不意に湧いた群雲(むらくも)に、
隠されたのは月か、不安か……
陣幕の内側で燃え盛る炎にあてられたか。
火照りがそこかしこに感じられて、俺はそっと立ち上がって場を離れた。
「 旦那、何処行くの? 」
「 少し宵風に当たるだけだ 」
「 御大(おんたい)が丸腰で彷徨(さまよ)うのはやめてほしいんだけどね 」
すぐそばの樹上から降ってきた佐助の声に、
さほど遠くには行かぬと約束をして、ひとりそぞろ歩きをする。
手入れされていない雑木林に沿って道なき道を辿るように緩やかな坂道を上る。
ほどなくひらけた視界は、ずいと大きく広がる薄闇に包まれた荒野を捉(とら)えた。
明日の戦場となる、関ヶ原だ。
西軍と同盟を組み、東の将である徳川及び彼の同盟国軍と刃を交える地を見下ろして、一瞬だけ身体を震わせた。
炎から離れているのに、未だ胸の内側で燻るものがある。
武者震い故の熱か、それともこの地ですべての決着がつくやもしれぬ歓喜にも似た闘志か。
はたまた、離し難き情への未練か……。
「 幸村、背後が危ういよ 」
と、唐突に脳裏に思い描いた人物の声が聞こえて、俺は不覚にもつかの間驚いた。
振り向けば、まぎれもない彼女の姿。河村をみつける。
「 いくら周りが武田軍の陣営だからって、得物も持たずにうろつくのはどうかと思うけど 」
「 槍を持ってうろつく方が、なにやら物騒でござるよ。殿 」
「 大将が丸腰で、なんかあったらどうするの? 暗殺狙いの敵だっていなくはないんだからね 」
「 佐助や六郎、今回の戦はそなたが言う十勇士とやらが揃っているからな。大事ない 」
どうせ手近な闇に潜んでいるんだろうと軽く見渡せば、これ見よがしに気配を漂わせてきて。
にも察するものがあったのか、さすが忍者……と感嘆したつぶやきをこぼしてくる。
「 しかし、殿。丸腰はそなたとて同様。このような夜更けにひとり歩きは危険でござるよ 」
「 私の場合は、ここの手前まで小介くんがついてきてくれたから 」
今は、お邪魔虫は隠れておきますねって言っていないけど、と笑う彼女に、やれやれと肩をすくめる。
持ち場を離れてどうするんだと思ったが、になにかあったら困るのは俺の方だ。許しておくとしよう。
改めて彼女と真向かった。
久しぶりに、まともにみつめあう。
どちらともなく一歩、もう一歩と近づいて、ためらいがちに伸ばされたの手を取り、
己へと引き寄せれば素直に胸元へと収まった。
少し湿り気を帯びた髪は、どこかで井戸か湧水をみつけたのか。
身ぎれいにしてきた証拠。彼女が素直に身を委(ゆだ)ねてくるときは、受け入れてくれる合図でもあった。
だから、迷うことなく額に、こめかみに、そして唇に、己のを寄せる。重ねる。
応える形で開かれた柔らかさな感触を味わい、絡み合う。
滾(たぎ)るままに、に触れた。
野暮な具足を外し、月明かりに素肌をさらす。
無防備でしかないあられない肢体を共に開いて、互いを結びつけるまでに長い時間は必要なかった。
声だけは必死に殺し、欲情に溶けるの瞳に俺を映しながら、愛しい人を抱く。
時間を超えて、落ちてきた俺の妻。
彼女にしてみれば過去にあたるこの日ノ本で、最初に俺と出会ったのは、にしてみれば幸か不幸かはわからない。
だが、俺にとっては最大の幸せと巡り会えた瞬間だった。
なにもわからないを保護し、ともに暮らすうちに芽生えた想い。
初めて叶えたときは、まだ御館様もご健在だった頃。
短くも、穏やかな日々を重ねて……、
やがて起きたのは、豊臣軍の崩壊と徳川家康の蜂起。
豊臣秀吉を崇拝していた石田三成によって、惨劇の乱世が再び幕を開け、日ノ本は東西に二分した。
その最中に御館様は病に倒れ、還らぬ人となり。俺は一度は預かる城を東の徳川についた政宗殿に奪われるという、
みじめなていたらくを見せてしまったが。それでも佐助を始めとする臣下の大半は残ってくれた。
同時に、もまた、俺のそばを離れることもなかった。
―――戦は怖い、戦う力もほとんどない。弱い弱い存在でしかない
けれど。最期まであなたとともにありたいから。
西軍たる石田殿と同盟を組んだ夜、はいつ仕立てていたのか、戦仕様の格好で俺の前に現れるなり、そう告げてきた。
俺のまとう陣羽織よりも濃い赤紅の直垂と裾を絞った小袴。
その上に朱色の胴丸と手甲をつけ、なんとも勇ましい見目だった。
―――だから、生き残るために、
佐助さんや才蔵さん達に、武器の使い方を教わる許可をくださいな。旦那様。
わざと明るく、軽い調子で言いのけてきたけれど。
内心は怖くて仕方なかったはずだ。のいた世界では、個人で武器を持つことは禁じられていたらしい。
戦はおろか、人を傷つける行為そのものが罪であり罰せられるとも聞いた。
そんなが、ともに生きる道を……しいては戦うために武器を持つ選択をしたのだ。
他者の命を奪ってまで、俺と一緒に生き延びたいと願い、決意してくれた。
なんて愛しい存在だろう。
道中何度か起きた小競り合いに、震えながらも立ち向かい、手を赤く染めても泣かなかった。
なんて強い……心を持っているのだろう、彼女は。
悲しくもあるが、誇らしさのが勝っていた。
「 幸村……ゆき、むらっ 」
堪えきれずにこぼれる俺の名を聞いて、口づけて塞いだ。
ほんとうは、もっと聞きたい。の声を、もっと、ずっと、聞きたい。
名を呼ばれたかった。
しかし、時と場所がこれを許すわけにはいかず、せめて少しでも長くを感じていたくて、唇で声を閉ざし続けた。
ひとしきりの熱を交わして、
いつ用意されていたかわからない、濡れた布で互いの身体を拭い、再び戦装束に戻った。
「 殿、ひとつ聞いて? 」
「 なに? 」
装束は戻しても彼女の身体を抱きしめたまま、荒野を見渡す場所に座りこんで。
背なから腹上に回した腕の位置をいくらか直しながら、俺は問いかけた。
「 殿の世界では、この戦はあったのでござろうか 」
「 関ヶ原での戦い? 」
「 うむ 」
の世界の話は幾度となく聞いていたが、避けていた話題もあった。
それは、戦の勝敗に関するものだ。
存在する武将や年齢が違いすぎるとだけは聞いたことがあるが、いつごろ戦が起き、どちらが勝つかまでは聞かずにいた。
否、聞けなかったというべきか。
未来を知る術があったけれど、その未来が己の望む形と異なっていたら?
知っても結果を回避できないとなれば、悔しさが尽きぬであろう。
知っていたのになぜそうできなかったと、下手すればを責めてしまいかねない。
もまた、あえて語ろうともしなかった。
彼女にしてみれば、もしかしたら記憶していた事態とここの現状が食い違っている段階で、
自分の覚えている物事はあてにならないと感じていたのかもしれぬ。
案の定、うーんと小さく唸って、はなかなか口を開けなかった。
だが、
「 関ヶ原の戦いは、あったよ 」
重たげに言葉を紡ぎだした。
途端、すっと、頭上が暗くなる。
皓々(こうこう)と白い光で夜闇を照らしていた月が、雲に隠れたからだ。
ついぞまで雲などなかったはずなのに、話のきっかけがこぼれた瞬間、雲隠れするとは。
得も言えぬ思いが胸中に染みだしてくる。
も同じなのか、腕の中で硬張っていた。
「 ……ひとつ、約束してくれる? 」
「 なんでござろうか 」
「 私がなにを言っても……幸村は全力を尽くして戦うって 」
「 それは武士として当然のこと。だが 」
約束を望むのであれば、是と頷こう。
耳元に囁けば、わかったと頷いては答えた。
「 私の時代でも、関ヶ原の合戦と呼ばれる戦はあった。
徳川家康を大将にした東軍と、毛利家の……元就さんの息子にあたる毛利輝元を大将にした西軍での戦いだった。
西軍の大将は違っても、石田三成さんが統率していたといわれていた 」
「 して、結果は? 」
「 西軍が負けた 」
「 その戦に、某は……俺は、いたのか? 」
「 関ヶ原のときは、幸村はいなかった。
幸村は、私のいた世界では、このあとに起きる大坂の冬と夏の陣、だったかな。大活躍するのは 」
「 ほう、大活躍とは如何に? 」
「 真田丸って砦を造って、少ない兵でも大坂城を守り抜いたり。
最終的には、家康覚悟ーってわずかな手勢で徳川本陣に突っこんでいったの 」
その後までは語らずとも、おおよその予測はつく。黙ってしまったのが証拠だった。
「 それは勇ましい。殿の世界の俺は、勇猛果敢でござったな 」
すべからく見習わねばとつぶやけば、目の端で彼女の顔が陰るのを見る。
「 殿? 」
「 ……幸村、お願い 」
死なないで。
つっと滴が、の頬を滑る。
敵兵を刃にかけても泣かなかった彼女が、戦の前に初めて見せた涙に、俺はしばし見入った。
「 日ノ本一の兵(つわもの)と呼ばれるような戦い方を遺されるより、
私は、あなたに一日でも長く生きていてもらいたいの。ほんとうは 」
戦に出てもらいたくない。二槍を揮ってほしくない。
「 ほんとうは、私を連れて逃げてほしいって……気持ちなの 」
「 ……殿 」
「 でも、幸村は武田軍の大将で、信玄様に希望を託されて、
なにより幸村が戦うことに生きる意味を求めているから……
止められないのがわかっているから、言えなかった。困らせたくなかった 」
だから私も戦うことを選んだの。
「 戦が始まれば、最期までそばにいるのは難しい。
どうあっても、私は足手まといになるから、後方でおとなしくしていなきゃいけない。
それでもいいの。同じ戦で、同じ場所にいられるなら 」
それが私自身の命をも果てる地となろうとも。
「 幸村と一緒に、私は六文銭を持って関ヶ原を駆け抜ける道を選んだ。
だからねえ、幸村。私より先には……死なないでね 」
私に首検分させる真似だけは、やめてね。
静かに涙を流しながら、最後のわがままだと彼女は言って俺に向き直ると、子供のようにしがみついてきた。
ここまで来て初めてあらわにした彼女の怯えに、俺は宥めの術もなく、ただ抱きしめる力を強めていた。
言葉にできなかった。
嘘で誤魔化される彼女じゃないから、増々言えなかった。
もとより、答えはないのを察していたと思う。
最後のわがままだと言ったのが、なりの、なけなしの強がり。
ならば俺は、せめてもの償いに、
今だけは彼女を泣かせよう。
「 」
しゃくりあげるせいでひくつく背を撫ぜつつ、俺は囁いた。
「 そなたは、死なないでくれ。某より先には、決して死なないでくれ 」
奪われたくない、なにものにも。
以上に、動かない身体を、聞こえない声を目の当たりにはしたくない。
「 某の……俺の、最後のわがままだ。 」
返らぬ答えに頬へ手をそえ、濡れた唇を貪った。しおからいの柔(やわ)なそこを何度も。
見ぬふりをしてきた不安を隠すために……。
隠されたのは月か、不安か
それともふたりの願いごとか……
隠されたのは月か、不安か
( 夜が明ければどちらも見えなくなるけど )
ばさら仲間の『Lunaforis』の美紀彦さんから
いただきました。第二弾です。
第一弾に引き続きまして、ひこたんには感謝です。こ、こんな甘い小説・・・2本も!
2本もですぞッ!( 2回言った )
1本目とはまた雰囲気の違った、チョコレートでいうとびたーすうぃーとですね。
どうもありがとうございます。灯、ひこたんの幸村を美味しく頂きました、合掌。
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