「 おい・・・おい、待てッ!!!! 」






 どんな人込みの中でも、聞きなれた彼の声に振り返ってしまうのは癖以外の何物でもないのだろうか。
 自分へと近寄ってくる彼に、夏候惇さま、とが声をかけた。
 足を止めた彼女の姿を見て、彼は少しほっとしたように速度を緩めて近づいてきた。
 それにしても・・・随分遠くから走ってきたのだろうか。両肩を上下させた彼は、辛そうに少し身体を丸めた。


「 どうしたのですか、そんなに慌てて・・・あ、もしかして頼みたい買い物がありましたか!? 」


 夏候家を出てくる時に、淵さまにはお逢いしたのだ。
 街まで出ますので、何かお買い物してくるものはありますか?と尋ねると、今はないなぁと彼は手を振った。
 買い物に行くなら惇兄にも聞いてやってくれや、と言われたけれど・・・お逢いできなかったから。
 ( どうやら鍛錬の後の着替えで席を外されている、というのは他の侍女に聞いたのだけれど )
 それでもこうして慌てて追いかけてきた、というのなら、それだけ大切な買い物があったのではないか。
 呼吸を落ち着かせ、顔を上げた夏候惇が、逆に低頭したの頭に掌を乗せた。


「 いや・・・淵から、お前が護衛もつけずに一人で街まで出たと聞いてな 」
「 護衛、ですか?夏候惇さまみたいに立派な方ならまだしも、私のような下々の者は護衛など・・・ 」
「 それでも、だ。最近はこの街も物騒になってきたからな 」
「 はあ・・・でも、他の侍女たちもいつも同じように買い物に出ているのに・・・私だけ良いのでしょうか 」
「 ・・・と、とにかく、今日は俺が護衛する。いいな? 」
「 私はお断りする理由がありませんけれど・・・夏候惇さまもお忙しいのに大丈夫なのですか? 」
「 構わん 」


 何かをぼやくように口元をむずむずさせた彼には気づかず、は無邪気に、ではお願いします、と頷いた。


「 それで、今日は何を買うんだ? 」
「 侍女のみんなから頼まれた筆や硯と、あとは化粧品です 」
「 ・・・化粧品・・・ 」
「 ふふっ、だから夏候惇さま、無理なさらくていいんですよ 」


 女の買い物に、大将軍を付き合わせるのはさすがに気が引ける。
 そうでなくても夏候惇は屋敷の主。主人が侍女の買い物に付き合うなど、聞いたこともない。
 はやんわり断ろうとしたが、いいや、と彼は頑なに首を振った。


「 どこへなりとも付き合おう。まずは何だ、筆や硯から買いに行くか? 」


 この道の先に大きな店があっただろう、と言いながら夏候惇は歩き出す。
 ・・・てっきり断ると思ったのに。どうしてそこまで護衛を買って出てくれるのだろう・・・。
 首を傾げたまま立ち竦んでいるを、振り返った彼が呼んだ。
 手招きしている大きな手に向かって走り出す。心とは裏腹に、その足取りは羽が生えたように軽かった。














 店の者と楽しげに話すの背中を見ながら、夏候惇は思い出していた。
 夏候家は広いが、使用人の人数は最低限にしている。弟は人付き合いが得意だが、自分は苦手である為だ。
 だから使用人の個々が能力的にも人間的にも『 優秀 』である必要がある。
 身内に恐ろしく優秀な人物がいる、と旧知の縁者からの紹介で、彼女は屋敷にやってきたのだ。
 店主に薦められた筆を手に取り、の顔が明るくなる。


「 あ、これがいいわ。値段も手頃でとってもいい毛だもの、書きやすそう 」


 字を書ける、ということは良家の出身でもない限り、希少だった。
 だがは文字も書けるし、高度な算術もできる。これが男であれば、即曹操に推挙するところだが。


「 ( 孟徳には別の意味で連れて行かれそうなのを、俺が阻止しているとは・・・知らないんだろうな ) 」


 姿を現す気などなかったのだ・・・本当は。息抜きを楽しむ彼女の邪魔をしてしまうような気がして。
 賑わう街を嬉しそうに進むを、物陰からこっそり見守っていた夏候惇は見てしまった。
 店頭の品を物色しているの背後で、数人の男がつけていたのを。
 時折打ち合わせをするようにひそひそと相談し、彼女を指差していたのを。
 侍女とはいえ、は妙齢の・・・それも数々の美姫を見てきた夏候惇をも『 魅了 』する女性だ。
 ( 惚れている女だという欲目もあるかもしれないが、曹操も欲しがるのだから間違いない )


「 夏候惇さま 」


 たまらず飛び出して声をかけたが、正解だったらしい。いつの間にか奴らの気配はなくなっていた。
 男が居ると判って諦めたか・・・ふん、骨のない奴らだ。まあ、大事に至っても困るのだが。
 孟徳や淵にバレれば、それこそ何を言われるかわからない。


「 ・・・夏候惇さま? 」


 この娘を護っている『 存在 』が在ることを世間に知ら示せば、近づく男も減ろう。


「 ( そ、それは競争相手を減らすとかいうことではなく、俺は純粋に彼女を護・・・ ) 」
「 夏候惇さまーッ!!! 」
「 ・・・な、っ・・・いきなりどうした 」
「 いきなりじゃありません、さっきからずっとお声かけていますのに! 」


 たじろいだ夏候惇に、怒った様子だったが急ににっこり笑った。
 入り口にいた彼の手を引き、店主が並べた硯の前へと連れて行く。
 短い距離にも関わらず、夏候惇の意識は手を繋いだその一瞬に集中していた。


「 どの硯が良さそうですか?ぜひ夏候惇さまに選んで頂きたくて 」
「 ・・・俺に、か? 」


 はい、と照れたように微笑む。
 刀の目利きなら自信はあるが、硯となると文官が用意したのを使うのでこれといって・・・。
 と、眉間に皺を寄せると見慣れた印が入った硯を手に取る。
 お目が高いですね、と納得した様子で店主が笑った。


「 これはどうだ?昔、孟徳が愛用していたものと同じもののようだ 」
「 ありがとうございます。ではお会計を・・・ 」
「 ここは俺が出そう。自分で選んだものだしな 」
「 えっ!?わ、私、そんなつもりでお願いしたのでは・・・ 」
「 折角だ、俺に贈らせてくれ 」


 自然と浮かんだ微笑みに、おろおろとしていたが、とうとう申し訳なさそうに頭を下げる。
 本当は花の一つでも贈れればいいが、そこまでの勇気は持ち合わせていなかった。
 ( 硯では色気も何もない、と夏候淵には言われそうだが・・・ )
 会計を済ませ、のてのひらに乗せてやる。すると彼女は、大切なものを包むように胸に抱き締めた。


「 ・・・ありがとう、ございます・・・! 」


 目の前に咲いた『 花 』以上に美しいものはないのだから。


 の笑顔に、夏候惇も嬉しそうに頷く。喜ぶのなら何でもしてやりたいと思うのは、この想いのなせる業か。
 唇の端が持ち上がったまま、二人肩を並べて賑わう街を再び散策し始めた。














 彼との出逢いは、最悪だった。
 掃除に入った夏候惇の私室では転び、立てかけてあった愛刀・麒麟牙を床に倒してしまったのだ。
 慌てて起こそうと刀に触れる寸前で、どこから現れた大きな手のひらに叩かれた。
 気迫ある怒声に、焦りと恐怖で顔面が蒼白になる。駆け寄ってきた先輩侍女がと一緒に頭を下げた。


「 ( 解雇、で済めばいいけれど ) 」


 最悪もっと酷い罰を受けるかもしれないと思い、先輩侍女や斡旋してくれた身内を思って身体が竦む。
 どうしようどうしよう、と涙を零すことも忘れて背中を丸めていると、腕を引っ張られて立ち上がらせられた。
 叩かれた手での両足を、腰元を、両腕を、両肩を。そして最後に顔を包み込むと、彼は尋ねた。
 怪我はないか、と問われ、呆然としていたはこくりとひとつ頷く。
 ああ、叱られたんじゃなくて心配してくれたんだ。それがわかると、ようやく涙が零れた。
 夏候惇が驚いたように一歩引いたが・・・その大きな手が優しく頭を撫でてくれたのを覚えている。


「 ・・・どうした、 」
「 何がですか? 」
「 口元が緩んでいるぞ。何を考えていた? 」
「 ええ、っと・・・夏候惇さまのことです 」


 ば、馬鹿なことを言うな!とうろたえた夏候惇は真っ赤になって否定するが、本当のことなので仕方ない。
 化粧品は自分の分だけだったので、露店で選ぶことにした。でないと、さすがに夏候惇が可哀想だと思ったので。
 使用人の数が少ないせいか、主人との距離が近く、夏候惇さまも夏候淵さまも可愛がってくださる。
 それは自分たちにとっても同じこと。可愛がって下さるからこそ、精一杯応えたいと思う。


「 ( さて、どっちにしようかな・・・ ) 」


 欲しいのは紅だけだ。桃色か、少し橙がかった色にするか。早く決めようと思えば思うほど、決められない。
 手に取ったままうーん・・・と唸りながら迷っていると、背後で彼の動き気配がした。
 そっと覗き込んだ夏候惇が、紅の色を記憶して、の顔をへと視線を移した。
 暗くて見え辛かったのか、屈んでいた彼女へと手を伸ばして、顎を持ち上げた。


「 ( ・・・え・・・ ) 」


 突然の行為に動揺が隠せない。朱色に染まっていくのを感じながら、夏候惇の隻眼を見つめた。
 彼は、再度紅の色を確かめながら、ふっと優しく微笑んだ。


「 ああ・・・お前の唇ならこの色が良いだろう。きっと、似合う 」
「 そ、うでしょうか 」
「 化粧品の見立てはさすがに難しいが、お前に似合うものくらいは見分けられる。普段から見ているしな 」
「 ・・・私を、ですか? 」


 そう返されて、さすがに口を滑らせたと思ったのか、あ、いや・・・と真っ赤になった夏候惇は口を押さえる。
 つられるようにも赤くなる。これはもう・・・どうにも隠せない。
 夏候惇が『 自分 』を見てくれていた。恥ずかしい、でも嬉しい。そう思うだけで湧き上がるこの熱は何だろう。
 さっきだってそうだ・・・硯をもらった時、は苦しかった。感激と同時に、胸が締め付けられるなんて。
 紅の色を覚え、注した自分を想像してくれるほど・・・彼の『 瞳 』は今まで自分を捕らえていてくれたのだろうか。
 動揺を振り払ったのは夏候惇が先だった。似合うと言い切った紅の会計を済ませて、の手を掴む。
 二人は手を繋いだまま、その場を離れるように人込みの中へと紛れた。


「 あ・・・あ、の、夏候惇さま・・・ 」


 大きな手。繋ぐと余計そう感じる。だって自分の手なんか、すっぽり収まってしまうのだ。
 これで叩かれた時は本当に怖かった。でもきっと・・・私は、いつもこの手に知らぬうちに護られてきたのか。
 戦場であの大きな麒麟牙を振り回す、夏候惇の、てのひらに・・・。


「 ・・・何だ、 」
「 あの、その、自分で払います!私の買い物なのに、これでは全部夏候惇さまに買っていただいているようで 」
「 いいんじゃないのか?たまには、な 」
「 たまには、ですか? 」
「 ああ・・・たまには、 」








 街は賑わっているのに、彼の声だけはっきりと聞こえる。


 どんな人込みの中でも、離れていた場所であったとしても・・・それは。








「 たまには・・・こうして二人で出かけよう。今度はその紅を、俺のために注して、な 」








 ・・・まただ。また胸が締め付けられる。夏候惇の台詞が嬉しくて、涙が出そう。
 自分も彼のように気の利く言葉のひとつでも返せたらいいのに、は頷くだけで精一杯で。


 だが、それで充分だったのか。彼は満足げに頷き返して、火照った頬を見せまいと前を向いた。








 繋いで手は熱い・・・けれどそれは、何とも形容しがたいほど心地良く、二人を幸せな気分にさせるものだった。










ふるえる、ふるえる、





こころ、ふるえる



( 次に貴方とこうして出かけることを想像するだけで、嬉しくなるの )






Title:"31D"