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お礼SS その5

 何故です、兄上。
 何故貴方が亡くならなくてはならないのです。

 それ程にお強くて、それ程にお優しくて、それ程にお美しい貴方が。

 何故なのです。
 私の命で贖えるものならば、その全てを捧げます。

 兄上、何故です。
 貴方は何もご存じない。

 貴方はまだ生きなくてはならないのに。

 貴方には、私の治世をご覧頂かなくてはならないのに。

 兄上、お願いです。
 私を見て下さい。
 あの方だけではなく、私のことも見て下さい。

 兄上。
 兄上……。
 ……兄上──────。

LOLシリーズ 番外 セファン 13歳

 全く血の気のない顔だった。
 乾いた唇からは浅く速い呼吸がただ洩れるだけで、もはや言葉を紡ぐ力もない。

 この世界のあらゆる力の中心、リーンディル神殿ならば長らえられるという話だった。
 だが、まだ十八の身空で、今やルシェラの命は風前の灯火だ。

「兄上……」
 セファンは身体を親友のアーサラ王子、ギルティエスに支えられながら呆然と兄の傍らに跪く。

 美しい兄。
 優しい兄。
 国守としての強大な力を継ぎながら、兄ルシェラはその生涯を閉じようとしている。

 兄の傍らには壮年の美丈夫の姿がある。
 常に凛々しく毅然としていた男は、セファンとは寝台を挟んだ向かいに跪き、ルシェラの手を握っている。
 ここ数日は全く当たられていない無精髭すら、この男には更なる色香を演出するだけのものでしかない。
 疲れが浅黒く浮いた顔も、愁いを帯びて燻した銀の様な鈍い輝きを放って見える。
 黒い瞳はただじっと、ルシェラの姿を見詰めていた。
 涙に濡れるセファンとは裏腹に、ひどく落ち着いた姿だった。

 この男は、父すら認めた兄の恋人だ。
 それが。

「貴方は……何故悲しまないのです!?」
 兄はこの男を愛していた。
 男だとて、兄を愛していた筈だ。
 それなのに何故悲嘆に暮れないのか。
 セファンは堪えきれず男を詰る。
 肩を支えていたギルティエスが制止する間もなかった。
 寝台に横たわる兄の上から手を伸ばし、男の白髪の混じった髪を掴む。

「セファン、兄上様の前で何を」
 ギルティエスがセファンを後ろから羽交い締めにし、男から手を外させる。
「離せ、ギルティ!!」
「兄上様の御前で騒ぐな!! それも負の感情で……兄上様がより苦しまれるだけだろうが」
 怒りに震える拳を握り、顔を背ける。
「……セファン…………」

 男はルシェラとセファンの顔を見比べ、感情の読みとれない目でセファンを見遣った。
 そして、静かに口を開く。
「お前が悲しんでいれば、十分だろう」
「兄上は貴方を愛していたのに」
 愛し合っていたなら、平静でいられる筈がない。
 セファンにはこの男の事が全く理解できない。
 こんな状況だというのに、男は柔らかな微笑みさえ浮かべていた。
 そして、ルシェラの頬に指を這わせながらまた、セファンとルシェラを交互に見る。

「俺だって勿論……愛しているさ。今までも、これからも、ずっと」
 芸術を司る神の降臨とまで称せられる男の静かな声が、ずんと深く、重く部屋の空気を司る。
「なら何故」
 セファンにはやはり分からない。
 男はセファンの頭に手を伸ばし、くしゃりと撫でた。
 壮絶なまでの男の色香を漂わせたまま微笑み、セファンと視線を合わせる。
「……麻痺しちまってるのかもな。また、こいつは俺を置いて逝くんだから……」
「……また?」

「…………ルシェラは再び産まれてくる。俺はその間も生きている。ルシェラはまた産まれ、そして朽ちる。その繰り返しだ。俺はもう……六十って歳になろうかってところだが……ルシェラに出逢ってから、今まで、何度こいつを看取ったと思う」
「何度って……兄上は、兄上、ただお一人……」
「…………これから王になろうというんだ。国と国守について、今の世界の成り立ちについて、もっとよく勉強することだ。そうすればまた……お前もルシェラに会えるさ」
「また、兄上に…………」

 命の灯火はかそけき最期の光を放っている。
 セファンは漸く、真っ向から兄の顔を見た。
 震える唇。
 静かな……静かな表情だった。

「兄上……」
「ルシェラ……最期だ。弟に、何か言葉はないか?」
 骨ばかりになった手をリファスが包む。
 淡い光が二人の間に漂った気がして、セファンは目を細めた。
 光はすぐに失せ、ルシェラの睫が震える。
 薄く目が開いた。
 澄んだ緑玉色の瞳がセファンの姿を認め、幽かに微笑む。

「……兄上」
「……精悍な、お顔が……台無しですこと……」
 最期まで優しい。
 兄として、弟を慈しんでいる。
 けれど、それはセファンが求めているものではない。
「兄上……」
「王が……取り乱しては、なりません……」
 涙に濡れ、紅くなった目元に指先が伸ばされる。
 けれど、それは触れる前に力無く掛布の上に落ちた。
 セファンは必死でその手を取り、強く握って自分の頬に押し付ける。
 冷たい。

「私はまだ王ではありません」
「…………貴方が、ティーアを継ぐのです……」
 首を横に振り否定する。
「兄上が第一王子です。私ではありません」
 兄の運命を認めたくない。
 ルシェラは困った様に眉を顰めた。
「セファ……民の為に、よりよい治世を……」
「兄上があらせられない国に、何の価値がありますか!」
 認めたくない。

 力無い手は冷たい。
 骨と皮ばかりで頼りなく、握っている事すら恐ろしく思える。
「国を、保ち……民に、優しく…………支配者の為ではない、治世を……」
 微かに手が握り返される。
「兄上がそう望まれるのならば……私は、兄上の片腕として、その様に致します。ですから、どうか……」
 言葉にならない。
 込み上げようとする嗚咽を堪える事で精一杯だった。
「貴方が、良き王であれば……きっと、もう一度……わたくし達は、巡り会える…………」
 再び瞳が閉ざされる。
 ルシェラは疲れたように、小さく息を吐いた。

「よく……学び、知り……王として……国を…………くに、を……」
 強く握られたままの手指の先が微かに動き、涙に濡れるセファンの頬をそっと撫でる。
 王子としての暮らしなど片時も過ごしたことがなかった筈だが、ルシェラは誰よりも為政者として国を、民を見詰めていた。
 セファンの中に、重く深く楔が打ち込まれる。

 兄を愛するなら……兄の望む世を作り、保たねばならない。
 託されたものの大きさに身震いがする。

「貴方こそが王……王は、国家の僕…………その事が、決して…………形骸化することの、ない……様に……」
「…………兄上……もう、お話にならないで下さい……」
 唇が動く毎に、その間から命が霧散していくような錯覚を覚える。
 セファンは握っていた手の甲に口付けた。

 もう一方の手を男が掴む。
 彼にはもう、ルシェラのこれからが見えているようだった。
「疲れたか、ルシェラ」
「…………ええ、少し……」
「ゆっくり休め。今回は、長くお前といられた。俺は満足だ」
 労るように男が声を掛けると、よりルシェラの表情が綻ぶ。

 ルシェラはもう一度目を開け、男の顔をじっと見詰めると、もうセファンを振り向くことはなかった。
 そして、柔らかな表情のまま二人は見つめ合っていた。
 セファンに入り込む隙など、微塵もなかった。
「…………ありがとう」
「また、な」
「ええ…………」

 微笑んだ顔の侭、ルシェラは目を閉じ、深く、長く息を吐いた。

 そして、それっきり動かなくなった。

 美しい顔だった。
 穏やかで、表立って苦しむほどの死に様でなかったことが、せめてもの救いだ。
 この美しく晴れやかな顔を、セファンは一生忘れることが出来ないだろうと、確信めいた思いを抱いた。

 男はまだ手を握ったまま、涙を流すこともなくルシェラに見入っている。
 微かに震える唇が、慈愛に満ちた笑みを浮かべた。

 やはり、セファンには理解できない。
 理解できないけれども……羨ましかった。
 血よりも濃い絆が、そこには確かにあった。

 それから暫く、セファンは嘆くでもない男を、ただじっと眺めていた……。


作 水鏡透瀏

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