今日はお願いします、と頭を下げると、向かいに座った彼は、こちらこそ、と笑った。
 どこがわからないんだ、と聞かれたので、数学の教科書を広げた私は、ここ、と指差した。
 ああ、これは加法定理を使うんだよ、と言われて頷く・・・頷いた、のだけれど・・・。




「 こらっ! 」




 ぽこ、と丸めたノートの一撃が炸裂する。痛みより眠りから醒める衝撃の方が強かった。
 はっと目覚めた目の前に、眉を吊り上げた趙雲さんを見て、血の気が引いていく。


「 あの、あの、ご、ごめんなさい!忙しい時間を割いて教えてもらっているのにっ 」


 勉強教えてと言ったのは私だし、ね、寝るつもりなんて決してなかったのに!
 青くなった私を見兼ねてか、険しさがふっと弱められたのが解った。


「 私なら大丈夫だ。はあまり眠っていないのか? 」
「 ・・・昨夜はちょっと遅くまで勉強してて。もうすぐ期末テストも近いし 」


 だからこそ普段解って当然の問題も、急に答えがわからなくなってしまう。
 約束している時間だけじゃ間に合わなくて、家庭教師の趙雲さんのところへ押しかけて教わる羽目になる。
 本当はとっても恥ずかしい。手間のかかる生徒だって思われたくないのに・・・。


「 そんなに不安にならずとも大丈夫だよ、。お前ほど優秀な生徒に私は逢ったことがない 」


 趙雲さんはそう言って私の肩に手を置いた。つい、その手の重みがどうしようもなく嬉しくて。
 離れた後も温もりを閉じ込めるように自分の手でそっと触れてから・・・慌てて振り返る。
 彼は何か思案しているのか、目を瞑って考えている様子だった。それを見てほっと胸を撫で下ろした。
 ・・・趙雲さんは気づかない。それをいいことに、無意識に好意を見せるようなことしちゃだめだ。
 気づかれて、今の関係が壊れるくらいなら・・・このまま『 生徒 』と『 家庭教師 』で構わない。
 私は気を取り直して、教科書を捲った。


「 趙雲さん。次のこの設問、途中までは出来たんだけど・・・ 」
「 ああ、これはひっかけ問題だな。解けたところまでやってごらん 」


 はい、と頷いて、ノートに公式を書いていく。芯が紙の上を滑る音がした。
 問題に真剣に向き合うこと5分。やっぱり同じところで躓いて・・・ギブアップ宣言。


「 すみません、これ以上は・・・ 」
「 いや、ここまでよく解いたな。そこからは頭を柔らかくして解く必要がある、いいか? 」


 彼は指で私の計算式を示しながら、解き方までのプロセスを教えてくれる。
 ・・・が、そのうち、しかめっ面になっていたのだと思う。正直、口頭だけでは解り辛い部分だ。
 向かい合うかたちで教えてくれるには限界があった。それは趙雲さんも感じていたみたいで、


「 ああ、やっぱり隣で書いて見せないとダメだな 」


 と言うなり、すくっと立つと私の隣へと腰を下ろす。
 小さいテーブルだったので隣、といっても驚くほど距離が近い。
 そう感じたのは、長めの前髪が自分の視界で揺れたから。はっと気づいた時にはもう遅い。
 いいか?ここは次に公式を使えるように値を・・・と趙雲さんの声がしたけれど・・・。 


「 ( ど、どうしよう、全然頭に入ってこない!! ) 」


 耳元で囁かれる声音に耐え切れなくて、思い切ってそっと視線を持ち上げて、どきりとした。
 彼も私を見ていた。漆黒の瞳は間近に迫っていて、その中に頬を染めた私が映っていた。
 時折瞬くまつげが長くて、綺麗で、つい見惚れてしまい・・・目が合って嬉しいのに、逸らしたくなる。
 何か言わなきゃ、って思うのに何の言葉も思い浮かばなくて、私はただ黙っていた。


 その時・・・一瞬だけ視界が暗くなる。気がついた時には、趙雲さんの顔は元の位置にあって、って、え?










「 ・・・すまない、せめてが高校を卒業するまでは、待つつもりだったんだ。
  でもあまりにが、私を意識してくれているから、つい・・・嬉しくて 」










 呆けている私に降る、二度目のキス。手の中のシャープペンが、ぽとりとテーブルに落ちた。
 頬に添えられた手が、私の顔をそっと持ち上げる。




 こんなこと初めてでたくさん混乱してたはずなのに、自然と瞳を閉じた。






































 柔らかい唇の感触を受け止めながら・・・ようやく気づいた。


 とうに私の気持ちなんかお見通しで、解いて欲しい『 公式 』は私の心のなかにあった、ってことに。






となりの趙雲先生



( 私の方こそ、本当はずっと前から『 生徒 』と『 家庭教師 』という関係では耐えられなかったんだ )

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