梳いた髪の手触りに満足して、櫛を置いた。




 ・・・今夜は、よく眠れそうだ。
 戦に出ていた父も帰ってきて、屋敷は一時、お祭りのように騒がしくなった。
 いくら警備が万全な館とはいえ、主が不在では誰もが心騒ぐと言うもの。
 だが、これで、しばらくは皆不安に脅える必要はない。


「 ( 幸村さまも、無事に還っていらしたし・・・ ) 」


 父の後ろに立っていた、赤い武者姿を見た時、正直、心臓が止まるかと思った・・・。
 以前よりも逞しく、精悍になった、彼の姿に鼓動が高まる。
 表情も、戦に赴く前とはどこか違う・・・もっと、余裕のある顔になっていて。
 見惚れるように固まっていると、彼が照れたように、はにかんだのだ。


「 ( あ・・・あれでは、気持ちがばれてしまうじゃない! ) 」






 幸村さまのことが、好き。


 強くて、頼り甲斐があって・・・それでいて、ちょっぴり子供っぽいところもあって。
 何事にも真っ直ぐで、純粋で、優しいあの人が・・・すごく恋しいと思う。




 そう気づいてから、幾つも季節は巡ったけれど、ずっとずっと隠してきた。
 武田家という大きな家の娘として生まれたからには、いつかはどこかの家に嫁ぐであろう定め。
 けれど・・・その日までは、こっそり片思いするくらい、赦されるでしょう?
 今日の彼の姿を思い出して、ぽっと頬が赤くなるのがわかった。
 でも、まあ、誰が見てるわけでもないんだし。
 幸せな気分で、このまま寝よう・・・と、布団を捲った時だった。




「 殿 」




 突如、廊下から聞こえた声に、悲鳴をあげそうになるほど、飛び上がる。
 かろうじて上げずに済んだのは・・・障子に映った、黒い人影が見えたから。


「 お休み前のところ、申し訳ございませぬ 」
「 ・・・幸村、さま? 」


 愛しい人の声を、間違えるはずがない。障子の影が、床に頭を伏せた。


「 戦の道中で、珍しい茶菓子を仕入れまして。よければ、殿にお召し上がり頂きたく 」
「 え、今、ですか? 」
「 ・・・本当は、もっと早い時間に召し上がって頂くはずだったのですが、佐助が・・・ 」
「 ごめんねえ、ちゃん。ちょっとばかし、届けるのが遅くなっちゃってさー 」


 影が、分裂したように2つに増えた。
 立ち姿で揺れるように頭を下げているのが、佐助さんだろう。
 幸村さまは、もう一度頭を伏せると、某の部屋にお越しくだされ、と言った。


「 姫君の寝所に、男が入ったというより、某の部屋の方が幾分か良いような気がいたします 」


 ここまで考えてもらっているのに・・・お断りするのも、何だか気が引けた。
 明日では駄目なのですか?と問いたかった( 太るんじゃないかって方が心配だったけど・・・ )
 けれど、2人がそこまで私に薦めてくるほど・・・美味しいの、だろうか。
 それもわざわざ、佐助さんに運ばせて、今食べなきゃダメって、ほど・・・。


 ・・・興味が勝った。
 んー、と一回天井を仰いでから、障子の向こうに、わかりました、と答えた。


「 あの、でも寝着なので、着替えてからお伺いしま・・・ 」
「 どうぞそのままで。某・・・一秒でも早く、殿に召し上がって頂きたいのです 」
「 ・・・・・・? 」


 あの幸村さまが、ここまで強請るなんて、珍しい・・・。
 では、お待ち申し上げております、と幸村さまの影が動くと同時に、佐助さんの影も掻き消える。
 さすがに寝着で、とはいけないと思い、手近な着物を掴むと、上着代わりに羽織る。
 片付けた鏡台をもう一度出して、一応身だしなみだけ、軽く確かめると・・・。


 鏡台の近くにあった灯を持つと、私は幸村さまのお部屋へと続く廊下を、静かに渡った。






















 幸村さまの滞在するお部屋は、随分と遠い渡りの端にあった。
 周辺の警護も兼ねてだと思うけれど・・・人の行き来も、姫である私の部屋よりずっと少ない。
 ( もちろん、幸村さまには真田忍がいらっしゃるし、ご本人も強兵だから心配はないし )
 部屋の前につくと、声をかける前に彼の方から、どうぞ、と声がかかった。
 ちょっと驚いたけれど・・・相手は武人だ。さすが、と思い直して、部屋に入った。


「 夜分遅くに、失礼致します 」
「 いや、某の方こそ、殿には申し訳ない・・・お休みになるところであったのでござろう? 」
「 え、あ、大丈夫です!幸村さまだって、戦からお帰りになってお疲れだというのに・・・。
  わざわざ、美味しいお菓子をお持ちくださったなんて、恐縮です 」


 そう言うと、彼はふっと優しく微笑む。
 ・・・あ、うん、やっぱり見間違えなんかじゃない。少し顔つきが変わった。
 何て表現したらいいんだろう・・・精悍なのは変わらないのに、どこか脆そうで、どこか寂しそうで。
 でも戦の後だもの。少しぐらい『 繊細 』になる時だってあるわよね。
 佐助、と彼が呟く。途端、どこからともなく姿を現した佐助さんが、2人分のお茶を並べた。
 左手にはお盆を持っていて、乗っていたお茶とお菓子の器を丁寧に並べた。


「 わ・・・! 」


 蓮を模った器の上に、透明な水菓子。
 添えられていた楊枝で切り分けて、自分の口に運ぶと、口の中で溶ける。
 寝る前だったということも忘れてパクパクと食べだした私に、幸村さまが苦笑した。


「 お口にあったようで、ようござった 」
「 あ、っと・・・はしたないですよね、すみません・・・ 」
「 いや、そうやって・・・飾らないそなたが、某は好きなのでござる 」






 ・・・・・・す、・・・・・・






 げほ、とむせた私を見て、彼は慌てたように腰を浮かせた。
 丸めた背中を、一生懸命摩ってくれる。それは、それで・・・すごく嬉しいんだけ、ど。
 真っ赤になっているのを見られたくなくて、着物の袖を顔から離せずにいた。
 おもむろに掴んだ湯飲みの茶を、一気に飲み干すと、少しだけ・・・気分が落ち着いた。






 だから・・・見落としてしまったのだ。


 いつもとは『 違う 』・・・その『 何か 』に、気づかなくてはいけなかったのに。






「 殿、大丈夫でござるか? 」
「 は・・・はい、すみま、せん・・・ 」


 背中に置かれたままの・・・彼の手が触れている場所が、熱い。
 『 偶然 』の産物だとしても、触れられることが嬉しくて、その手を振り払うことが出来ない。
 顔の熱も引かない。どきどきして、今や全身が熱の固まりのように・・・あつ、い・・・。
 無意識に零した吐息。すると、背中の手が髪を梳くように、首元を這った。


「 ・・・・・・・・・ッッ!? 」


 特別、何をされたわけでもないのに、身体が跳ねた。
 声を漏らさなかっただけ、上出来だと思う( 袖で口元を押さえてたおかげだ )
 殿?と幸村さまの心配そうな声が聞こえた。大丈夫です、と答えたいのに・・・。


「 ( 声が、出ない・・・!? ) 」


 さっと血の気が引いて、真っ青になる。
 突然の出来事に、自分の身に何が起こったのかわからなくて。
 どうしよう、どうしよう・・・と慌てる中で、鼓動だけが煩いくらいに聞こえる。
 ( まだ、彼にときめいてると言うの?それどころじゃ、ないのに・・・! )
 ・・・と、背後からクツクツと哂う声に、今度は身体が固まった。
 振り返る間もなく、背中を撫でていた手に引き寄せられ、そのまま抱きすくめられた。
 今までにないくらい近い距離で、幸村さまが歌うように囁く。


「 安心した・・・効きが遅いので、肝を冷やしたぞ 」
「 あのねえ、旦那。消化の時間とか、薬の作用を考えたら、これでも早い方だよ?
  そうでなくても『 声無 』や『 麻痺 』は、調合の難しい薬なんだ 」


 どこからともなく現れた佐助さんが、やれやれと肩を竦めるのが視界の端に見えた。
 そんな彼など目もくれようとはせず、幸村さまは私の首筋に顔を埋める。
 項に当たる息が、熱い・・・その熱に犯されるように、鼓動がどんどん大きくなってくる。
 煩い、なんてものじゃない。傍に居る2人の声も、次第に聞こえなく、なる、くら・・・。


「 ちゃんの自由を奪うだけで、本当に『 媚薬 』は少量でよかったの? 」


 ・・・び、や・・・く・・・?


 時間が立てば経つほど、身体の芯から何かが侵蝕してみたい・・・重く、なっていく。
 私を抱き締めていた腕が、離れる。
 自分の意思では動かない身体は揺れて、どさりと畳の上に落ちた。
 落ちた視界に入ったもの・・・それはさっき、むせた時に飲んだ湯呑み。






「 ( ・・・あれ・・・? ) 」






 幸村くんの座ってた位置にある、青い茶碗。私の飲んだ、赤い茶碗。
 今まで、こんな風に色分けされてたことなんて、あったっけ・・・?


 ( それはまるで・・・『 目印 』であるかのよう・・・ )






「 構わぬ・・・『 某 』を知れば、薬の力など借りずとも虜になるかも知れぬだろう? 」


 私を離して、立ち上がった幸村さまが部屋の奥へと進んでいく。
 小気味良い音と共に開いた襖の向こうは、寝室だ。
 戦に出ていた身体を休める為にと、侍女たちが丁寧に引いてくれたのだろう。
 恐怖に・・・涙が流れた。戻ってきた幸村さまは、そんな様子を見て優しく微笑む。
 畳に寝そべる私の頬を、そっと包んだ。その手の優しさは、温かさは、以前と変わらないのに。


「 戦の間、そなたを妻にと、お館様にかけあった武将がいた。そして、お館様はそれを許した。
  この戦が終われば、殿はその者の妻になる予定でござった・・・だから、阻止した 」


 阻止、とはどういう意味か・・・なんて、問わずとも解る。
 自分の掌を見つめていた幸村さまは、視線を上げて、その手で私の涙を拭った。










「 そなたが、好きだ。某の、妻になってくだされ・・・ 」










 ・・・嬉しいはず、なのに。


 愛を告白されたのに、どうして、こんなに心が『 凍る 』のだろう。
 身体も思考も麻痺して、虚ろな瞳に映る彼は・・・どうして、こんなに柔らかく笑っていられるんだろう。










「 ( 幸村、さまは、強くて、頼り甲斐があ、って・・・ ) 」


 真っ白な布団に下ろされる。柔らかい綿の感触に、一瞬だけ癒される。


「 殿、殿・・・ああ、そなたが欲しかった、どんな手を使っても味わいたかった・・・! 」


 うわ言のように名前を呼ぶ声は、相も変わらず優しかっい。
 どれもこれも愛しくて、いつもの私なら舞い上がっていたのに・・・。
 どく、どくと煩く鳴っていた鼓動が気にならないくらい、痺れて出ない筈の喉から声が上がった。
 彼とは対照的に、涙交じりの私の声は・・・絶叫や悲鳴にも似ていた。


 屋敷の外れにあるこの部屋には、誰も来ない。
 たとえ私が幸村さまに抱かれているのだとわかったとしても・・・お父様は、許してしまうかもしれない。






 有力な武将に嫁ぐのが、姫としての私の『 運命 』


















 けれど・・・その『 運命 』が、今の私には呪わしかった




















偶然も奇跡、





必然も運命



( 涙で滲んだ世界・・・私は、今まで『 彼 』の『 何 』を見てきたのだろう・・・ )






Title:"宵闇の祷り"