今夜は、星空が煩い。
・・・こんな日は何をしても駄目だ( 若、言い訳でしょ?と岱に呆れられても、だ )
戦の最中に溜まった執務をこなすのも己の役目だとわかっていても、気づけば竹簡ひとつ片付けられない。
故郷を離れ、この成都で執務をこなす武将となった今でも、自分の精神は自然と融合していると思う瞬間がある。
瞳を閉じれば思い出す西涼の景色。そこに吹く風、砂塵、草の匂い、広がる空まで『 繋がって 』いるような・・・。
はあ、と溜め息を吐いて窓を開け放つ。執務室は3階だった。
夜空を仰げば無数の星が瞬いていた。きらきらと、大小の音を連ねて小波のように俺の耳を転がっていく。
心地良いその音に耳を傾けて『 自分 』を空へと解き放つ・・・一歩手前で。
階下から聞こえたくしゃみに、集中力が途切れた。
「 ・・・・・・? 」
敷地の隙間に設けられた小さな庭に立つ人影。
風に飛ばされぬよう、羽織を押さえて空を見上げた顔はよく知っている人物だった。
どこから名を呼ばれたのかと辺りを見渡していたが、ここだ、と手を上げると彼女は驚いたように後ずさる。
「 ば、馬超さまっ!? 」
「 おう!どうした、こんな夜更けに 」
「 それはこちらの台詞です。珍しいですね、こんな深夜までお仕事されているなんて 」
・・・渋々だがな、と嫌そうな声を出せば彼女は控えめな声で笑う。そうだ、今は深夜なのだ。
あまり煩くしては、同じようにこの時間まで仕事に精を出している輩から苦情が来よう。
俺は椅子にかけてあった上着を掴むと、飛んだ。文字通り、3階の窓から階下の庭へと、だ。
があんぐりと口を開けて身体を固まらせる。着地音もなく静かに降り立つと、彼女へニッと笑って見せた。
褒めてもらえると思ったのに・・・は俺の得意顔など気にせず、怒りの形相で詰め寄る。
「 なっ、なんて危ないことをッ!馬岱さまに言いつけますよ!? 」
「 う・・・それは困る。よ、よし!口止め代わりに良い場所へ連れて行ってやろう。折角だから俺に付き合ってくれ 」
「 口止め、というよりも・・・本当は、馬超さまが付き合って欲しいのでしょう? 」
「 ・・・まあな、そうとも言う。で、付き合ってくれるのか、くれないのか? 」
素直じゃない上にせっかちなんですから、と苦笑した彼女は頷こうとして・・・はっとして足を止めた。
どうした、と尋ねると、息抜きと思って出てきたので出かける用意をしていないのだと言う。
「 、これを使え! 」
上着を取りに行って来るという彼女を呼びとめ、執務室から持ってきた上着を放る。
慌てて受け止めたは・・・眉を八の字に寄せて大きく笑った。
「 馬超さまってば・・・もしかして声をかけたときから、私と出かける気満々だったのですか? 」
「 誘った方が相手を気遣うのは当然至極。これで文句はなかろう、さっさと行くぞ 」
「 ・・・っとにもう、我侭なんだから。馬岱さまの気苦労が増えるのもわかる気がします 」
「 何か言ったか? 」
「 いーえ、何でも 」
ぷい、と顔を背けたの腕を取る。彼女は少し驚いた様子だったが、ほら行くぞ、と声かけると頷いた。
厩舎で眠っていた馬を起こし、羞恥に騒いで暴れようとしたを黙らせて、膝の上に乗せる。
他の奴らには内緒にしてくれ、とそっと衛兵に門を開けさせると、2人で星空の彼方へと踊り出した。
持ってきた上着は早速役に立ったようだ。走り出して間もなくして、が手繰り寄せて自分に巻きつけていた。
ただでさえ風が強い夜だ。が庭に出てきた時も羽織を押さえながら、だったしな。
・・・そういえば、彼女はどうしてこんな時間まで執務していたのだ?
は優秀な文官だ。遅くまで残っていることはあっても、深夜まで残業するようなことは今までなかったのに。
「 どこまで行くのですか? 」
膝の上で馬に揺られるのにも慣れてきたのか、いつも通りの口調でに尋ねられた。
「 もうそろそろ、だ。成都の西にあるこの草地は、静かで星見をするのにはもってこいだからな 」
「 星見・・・? 」
ここでいいだろう、と愛馬の足を止め、膝の上の彼女を肩に担ぐと馬の背から降りる。
ぎゃあッ!と色気の欠片もない悲鳴を上げて暴れていただったが、ふと目に付いたのだろう。
その地に広がる夜空に、心を奪われたかのように・・・今度は感嘆の声を上げた( それこそ俺の聞きたかった声よ )
肩から下ろしたことにも気がついていないような様子で、空を見上げたままだ。
くるくると旋回し、均衡を失ってがくりと膝から落ちた身体へと手を伸ばす。けれど彼女は見上げたままだった。
空と彼女の間に割り込んで見下ろすと、はうっとりと瞳を瞬かせる。
「 どうだ、驚いたろう 」
「 ・・・はい・・・とっても驚きました、です 」
変な言葉遣いだ。こいつ、今、正気ではないな、と苦笑混じりに彼女を地面に下ろす。
上着を被ったまま、座らずに寝転んで空を見上げている。俺も・・・その隣に腰を下ろすと同じように横になった。
しばらくはお互い黙ったまま空を見上げていた。濃紺の天幕に見惚れていると、ふいに草の音が耳をつく。
ねえ、と声がして・・・気がつくと、今度は彼女が俺と夜空の間に割り込んでいた。
あまりの近さに、顔が火照るのを止められない。声が上擦ってしまった。
「 ・・・うっ、うわ、わああああぁッ!! 」
「 あ、酷い。ねえ馬超さま、馬超さまは時々ここへいらっしゃるのですか? 」
「 え・・・あ、ああ。煮詰まったり、悩んだり、故郷を思い出した時なんかに、な 」
俺の故郷は、気軽に『 還れる 』土地ではない。彼の地を守っていた我ら部族は滅びた。
父を、一族を、土地を・・・全てと別れ、馬岱と蜀に来てから随分と月日が過ぎた今でも、時折思い出すのだ。
「 騎馬民族である俺は、自然と一体になって育った。だからだろうか・・・こんな星降る夜は落ち着かない 」
そう言うと、割り込んでいた身体を正面に戻して、彼女はそうですかと静かに呟いて微笑む。
哂われても可笑しくない告白だったのに、と思うと同時に、何故彼女にこんな話をしてしまうのかわからなくなった。
突然恥ずかしくなってきて、次の話題を探そうとしていたところで、今度はが語り出す。
「 私も、です。仕事に疲れて窓から星を眺めていたら、室の灯に気づいて。
ああ、まだ居るんだって思ったら、今度は何しているんだろうって気になったら目が離せなくなっちゃって・・・。
こんなんじゃ駄目だって、眺めているだけじゃ叶うわけないって、わかってるのに 」
「 ・・・? 」
「 でも手を伸ばして触れなければ、護れるものもあるって思いませんか?壊してしまうより、ずっといいって。
私のことなんて女として見られていないってわかっていても、今の距離を縮めるのが・・・怖いんです 」
は独り言のように呟いて、悲しそうに空を見上げた・・・・最初は、何のことかさっぱりわからないかった。
とりあえず星の話ではない。女として見られない、縮めるのが怖い距離、それはもしかして。
「 お前・・・誰かに懸想しているのか? 」
と言った瞬間に、の顔が・・・夜目でわかるくらい、紅に染まった。
「 そうかそうか!わかったぞ、さては恋に現を抜かして仕事が疎かになり残業してた、そうだろ!?絶対そうだ! 」
「 ばっ・・・馬鹿言わないで下さいッ、そそそそんな理由で仕事に影響なんて・・・!! 」
「 そうでなければこんな深夜まで残業するわけなかろう。、俺はお前の優秀さを知っているぞ! 」
「 ・・・何故、馬超さまが胸を張るのか疑問ですけど、その、お言葉は・・・嬉しいです・・・ 」
はゆるりと身体の緊張を解いて、その緊張を吐息に変えて吐き出した。
膝を抱えて空を仰ぎ見る。からかうような雰囲気でないことくらい、俺にだってわかる。
身体を起こし、袍についた草を軽く叩き起こす。同じように膝を抱えて、の見つめる方角を共に眺めた。
「 ・・・・・・好き、なのか?そいつのこと 」
優秀なお前を『 現 』から引き離すほど、好いた男がお前の胸の中に居るのか。
「 はい・・・お慕いしているって、つい最近気づいたばかりなんですけど、ね 」
苦笑交じりに、空を眺める彼女の横顔を・・・純粋に、美しい、と思った。
・・・これが恋をする女の表情、というやつか。
俺にそういう顔を向けてきた女はいくらでもいたが、初めて見るような心地だった。
だっては、出逢った時から蜀の優秀な文官の一人で。話す機会が増えれば、次第に気が合うのがわかって。
兄妹みたいだと周囲からからかわれても、じゃじゃ馬な妹はいらん!と哂うと、同感です!と腹を立てて・・・。
この『 苦味 』は、恋に目覚めた妹を失う兄の気持ち、なのか・・・本当にそれだけ、なのか?
風が吹く。草原は音を立て、黒髪を靡かせたは身を縮めた。
その肩を自分の近くに引き寄せる。は顔を上げたが・・・俺は下を、彼女を見つめ返すことは出来なかった。
「 ・・・どんなヤツなんだ、そいつは 」
恐らく呆気にとられていたのだろう。ぽかんと開けていた口を閉じると、俯いて小さく微笑んだ気配がした。
「 そうですねえ・・・いつもすっごく意地悪で、悪戯も好きです。怒られてる姿を見ると子供だなって思います 」
「 お、俺はそんなこないぞッ!岱は俺に対して遠慮がなさすぎるのだ!! 」
「 でも時々、ふいに優しくなるからすごくドキドキします。だから私のことも、ちゃんと見て欲しいなって。
今より近づきたい気持ちもあります。私から一歩踏み出そうにも、まだ勇気がないんですけど。
でも・・・想いが深くなるほど、今のまま微温湯に浸かってるのも悪くないって気持ちもあって鬩ぎ合うんです 」
「 ふむ、微温湯とは上手い表現だな・・・・・・・って、む? 」
・・・何なんだ、この会話は・・・ついの『 恋の相手 』に張り合ってしまった。
まるで自分に言われているような気になってしまったが俺のことではない。あくまで、相手の話だ。
なのに・・・これでは俺が『 意識 』してしまっているみたいではないかっ!
かあ、と頬に熱が宿る。これでは、ますます下が見辛い。
抱き締めない方が平常心を保てたかもしれない、と後悔すればする程、彼女の肩を抱く手のひらに力が入る。
反比例する身体と心。どうしてよいかわからず、落ち着かない俺はから距離を置くように腰の位置をずらした。
そんな気はなかったのだが・・・つい、距離を更に取ろうとして、肩を抱いていた手で突き放してしまった。
あ、と反射的に見やると、彼女が傷ついたように目を見開いていた( し、まった )
「 お・・・俺は何も『 意識 』しているわけではないぞ!お前は・・・妹、のような存在だからなッ!! 」
だから兄貴分として心配しているだけだ、他意はない、と力説するように言い放つ。
・・・あ、安心させようと思ったのだ!距離は取ったのは、の懸想する相手に気を遣ったつもりなのだ、と。
( 少々子供染みた言い訳に聞こえるかもしれんが・・・ )
瞠っていた目にふっと悲しみの色を称えたが、すぐにその憂いを隠すように彼女はふわりと微笑んだ。
「 ・・・そう、ですよね。それに馬超さまには蜀の猛将となり一族の敵を討つ、という使命があります。
もし・・・もしも、私が貴方を好きでもそれを妨げるような真似はしません・・・決して 」
「 そ・・・そう、か・・・うむ・・・・・・ 」
「 ・・・・・・・・・ 」
こくり、と一度頷くと、彼女は俯いていた顔を夜空へと向けた。
本当はどんな表情を浮かべているのか心配にだったのに、確認することはできなかった、けれど。
・・・は泣いているのだろう。必死に隠そうとしていたが、密かに鼻をすする音がした。
かつてない沈黙の刻を向かえ、俺とは星空の下、ただただ黙って空を見上げた。
星は変わらず、きらきらと煌いては夜空で音を奏でている。
・・・けれど全然『 集中 』できない。俺の耳に入るのは、の頬を伝う涙の零れる『 音 』だけだった。
「 ( ・・・・・・俺は・・・ ) 」
俺は、お前に・・・そんな風に泣いて欲しくない。どうしてそんなに悲しむのだ、頼む、泣かないでくれ。
そう言って彼女を抱き締め、慰めるのは簡単だ・・・だけど、こいつには想い人がいる。
真面目で、どんな時も大切な『 存在 』である彼女を変えてしまうほどの、男。
・・・誰だ、そいつは。部屋の灯を煌々と照らしているくらいだから、同じ真面目な文官か。
知っている文官の顔が脳内でちらついた。今、目の前に居たらどいつもこいつも殴ってやりたい気分だった。
が恋慕う男は自分じゃない・・・そう想えば想うほど『 苦味 』が己を侵食していく。
胸を占める、張り裂けそうで甘酸っぱい痛み。
どうして傷むのかわからなくて、惑う。ただわかるのは、始まりと終わりはいつだって隣り合わせだということ。
の言う通り、そこに触れる勇気は俺だって持ち合わせていない。
答え次第で、俺は自分自身をも『 変えて 』しまうのだろう。故に、恐れている。
今の俺に出来るのは、痛みに暴走しないように片手でこっそり胸元を強く掴むこと、と。
の涙に気づかない振りをしてやること・・・それを拭うことは、俺の志を知る彼女をも侮辱してしまうから。
2人並んで見上げる夜空は、この世のものとは思えないほど美しく・・・酷く、儚かった。
あなたに届かない手なら
星 を 掴 め て も 意 味 が な い
( 曖昧に手を伸ばすより、この『 距離 』にいれば・・・お前の傍にいられるのは確実だから、な )
Title:"capriccio"