「 すっ、すまない、殿。大丈夫でござるか? 」
慌てて手を差し伸べた。が、先程とは打って変わって、小さな声で答える殿。
「 ・・・うん、大丈夫 」
殿はそう言うと、スカートの裾を払いながら自力で起き上がった。
差し出した手は意味を失って・・・そっと引っ込める。
・・・遅かった。手を差し伸べるタイミングではなく、殿の変化に気付くのが、だ。
ずっと手が暖かかったのは、彼女の温もりがあったからだろうか。行き場を失った途端、それは急に冷えた。
「 ・・・殿? 」
「 元の・・・最初の水槽まで戻るんだよね?ペンギンもいるかな 」
「 あ、ああ。確か途中にいたでござる。横長の水槽があったから・・・ 」
「 行こう、幸村くん 」
その笑顔が作り物だということくらい、某にも解る。
駅でお互いを見つけた時、水族館に入った時、水槽に見惚れた時、イルカショーを隣で見ていた時。
彼女の笑顔は、常に『 心からの 』ものだったのに。ボタンを掛け違えてしまった時の、そんな感覚。
呆然とする某を置いて、ペンギンのいる水槽を地図で探している殿。
歩き出すその背中を後から追いながら、どうしてこうなったのか・・・思い出してみる。
毛利殿と竹中殿に見つからないよう、興奮冷めやらぬ殿を促して、ショースペースを後にした時だ。
『 ウミガメ 』の看板を指差す彼女の要望に、某は迷ってしまった。
エリア近くでうろうろとしていては、いずれショースペースを出てくる2人に見つかってしまう恐れがあった。ようやく入口でも避けてきたばかりだというのに・・・誰かに見つかっては、某の、お、おも、思惑が水の泡になってしまう!( 何が何でも避けたかったのでござる! )
「 ( いや、でも・・・殿が強請ることなど、なかなかないのだし・・・ ) 」
感情をひたむきに閉じ込めてきた彼女が、少しずつ少しずつ、自分の意見を口にするようになったのだ。
か、かかっ!彼女のおおおおねだりひとつ聞けずに、こここ恋人同士などと言える、だろうか・・・ッ!
( いや言えぬであろうぞぉぉおおおッッ!!! )
一気に昇った血圧に鼻息を荒くして唸っていたが、感じていた僅かな重みがとれて、ふと見やる。
某の服の袖を握っていた指が離れたようだ。だが、驚いたのはその時の彼女の表情だった。
「 殿? 」
口元は笑っているのに、瞳はビー玉のような色を放っていた。
美しいが生気のない光。某の声に気付いてはっとした途端、光が戻る。
ウミガメ、見るのでござろう?と伺うように恐る恐る尋ねると、彼女はいつもの笑顔で頷いた。
「 ( 気のせい、だろうか・・・ ) 」
そうであればいいが・・・と思った矢先のこと。
スロープを下りて1階の水槽へ辿り着き、ウミガメ鑑賞を堪能していた時だった。
甲羅の濃淡を見比べるために、少し屈んだ殿が遊泳するカメを夢中で眺めている。
そんな彼女を微笑ましいと見つめていた某の耳に、またもや・・・聞き慣れた声が耳に入ってきた!
「 おお、天気がいいだけに見晴らしがいいな。そう思わないか、市 」
「 ええ、本当に 」
ふふ、と控えめながら鈴を転がしたような音色が響く。その鈴の音は、深黒の髪のクラスメイトを連想させた。
辺りを見渡して声の出所を突き止めると、某は必死に予め脳内に詰め込んでおいた館内地図を思い出す。
建物の外に面しているため、他の展示物とは孤立していたウミガメの水槽だったが、ショースペースの斜め向かいにカフェテラスがあったはずだ。その屋外テラス席が・・・ウミガメスペースの真上に位置しているはず!
「 真下はウミガメがいるらしいぞ。カメに案内してもらう竜宮城には乙姫という美しい女性がいると言うな。
はっはっは、まあおとぎ話だが・・・って、どうした、市?顔が怖いぞ 」
「 ・・・長政さま・・・市、浮気は嫌・・・浮気は・・・赦さない・・・ 」
「 はっ!?浮気?いや、ま、待ってくれ!待つのだ、市!!
だから、あくまでおとぎ話だぞ!?皆知っている浦島太郎の一説で・・・ 」
「 たとえおとぎ話でも、恋人の前で他の女の話をするなんて・・・っ! 」
姿を探すまでもなかった。立ち昇る殺気が、黒く渦巻いて天に昇ったからだ。
( ううむ・・・某も、世間一般の浮気と称するものとは違う気がする、のだが )
問題はその後だ。がたた!と( 恐らく浅井殿が )慌てて逃げるように椅子やテーブルを動かす音がした。
・・・ま、まずい!彼らが動いた拍子に階下を覗くやもしれぬ・・・ッ!!
「 ・・・ッ!! 」
水槽が低いせいもあって、より低い体勢を取らないと相手に見つかってしまう可能性があった。
殿の方を引き寄せて地に伏せる。咄嗟に、彼女が息を呑むのが解った。勢い余ってバランスを崩した某たちは、そのままもつれて転ぶ。受け身をとれなかった殿が尻餅をついた。
どさり、と転がった殿のバックの音を聞いて、初めて自分がとった強引な行動から目が覚めた。
「 すっ、すまない、殿。大丈夫でござるか? 」
・・・そこからは、冒頭に戻るのでござる。
ペンギンのいるガラスの水槽にはたくさんの人が集まっていて。
殿もその一人。子供と、その後ろに立つ大人の隙間を探そうとして爪先を伸ばすが、なかなか見えないらしい。
某は通路の壁にもたれて彼女を見守っていた。後ろから見ている分にはペンギンに一生懸命な様子だが、顔を合わせずに済むことで、どこかほっとしているようにも見えてしまう。
( そう考えてしまう某は、卑屈でござろうか )
やはり・・・というか高い確率で、避けられている気がする・・・。
「 ( 確か、に・・・過剰に反応して、理由も知らない殿を振り回してしまった、と思う ) 」
自分たち以外が来ていると知れば、優しい彼女のことだ。
きっとみんなで一緒に見て回ろうよ!と言うに違いない。以前はそう言われても気にならなかった。
今までだって、せっかくできた友達を大切にしたいと願う彼女の気持ちを尊重してきた、つもりだ。
けれど、きょ、今日だけは承服しかねる。某が嫌なのだ!今日は特別な日。春休み前から待ち焦がれた一日。
こい、びととなった初めてのデート、で・・・殿と某、二人っきりで過ごす特別な・・・。
・・・だけど、ふと気づいてしまったのだ。
「 もしや・・・そう思っていたのは、某だけなのか? 」
パシャン!
ペンギンが岩から飛び込み、水音に続いてわっと歓声が上がる。
周囲にいる人々の関心は、皆そちらに向いた。そう思ったのに・・・。
呆気にとられた顔をした殿だけが、こちらを振り向いていた。
「 幸村くん・・・? 」
「 ・・・あ・・・い、いや、すまぬ!某、声に出て・・・しまったのでござろうか・・・ 」
声に出たといっても呟きに近かったようで、内容まではわからなかったようだ。
曖昧に頷いて、心の声が口に出ていたことだけ肯定すると、ペンギンにはもう目もくれずにゆっくりと近づいてきた。離れて立っていた某を、緊張した面持ちでじっと見つめて・・・何か言おうとしているのか、薄く唇が開く。
いつもとは違う、某のために着飾ってくれた・・・殿の、唇が。
「 次は・・・何を見に行こうか 」
某の唇も、戦慄いていたかもしれぬ。少し震えた声で、頭の中で考えていたこととは全然別のことを・・・殿に尋ねた。あ、と殿が呟いて、慌てて地図を開く。
時々、顔色を窺うように某と地図を見比べて、最終的にどこでもいいよと言った。
「 どこでもいい、ではなく、殿の要望を聞きたいのだ 」
「 え・・・で、でも、さっきから私ばかり我儘言ってて・・・幸村くんは何か見たいものないの?
水族館を選んだのは幸村くんだから、てっきり何か見たいんじゃないかって、私・・・ 」
「 ・・・・・・・・・ 」
押し黙った某を見て、彼女も絶句したように・・・俯いた。
向き合ったまま無言で俯く2人。傍から見れば、喧嘩したカップル、に見えるであろう( 喧嘩、ではないが )
・・・気の利いた言葉ひとつかけていれば、こんな・・・こんな心苦しい空気にはならなかったのやもしれぬ。
ぎゅっと拳を握りしめたまま、2人共動けずにいたのに、こんな時でも某の背中を押したのは、彼らの声だった。
「 もうすぐペンギンコーナーです・・・あ、あのっ、恐れながら立ち寄っても良いでしょうか。
勿論、謙信さまが他にご覧になりたいものがあれば、そちらを先に・・・ 」
「 じざいふき。あなたのこころのおもむくままに、みてまわりなさい。
さあ、まいりましょう、わたくしのうつくしきつるぎ 」
「 ああっ、謙信さま・・・ッ!! 」
市殿とは対照的に、やってきた彼女の周囲には、ぶわわわっ!とバラ色のオーラが放たれているのだろう。
困惑しているままの殿の手を素早く引っ張る。拒否するように踏みとどまったが、もう一度引っ張れば強張りを解いてついてきた。
・・・とにかく、ここを離れなければ誤解を解く話し合いすら間々ならぬ。
どこをどう走ったかわからない。さらに階段を下り、地下のフロアへ踏み入れると、足元がすうと暗くなっていく。
グラデーションを織り成す蒼と黒。一度黒に飲み込まれてしまうと、申し訳ない程度に点いている電球色の灯だけが頼りだった。
前に伸びる廊下を無言のまま進む。
殿は何も言わないし、もう抵抗もしない。ただ大人しく某に手を引かれるがままになっていた。
暗くて互いの顔は見えないのに。
時間が経つほど息が詰まる思いが続くのは、光の射さない深海フロアに入ったからか、それとも・・・。
「 ( 殿と一緒だからなのか・・・だんだん、わからなくなってきた・・・ ) 」