今夜は珍しく静かな夜だった。
急病人が運ばれてくることもなく、入院している患者も大人しい。
静かだからこそカルテの整理をしていたのだが・・・どうも集中できない。
重くなってきたペンを置いて席を立つ。がらり、と廊下に扉を開く音が響いた。
静まり返った無機質な病棟の廊下。いつもなら気にならないはずのシューズの音が鳴っている。
ふたつ廊下を曲がった先にある自動販売機に、煌々と明かりがついている。
ナースステーションから離れたそこは、患者も関係者もあまり利用しないのだが・・・。
「 あ、片倉先生。お疲れ様です 」
見知った先客に、頬が緩んだ。彼女の持っている紙コップから湯気が出ている。
・・・俺もホットにするかな、とブラックコーヒーのボタンを押した。
かこん、と乾いた音を立ててカップが落ちると、コーヒーを注ぐ音がした。
「 も夜勤か?今日は休みの予定じゃなかったか 」
「 風邪引いちゃった子がいたので、代わりに。って、私のシフトまでよくご存知でしたね 」
「 あ・・・ああ、そ、そうか? 」
「 ふふ、片倉先生は他科まで目が行き届くなんて凄いですね 」
わざとらしい誤魔化しにも気づかず、彼女は微笑んでコップの縁に唇を付けた。
化粧などしなくとも薄紅に色づいた唇に見惚れている自分に、何気なく彼女が振り向く。
俺は慌てて次の話題、次の話題と話のタネを探した。
「 さ、最近はどうだ?転科してしばらく経つが・・・ 」
は他科のナースだが、半年前までは同じ科で働いていた同志だ。
彼女の周囲はいつも明るさに満ちていて、患者も同僚も誰しも惹かれていた( 俺も含め、だが )
だから転科には賛否両論あったが、彼女自身が希望したことが決定打になった。
コーヒーを啜る俺の隣に座った彼女が、膝の上で組んだ手を見つめたまま小さな溜息を吐いた。
「 新しいことを学ぶことは、刺激になります・・・でもお逢いできなくて、正直とても寂しいです。
同じ病院にいるって解ってても、何だか遠く感じるんです。
あの時はこれ以上一緒にいたらダメだって思ったから、転科を希望したのに・・・ 」
「 ・・・・・・・・・ 」
・・・逢いたい『 誰か 』がいて。その相手となかなか逢えていない、ということは解った。
手に持っていた紙コップに力が入り、めき、と軽く音を立てた。
それを見た彼女が蒼褪め、いいい今のは不純すぎますね!なしで!なしでお願いします!と弁解する。
・・・が、時既に遅し。俺の理性はとうに崩壊寸前で。
自分のコップを飲み干し、慌ててその場を後にしようとする彼女の手首を掴んだ。
ぎょっとしたが俺を見下ろす。その瞳には、必死に引き留めようとする俺の顔が映っていた。
「 俺は・・・、お前を手放したくなどなかった!! 」
必死に縋りつくなんざ、格好悪いオトナだ、と思う。
だが、縋りついてでも引き留めたい。俺の胸にはどうしても伝えたい言葉が、気持ちがあった。
「 本当は、誰よりお前の存在に癒されていたのは俺だ!可能なら、ずっと一緒に働きたかった 」
「 か・・・たくら、先生・・・ 」
「 の・・・その『 誰か 』に逢いたいと思う気持ちには悪いと思う!
だが、そうだと知っていたら手放すなんて真似、俺は、 」
「 あ、あのっ! 」
が、声を上げる。
それは静かな廊下に木霊し、再び静寂を取り戻す頃には俺の心も平静を取り戻していた。
・・・伝えたい気持ち、なんて言葉で誤魔化したが、それは俺の醜いエゴでしかない。
一方的な気持ちの押しつけなんて、叶わない恋の八つ当たりでしかなかった。
その事実に自分自身で気がついた時、その場で火が出るほど赤くなったが。
さっきまで青かった彼女の顔が、今まで見た誰よりも真っ赤になっていた( きっと・・・俺よりも )
「 あ・・・あの、私・・・ただでさえ、ずっと『 片倉先生 』に逢えなくて寂しかったのに。
そんなこと言われたら、い、嫌でも期待しちゃうんですけどっ・・・! 」
私の気のせいじゃなければ、期待してもいい、ですか?
静かな病院の片隅で呟かれた深夜の告白に、俺は彼女を抱きしめる。
彼女と俺の分の、空のコップが・・・床に落ちた。
例えばあたしがナースで
あなたが医者だったなら
( いつも探していた、目で追っていた。貴方の存在を必要としていたのは、私の方なんです )
title:ユグドラシル
拍手、有難うございました。貴方の拍手が、私の元気の源です。
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10.?( secret )
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