木陰に出来た影に、一層深い影が染みのように広がっている。




 呂蒙の執務室へと行く途中、凌統はふと足を止めて木陰へと近寄った。
 ざ、ざ、と芝生を踏んでいた音がやがて止まる。そっと覗きこむと・・・見覚えのある顔があった。


「 ・・・? 」


 大樹に凭れた姿は、これから訪れようとしていた執務室で探そうとしていた彼女本人。
 この時間なら主の傍に控えているということを凌統は知っていた。
 昨夜、無理矢理仕上げた竹簡を届けるという任務にかこつけて、に逢いに行こうと思っていたのに・・・。
 まさかこんなところで・・・幹に寄りかかったまま転寝をしているとは。


 凌統は無言で隣に腰を下ろす。彼女は自分の左肩に頭を乗せて、すうすうと規則正しい寝息を立てている。
 ・・・随分と深く寝ているようだ。俯いている顔を、凌統はまじまじと覗き込む。


「 ( こんなところで寝たら肌が焼けるとか言って、普通の女官は嫌がるはずなんだろうけど ) 」


 何せ、彼女・・・は、そういう『 普通 』の枠から少し外れている女性だ。
 本当かどうかなんて知らないけれど、別の世界から来たという少女だが、凌統にとってはどうでもいい事柄。
 『  』は確かに目の前に存在していて。呂蒙の元で働き、自分を見つければ笑いかけてくれる。
 どこの出自だとか、常識から外れているとか・・・そんなことは二の次だった。


「 ( 寝顔はどこにでもいる女の子と全く変わらないんだしね ) 」


 気になる彼女を大切に思う気持ちに、世界がどうとかなんて関係ない。
 眉を下げて、気持ち良さそうに眠るを見ていると、自分も癒されていく。
 自然と浮かぶ微笑を受け入れて、しゃがんだ凌統はそっと彼女の耳に唇を寄せた。




「 、こんなところで眠っていると・・・『 狼 』に襲われちゃうよ? 」




 ・・・今、目を開けば、もれなく俺が襲っちゃうけど、ね。




 出来るだけ低めの、限りなく甘い声音でを誘う・・・けれど、残念ながら彼女は目覚めなかった。
 変わった様子もなく昏々と眠り続ける。期待はずれな結果に唇を尖らせていると、突如彼女の身体が揺れる。
 おっと!と声を上げて咄嗟に差し出した腕に、がどさりと落ちてきた。
 ひと呼吸遅れて、黒髪をまとめた簪が揺れる。
 首が後ろに落ち、普段は詰襟に隠された白いうなじが陽の下へと晒された。
 ・・・先程、悪戯に邪な気持ちを抱いてしまったせいだろうか・・・。
 凌統は無意識にこくり喉を鳴らしてから、その失態を恥じるようにこっそり舌打ちをした。


「 ( こんなところで、こんな気持ちになるのは・・・反則だっつーの・・・ ) 」


 少なくとも、眠っている相手に手を出すほど、俺は人道に外れちゃいないし。
 顔の赤みを誤魔化すように、を支えた反対の手で頭を掻いていると・・・。










 ・・・・・・ふと目に入ったその『 光景 』に、凌統の目が驚きに見開いた。










「 お、凌統じゃねえか!何してんだ、ンなところで 」


 その場の雰囲気なんか全部無視して、大きな声が庭に響いた。
 を抱えて、凌統は立ち上がる。そして廊下から自分へと向き直っている甘寧を一瞥した。


「 ・・・相変わらず繊細さに欠ける男だね、あんたは 」
「 喧嘩売ってんのか、あン?・・・んだよ、誰かと思えばじゃねえか。どうした? 」
「 そこで拾った 」


 くい、と親指で木陰を指すと、甘寧が訝しげに片方の眉を吊り上げる。何か言いたそうな彼を遮るように、


「 悪いけどこれ、呂蒙殿んところに持ってってくれる? 」


 と、持って行くはずだった竹簡を甘寧に向かって放る。
 おっ、おわっ!?と叫びながらひとつも落とすことなく器用に受け止めた彼だったが・・・終いに、はァ!?と大声を上げた。


「 ちょ、どういうことだよ!?何で通りすがりの俺が、わざわざおっさんの顔を見に行かなきゃいけねえんだッ 」
「 呂蒙殿のところに行く必要がなくなったからさ。俺の『 目的 』はもう果たされたしね 」


 担ぎ上げたと共にくるりと踵を返す。背後から甘寧の怒声が聞こえてきたが、当然無視して足早にその場を去った。
 甘寧が肩を掴んでまで引き止めようとしないのは、腕の中の眠り姫を起こさないよう気遣ってだろうか。


「 ( 気遣って、ねえ ) 」


 くすりと笑いを浮かべて、凌統は自分の執務室の扉を開いた。突然のことに場が凍る。
 ・・・当然だろう、先程出かけたばかりの主が突然帰還したのだ。それも女性を抱いて、だ。
 執務室で作業をしていた文官たちは、みな驚いたように顔を上げて腕に抱えた彼女と凌統の顔を見比べていた。
 その視線も興味をも払いのけるように、凌統はを抱えたまま、机上の竹簡を分けててきぱきと指示を出していく。


「 この竹簡を周喩殿に、こっちは陸遜ね。そんでもって、そこの君は孫権さまからこの案件の承認もらってきて。
  承認印もらうまで帰ってこないでいいよ。何ならどこかでお茶でもしてきて、うん。むしろ俺、推奨するよ 」
「 りょ、凌統様、あの 」
「 優秀な文官がいて幸せだなあ。仕事を円滑に進ませる為には、俺にも適度な休憩時間が必要だよね 」
「 ・・・そ・・・それでは行ってまいります・・・ 」


 にっこりとした満面の笑みの、その裏側の『 表情 』に。凌統付きの文官たちが頬を引き攣らせる。
 逃げるようにそそくさと退室していく彼らを見送って、凌統は執務室の奥へと進んでいく。仮眠室だ。
 部屋の主である凌統だけの領域ではあるものの、外に人がいるといないのとでは、気の抜け具合が違う。


 ・・・それに。








「 ・・・、もう芝居なんかしなくてもいいっつーの 」








 仮眠室の牀榻に降ろしたの耳にそう囁き、ついでに柔らかい耳朶を甘噛みしてやる。
 びくっ、とその身体が震え、先程と同じように・・・耳朶からうなじにかけて、真っ赤に染まった。
 そっとひっくり返すと、ぱっちり開いた瞳を涙目にして、が恨めしそうに凌統を睨んでいる。


「 どっ、どうしてわかったんですかっ!?寝たフリだって・・・ 」
「 そのくらいすぐに気づかないと、呉の武将にはなれないっつーの 」


 ぴんとおでこを弾くと、眉を寄せたがぷーっと頬を膨らませた。
 彼女の反応に、凌統は満足そうに唇を持ち上げてにやりと笑う。
 そしてそのまま半ば強引に牀榻に入ってきたものだから、彼女は怒りも忘れて驚愕する。
 壁側にいたは慌てて牀榻から抜け出そうとしたが、追い詰められるように壁と凌統の間に挟まれてしまった。


「 ちょ、ちょっと!!凌統さま、な、何・・・ 」
「 何って昼寝だろ?俺も一緒に横になるから、もうちょっと詰めてくれない? 」
「 つつつ詰めません!もう目、覚めましたから!眠くありません・・・って大体起こしたのは凌統さまのせい・・・ 」
「 ふうん、やっぱり声かけた時に起きたんだ。最初に見つけた時は本当に眠ってたみたいだけどね 」


 は、ぐっと言葉を詰まらせて『 あの瞬間 』を思い出したのか頬を赤くさせる。


「 ・・・あ・・・あんな耳元で囁かれたら、だっ、誰だって起きます!! 」
「 まあの寝顔見ていたら、本当に俺も眠くなったし?せっかく文官も追い払ったんだ、しばらくゆっくりしようぜ。
  だけどこれ以上騒ぎ立てるようなら・・・俺、マジで『 狼 』になってもいいんだぜ? 」


 きゃあきゃあと悲鳴を上げて暴れるにそう忠告すると、見事にぴたりと動きが止まった。
 唇を引き締めて声を出さないようにしている彼女の腰を引き寄せる。くぐもった非難の声が上がったのは当然無視。
 真っ赤になったまま怒りと羞恥に震えるを、宥めるように頭を撫でてやると、少しずつ大人しくなっていく・・・。
 何だか牙を剥いていた動物が少しずつ懐いていくようで、凌統はくすぐったい気持ちになる。


「 呂蒙殿にはさ、俺もあとで一緒に謝りにいってやるから。頼むから・・・今は眠らせてよ・・・ 」


 いざ牀榻に寝転んだみたら、冗談抜きで眠くなってきた。
 に逢う理由を作る為に、俺、昨夜は遅くまで結構頑張って竹簡仕上げたもんなぁ・・・。
 凌統の大きな欠伸を見たが、呆れたように溜め息を吐き、続いてクスクスと笑った。
 仕方ないなあ、と呟くと、彼女は赤い顔のまま凌統の胸に身体を委ねて、そっと瞳を閉じる。
 理性も蕩ける愛らしい顔は、絶対ない!とわかっていても、口付けを強請られてるんじゃないかと錯覚しそうになる。




「 ( あー・・・もうたまんないっつーの!やっぱ俺、こいつのこと、好きかも・・・ ) 」




 意識した瞬間、心臓が跳ね上がる。興味がある、なんて軽い気持ちじゃないことには、薄々気づいていたのに。
 百戦錬磨だと自負していたつもりだったが、本当の恋に堕ちれば自分なんて形無しだ。




 が大事だからこそ、今ここで無理に襲って嫌われたくないから、そっと抱き締める程度に留めておく。
 それでも・・・胸に寄りかかった彼女に、直接鼓動が聞こえてしまいそうで。
 邪な想いを隠すようにに見えない位置、彼女の髪に顔を埋めて、自分も瞳を閉じた。
 くんと鼻を突く心地良い匂いに、凌統の肩の力が抜けていく。おかげで睡魔はあっという間に訪れた、が・・・。
















「 ( ・・・いい匂い・・・・・・って、やべぇ、まさかこれ ) 」











 浴びていた太陽と、草の匂いと、今まで嗅いだことのない、甘い『 女 』の匂い。


 それが『  』の香りだと気づくと・・・胸に、身体に、今までと違う熱が宿るのがわかった。
















 擡げる欲を抑える僅かな理性まで侵食する匂いに、必死に抵抗する。落ち着こうと思うほど落ち着かなかった、が。
 淵で足を踏み外したかのように、突然眠りの世界に落下したのは・・・凌統にとって心底幸運なことだと思った。






 一度堕ちれば、後戻りできないのは恋も眠り同じこと。


 ひとつの牀榻に横たわり、互いの温もりに満たされて眠った二人は、陽が沈むまで眠りを妨げられることはなかった。






午睡すら熱い



( 理性が耐えてくれないと、俺、マジで狼・・・!( のこと傷つけたくない、っつーの ) )






Title:"love is a moment"