目が覚めた時には、すべてが遅かった。
朝陽はとうに昇っていた。庭先から聞こえる雀の鳴き声。
普段なら、こんなことは絶対に、在り得ない。
鍛錬もせずに・・・眠りこんで、しまうほど・・・・・・。
無意識に握り締めていた布団から手を離すと、じわりと汗が浮かぶ。
覚めやらぬ『 熱 』は、未だこの掌の中に或るのに・・・。
幸村様、起きていらっしゃいますか、と障子の向こうから聞こえる、控えめな声。
その声に応えて汗を拭く水を頼むと、一度侍女が下がった・・・その、合間に。
乱れた寝所を見回して、遠くに落ちていた寝着を拾い上げる。
やがて水桶を持ってくる侍女に怪しまれないよう、しわくちゃになったそれを身に纏うと・・・。
・・・かすかに『 彼女 』の香りがした・・・。
「 ・・・・・・ら、幸村よ、聞いておるのか!? 」
ぱちん、と風船が弾けるように、意識が戻る。
左手の上座には、敬愛するお館様。彼に報告をしていた忍が、自分へと手を伸ばしていた。
額にぺち、と手を当てて、熱はないようだけど・・・と唸った。
「 ・・・は、 」
「 ちょっとぉ、旦那ってば大丈夫?今の、お館様の話、聞いてた?? 」
「 よい、佐助。一旦、休憩にするかの・・・誰か、是へ 」
お館様の声に、ヒトの動く気配・・・『 彼女 』だ。途端、身体を強張らせる。
ぎしり、と音がしたんじゃないかと思うくらい固くなった某に、佐助が首を傾げたのが解った。
「 ・・・お呼びで、ございますか 」
凛とした、鈴のような声音。
静かに開かれた障子の向こうに『 彼女 』がいた。伏せていた頭をそっと上げる。
頭と一緒に持ち上げた長い睫の影が、消える。開かれた美しい瞳が、黒く輝いていた。
・・・しかし、その瞳に某が映ることはなかった( 某がいることを知っているはずなのに・・・ )
ひらひらと手を振った佐助に、微かに笑いかけて、視線をお館様へと戻す。
お館様が、大きく頷いた。
「 、幸村に茶菓子を。少し疲れているようでの、多めに持ってきてはくれまいか 」
「 かしこまりました。ご用意してまいりますので、しばらくお待ち下さいませ 」
「 うむ、頼んだぞ 」
深く頭を下げた彼女の肩を、よく梳かれた髪が流れる。
その流れに乗るように、光が零れ落ちるのに、見惚れていた・・・。
下がった彼女の気配が完全に消えると、佐助が軽く吐息をついた。
「 ・・・はあ、ああも女の子ってのは、あっという間に綺麗になっていくもんなんですかね 」
「 どういう意味じゃ、佐助 」
「 ちゃんが、お館様付きの侍女になって随分と経ちましたけど、日毎変化するじゃないですか。
一昨日よりも昨日、昨日よりも今日、みたいなカンジで、どんどん美しくなっていくというか 」
「 そうじゃのう・・・あれもそのうち、よい縁組があれば薦めてやりたいのう 」
戦火の中で拾ったという少女を、お館様は大層気に入っていた。
両親を失った彼女も、お館様を実の父親のように慕っているのがわかる。
全幅の信頼を持って、誠心誠意勤めているのは、屋敷の誰もが知っていた。
だから、お館様付きという役目を、まだうら若い彼女に託したのだった。
呵々と笑ったお館様の目を・・・某は、見ることが出来なかった。
「 ( 殿が・・・お館様の決めた相手の元に、嫁ぐ・・・ ) 」
そう考えるだけで、目の前が暗くなった。
彼女が、誰かのものになる。笑顔も、涙も、心も、身体も、全部。
・・・そして、昨夜見せた彼女の『 一面 』も・・・。
思い出すだけで、またじわり・・・と掌に汗をかいて、履いていた袴に擦りつけた。
「 ・・・どしたの、旦那。さっきから、何か変だけど 」
「 い・・・い、や 」
「 わかった!俺様の見てないところで、拾い食いでもしたんでしょ!?あー、情けないったら 」
「 幸村よ、具合が悪いのなら、本日は下がっても良いぞ 」
「 いえ・・・その、何でもございませぬ! 」
「 怪しいなぁ・・・俺やお館様にも言えない様なこと、したんじゃないんでしょーね? 」
「 ちっ、違・・・っ!! 」
「 お待たせいたしました 」
喧騒の中でも動じず、殿が菓子の載った盆を持って部屋に入ってくる。
まずお館様へと茶を出し、今度は某の前へ。左手で着物を袖を押さえながら、湯飲みを置いた。
音もなく零れる長髪の間に彼女のうなじが見えたが、昨日と変わらず白かった。
「 ( ・・・もし、あれが夢でなければ ) 」
自分は、この白い領域に踏み込んだはずだ。神々しい、と思うくらいきめ細かな肌。
触れたい、と思うと同時に汚してはならぬとも思っていた。自分の手は、武人のそれだ。
けれど・・・昨夜は、その肌に牙を立てた。
立ててみて初めて『 憧れる 』と同時に『 壊してみたい 』とも思っていたのだ、と自覚した。
彼女が痛い、と泣く。吸い付いた痕の上を、頬を伝った涙が筋を作る・・・。
・・・しかし、その首筋に、つけたはずの痕はなかった。
「 ( やはり、夢だったのか・・・ ) 」
だとしたら、なんと残酷な夢だろう・・・。
こうして目の前にいる彼女を、襲ってしまいたいほど・・・胸が、熱い。
細い腰を引き寄せて、無理に肢体を開かせて、組み伏せてしまいたい。
お館様や佐助の前だというのに、一向に収まる気配を見せない・・・欲望。
心の奥底から燃え盛る『 欲 』の炎が、今にも理性を飲み込んでしまいそうだ。
一度外れた獣の鎖を、再びその首にかけることが出来ない・・・。
お館様に、一度鍛錬でもつけてもらえばすっきりするのだろうか、と考えた矢先だった。
「 ・・・あっ、 」
耳元で小さな悲鳴が上がった。と思えば、殿の身体が横に倒れた。
片手で差し出そうとした菓子の盆が、思いのほか重かったらしい。
傾いた身体を抱きとめる。ぱらぱらと、菓子の落ちる音が響いた。
「 ちゃん、大丈夫かい?どうしたのさ、そんなフラフラで・・・ 」
「 な・・・何でもございません・・・。ゆ、幸村様、申し訳ございません 」
「 ・・・いや、大丈夫でござるか? 」
「 はい、失礼いたしました 」
そうは言っても、上手く力が入らないのだろうか・・・。
起こし辛いようなので、手伝おうと彼女の肩に手を伸ばせば、びくり!と大きく揺れる。
彼女が、慌てて乱れた着物を調えようと、捲くれていた裾を直した時だった。
「 ・・・・・・お館、様・・・ 」
「 どうした、幸村 」
「 申し訳ござりませぬ・・・・・・御前、失礼致しまするっ!! 」
「 ・・・え、あっ!! 」
「 ちょっと旦那!?・・・え、ちゃんまでっ!? 」
お館様の驚いた顔も、佐助の仰天したような声も、今の自分には届かない。
殿の手首を掴んで、逃走するかのごとく、広間を後にした。
彼女は、ただ、ただ、絶句したように、何も言わずに某の為すがままになっていた。
すれ違う者たちが、驚いたように遠くから早足に去っていく二人を見送る。
やがて、長い廊下の先にある自分の部屋に着くと・・・。
近くにいた小姓に、しばらく誰も近づけるな、と言い渡して、障子を閉めた。
「 ・・・・・・殿 」
「 ・・・おやめ、くだ、さいませ・・・幸村、様・・・ 」
投げ入れるようにして、部屋に放り込んだ殿が、中心で立ち尽くしていた。
後ろ手に、障子がしっかり閉まっていることを確認すると、全身を震わせた彼女へと近づく。
一歩ずつ、踏みしめるように進む某に、彼女ははっとして怯えた顔を上げた。
薄暗い部屋の中でもわかる・・・今、殿が、どれだけ青ざめているか。
ゆっくりと伸ばした腕が、触れる寸前で・・・彼女は、膝を追って畳に平伏す。
「 殿・・・頼む、面を上げてくださらぬか・・・ 」
自分の声も、震えているのがわかった。
「 ・・・昨夜のこと、は・・・夢だと思って、どうぞお忘れください 」
「 そのようなこと・・・出来る、わけがない! 」
「 いいえ、お忘れくださいませ! 」
「 出来ぬ!!! 」
伏した彼女の腕を掴むと、力任せに持ち上げる。殿の瞳が、大きく開いた。
着物から剥き出しの二の腕を擦ると、その奥から現れた・・・紅い、花びら。
これが証拠だといわんばかりに見せ付けると、彼女は悔しそうに涙を零した。
「 ・・・白粉で、痕を隠していたのか 」
「 お願いです、幸村様・・・これ以上、私を苦しめないでください・・・ 」
「 何故だ、何故そなたを苦しめることになるのだ 」
「 私、幸村様を・・・幸村、様を・・・お慕いしております。
お館様付きの侍女になれた時、少しでも近づけることが何よりも嬉しかった 」
「 ならば、尚更ではござらぬか!某も、殿を・・・ 」
「 それ以上、口にしてはなりません! 」
「 ・・・殿・・・ 」
「 お忘れください・・・それが、一番なのです。幸村様にとっても、私にとっても 」
ようやく笑った殿の顔は、心底喜んでいるとは到底思えないような微笑みで。
少しでも気を緩めると、ぼろぼろと大粒の涙が頬を伝っていく。
引き攣った笑顔を見ているのが辛くなって、ゆっくりと抱きしめる。
「 どんな事態になってもよい。そなたが、愛しいのだ・・・殿が、愛しくて、たまらぬ 」
「 ・・・ゆ・・・きむ、ら、さま・・・ 」
「 ・・・・・・好きだ 」
彼女は、もう抵抗しなかった。
胸の中で、泣くばかり。そのまま畳に優しく押し倒す。
受け入れるわけでもなく、拒絶するわけでもなく・・・殿は耐えるようにじっと目を瞑っていた。
睫についていた雫が、時折震えて、涙に変わった。
ずきん、と胸が痛む。しかし、その痛みすら・・・愛する彼女が与えるものだと思えば、受け止めよう。
着物の帯に手をかけて、殿・・・と小さく呼べば。
閉ざされた瞼が、重そうに、ゆっくりと持ち上がった・・・。
「 そなたを・・・愛して、すまぬ・・・・・・・・・・・・赦せ 」
帯を一気に解き、二人の身体は熱く燃え盛る炎の中に消えていった。
嗚呼、
世界の狂気に沈む。
( 誰か・・・誰か、この胸の劫火を鎮める術を教えてくれ・・・! )
Title:"TigerLily"
Material:"七ツ森"