どうしてこんなにも苦しい想いをしているのだろう。
あれほど憧れていたはずの、殿とデート、だというのに。
自然と、某の眉間には皺が寄っていたのでだろう。
話し合いの場を探して、ずんずんと前だけを睨んで突き進んでいたが、某に手を引かれて後ろに続いていた彼女の喉が、ひくっと鳴った。
慌てて足を止める。彼らから十分に距離をとったことを確認して・・・殿の顔を覗き込んだ。
「 殿? 」
「 ・・・・・・っ! 」
名前を呼ぶと、ぱちんと一度だけ目が合う。
が、すぐに避けるように左を向くと、そのまま俯いてしまった。
戸惑う某は、殿が唇を噛み締めたのを見て、更に驚く。
「 ・・・ふ、っ・・・うっく・・・ 」
凍る。
我慢していたものが一気に溢れたかのように、ぼろぼろぼろ!と大粒の滴が頬を伝って、床に落ちた。
先程、イルカやウミガメを見てあれだけ喜んだ表情を浮かべていただけに、自分の顔からさっと血の気が引いていくのが解った。
見つめる某の視線を受け止めて、戦慄く唇が消え入りそうな声で言葉を紡ぐ。
「 きっ、らわれたく、ない・・・っ! 」
「 えっ!? 」
咄嗟に出てしまった言葉なのか、はっとした様子で殿が自分の口を塞ぐ。
けれど涙は止まらないのか。肩を小刻みに震わせて、耐えるように瞳を閉じる。
・・・嫌われたくない?今、殿はそう申したのか?某に嫌われたくない、と・・・。
「 ( 馬鹿なッ! ) 」
かっと血が昇ってしまい、彼女の両肩を掴む。びく、と小さく震わせた姿に、また胸が痛んだ。
「 殿っ、な・・・泣かないでくだされ・・・! 」
「 ううっ、ご、ごめんなさ・・・っく! 」
「 某が・・・某が、そなたを嫌いになることなど・・・、っ!? 」
絶対に有り得ぬ!そう宣言して、誤解を一気に霧散させてしまいたかったのに!!
直前で、某を悩ます彼らの声が耳に届いた。
「 Uh,深海魚ってのは不気味な生き物が多いな。見てみろよ、小十郎。これなんか、ほら・・・ 」
「 政宗さま、高校生にもなってそのはしゃぎ様は如何なものかと。
いつ何時も、何事にも揺らがず大きく構えているのが、人の上に立つ者の在るべき姿というもの 」
「 見たことのないものを前にして、興奮せずにいられるほど聖人君子じゃねえよ、俺は。
それに、好奇心を失って守りに入ったらそれこそ終わりだろうよ。Nonsenseなこと言うんじゃねえ 」
「 ・・・は、申し訳ございません 」
かつかつ、と会話の合間に聞こえる靴音は、最早一刻の猶予も許されぬほど近づいている。
素早く周囲の状況を見渡す。深海魚コーナー、というだけあって仄暗いスペースではあったが、判別がつかない訳ではない。彼らがやってくる方向とは反対に、照明のない一角が見えた。
殿の肩を抱き寄せる。こちらへ、と有無を言わさず促す。返事を聞く余裕はなかった。
「 ( やはり、そ・・・某が・・・泣かせてしまった、のだろう、か・・・ ) 」
殿を導きながら、麻痺しつつあった思考を必死に稼働させて涙の原因を考える。
・・・い、いや、原因は某しかおるまい。彼女が泣いてもおかしくないくらい、冷たい態度をとった覚えがある。
イルカショーへ向かう時も、ウミガメを見に行った時も、ペンギンの水槽の前でも・・・思い返せば大人げない行為だった、と思う。それもこれも、愚かな自分の嫉妬のせいだ。
殿は、純粋な心で今日という日を楽しみにしていた。彼女を見守る政宗殿たちが妬く程。
なのに、先程某は殿を『 疑った 』。某以外の姿を見つけたら、そちらに靡いてしまう、と。
だからといって・・・胸に渦巻く感情を、彼女にぶつけていい理由にはならない。
「 ( 某は・・・殿に、何という想いをさせてしまったのだろう ) 」
涙ではなく笑顔が見たかった。今日一日は、溢れんばかりの殿の笑顔が見たかった。
「 ( なのに!某は!! ) 」
暴走が止まらない。こんなにも感情のままに行動することは、一度もなかった。
間近の壁に彼女の身体を押し付けて、両腕で檻のように囲う。
殿はもう泣いていない。恐怖に頬を引き攣らせて、怯えているように見えた。
・・・悔しくて、溜まらぬ。愛しい、愛しい、愛しい。
なのにこうして羽交い絞めることでしか、殿を引きとめることしかできないなんて。
「 私も、好き、だよ 」
けれど、彼女は微笑む。ごめんね、と申し訳なさそうに苦笑した。
そんな殿を見て、某を拘束していた黒い鎖が音を立てて解けていく。
萎れていく嫉妬の代わりに、溢れ出すのは真白い羽根のような・・・殿への恋慕。
暖かい気持ちにそっと背中を押されて、某は尊き彼女の御手に口づけた。
みるみるうちに赤くなった彼女が微笑ましくて、つ、ともう一歩距離を縮める。
その距離が『 ゼロ 』になった瞬間の気持ちを・・・某は、表現できる言葉を持ち合わせていない。
名残惜しそうに離れる唇。は、と零れた吐息すら鼻にかかる。
後から恥ずかしくなってきて、どんな顔をしたらいいか解らず、某は殿を抱きしめた。
強張ったままだったが、徐々に肩に預けてくる重さが愛おしい。
やがて、わっと沸いた歓声に2人で振り向く。あ・・・ああ、そういえば、アクアリウムが近くにあったでござるな( 某は、てっきり・・・某たちのことか、と・・・ )
そんな風に自惚れた考えを持った自分にかっと赤くなったが、目の前の殿の姿が消えてすぐに正気に戻る。彼女はその場に座り込み、茹蛸のような赤い顔で照れた笑みを浮かべた。
「 ご・・・ごめんなさいっ、あ、の・・・腰が抜けちゃって・・・ 」
と言ったので、ぷっと吹き出してしまう。
「 ふはっ、はは、あはは・・・!! 」
「 ・・・っ!!酷い、幸村くんっ!! 」
「 ふふっ、すまない、殿 」
もーっ!といきり立つ彼女の手を引っ張る。
軽く足踏みして、しっかり立てることを確認すると・・・意外にも、殿は某の瞳をじっと見つめた。
( 先程の口づけを思い、出して・・・目を逸らしそうになったのは某の方だった )
「 えへへ、こんな時・・・どんな顔していいか、わからない、ね・・・ 」
「 あ、ああ。そうでござるな 」
「 でもね、幸村くん 」
「 ん? 」
「 今ね・・・私、とっても幸せな気持ち、だよ 」
花の顔を綻ばせて、はにかむ。
見惚れて動けずにいた某に、あ、ちょ、ちょっとお手洗いに行ってくるね、と背を抜けて走り去っていった。
彼女の姿が視界から消えて・・・ようやく、某も動けるようになった、が。
「 ・・・・・・は、 」
一歩・・・二歩、三歩、と後退りしたところで、狭い空間だったため壁にぶつかる。と、今度はその壁に沿うように、ずるずると腰を下ろす。そ・・・某の腰も抜けたようだった。
「 ( 幸せなのは、某の方でござる ) 」
誰かを想う。誰かに想われる。告白を受け入れてもらえた時、こんなに幸せなことはないと思った。
だけど彼女といると、もっと幸せになれる瞬間が待っていて・・・欲張ってしまう。
殿といたい。ずっといたい。某が彼女を嫌うことはないから、殿に嫌われる日まで、でもいい。
少しでも長く・・・殿のことだけを考えて、その笑顔の一番近くに・・・。
「 ( ・・・けれど、某には・・・ ) 」
幸福感に混ざる、一滴の墨。
ぎゅっと瞳を閉じて、湧き上がるイメージを払うかのように頭を振る。
・・・殿に嫌われる日は、いつか『 必ず 』訪れる。それは決まった未来だ。
解っていたことだ。某が、殿を好きに・・・いや、せめて想いを告げなければ違った結果だっただろう。
けれど詮無きことだ。某は、もう後に退けぬほど・・・殿を好いている。
「 ( この幸福な時間に後悔はない。ただ・・・殿には申し訳ないと、思う ) 」
後に、大きな傷跡を残すことになる。
その棘が柔らかく、すぐに治るよう事を進めることくらいしか、某には出来ないが。
「 ( これが、せめてもの情けなのでござる・・・ ) 」
目尻に浮かんだ滴がバレないように、袖でそっと拭い、アクアリウムの光に誘われるように歩き出した。
すると、目標にしていた光がふいに陰る。視線を持ち上げると・・・凛と立つ男の姿が在った。
「 よぉ、真田幸村。こんなところで奇遇だな・・・なんて言うと思ったか? 」
逆光の中でも、彼の唇が弧を描いたのが解った。