く……早く、救急車を呼ばなくてはならないのに…………。

「…………ひろき……」
 そのままどれだけの時間が過ぎたただろう。
 次第に、郁弥様の呼吸が落ち着いてくる。
 痛みに苦悶し、寄せられていた眉の緊張が解けていく。
 けれど、郁弥様はおれに縋り付いて手を放そうとはしなかった。

「郁弥様……?」
 様子を窺うと、ゆるゆると腕の力を緩められた。
「…………ごめん……なさい…………」
「いいえ。お薬が効いてこられたようで、安心しました」
 こうして抱き付かれたままではお顔が分からない。
 そっと腕を外そうとすると、再び腕に力が込められた。
「わがままを言いました……」
「……やはり、もう、ここで過ごされるのは……危ないと思います」
「…………今度、入院したらきっと…………もう、出てこられないでしょう」
「そんなこと」
 「ありません」。そう、言いたかった。
 でも、このところ、体調が思わしくないことが多いのは確かだ。
 気休めだと分かっていながらなんて、言えない。
「…………ここなら、貴方と長い時間、共に過ごせる……」

 耳を擽る、寂しげな声。
「……病院で行われる延命に、何の意味がありますか?」
「ここにいるより、郁弥様が苦しくないと思います。すぐにお医者さん達も来てくれるし……」
 生きていて欲しいと思うのは、当然のことだ。
「でも、貴方がいない」
「おれは、郁弥様が苦しんでいるのを見ていることしかできない。何の役にも立てない。……それなら、郁弥様は入院なさるべきだと思います」
「…………貴方は、いるだけでわたくしを助けてくれる。わたくしには、それで十分……」

 おれは、何もしてない。何もしてあげられていない。
 ただ側にいて、狼狽えるだけだ。
 おれの方が、余程郁弥様に助けられている。
 精神的な支えとして、郁弥様の存在がどれ程大きいか知れない。

「ねぇ、寛希。命というものは、長い短いで計るものではないでしょう? 自分は幸せだったと、死ぬ瞬間に思えることが全てだと、最近考えるのです。なら、自分の幸せは何なのか……その幸せの為にここにいることを選ぶ、それなら、貴方も納得してくれますか?」

「ここに……郁弥様の幸せがあるのですか?」
「ええ…………まさに、ここに」
 腕が外され身体を離して、郁弥様はおれの顔を見た。
 そして、まだ青白い顔で精一杯に微笑んでくださる。
 泣き腫らしている筈の目にも血の気は薄い。
 頬も、鼻の頭も、薄く染まっているだけでやはり血の気はない。
 涙に濡れた顔に髪が張り付いている。
 それでも、何処を取っても、本当に美しかった。
 ……おれの幸せは、ここにあった。

 郁弥様が笑ってくださるなら……。
 どんなに苦しくても、辛くても、こうして、おれに微笑んでくださるのなら…………。
 それで、郁弥様が幸せなのだと仰るなら、おれはそれに従うしかない。

 郁弥様が幸せなら、おれも幸せ。
 ここにいることが幸せだと仰るのなら、おれも、お側にいよう。
 苦しむ郁弥様を見ていることしかできないのは、もう……本当に耐え難いけど、でも、それでも……郁弥様が幸せだと仰るなら、おれは……。


作 水鏡透瀏

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