突如、隣で上がった口笛の音にふと顔を上げた。




 歩きながら竹簡に目を通していた私とは対照的に、頭の上で手を組んで歩いていた昭が立ち止まる。
 一体どうしたことか、と問う前に、彼はにやりと唇を持ち上げて眼前の存在へと駆け寄った。
 奴の目当ては、数歩先を歩いていた女官だったようだ。
 足早に近づくと、大袈裟なほどの賛辞で彼女を褒め称え始めたようだ。
 どうしたんだよ、その格好!と笑う声に、照れたように反論する・・・彼女。


「 も、もう司馬昭さま!ただでさえ恥ずかしいんです!そんなに大きな声で・・・止めて下さい 」
「 いやぁ、元の素材が良いとはいえ、ここまで化けるとは・・・うんうん、よく似合ってるぜ。
  なあ、。どんな心境の変化か知らないけど、俺付きの女官に転職する気、ない? 」




 ・・・・・・?今、昭は目の前に立つこの女官を『  』だと言わなかったか!?




 昭が呼び止めた女官は、丁寧な化粧を施し、形良い凝った髪型をしている。
 別に、宮中に使える者としては珍しくもないことだったが・・・いつもの彼女からは想像が出来ない。
 化粧はしない、仕事の邪魔にならなければいいと髪はひとつに束ねるだけの、からは・・・。
 が、背後で立ち止まったままの私に気がついて振り向いた女官は、確かにだった。
 この私が見間違えることなど在り得ない・・・自分の想い人である、彼女を。


「 し、司馬師さまっ!いらっしゃったの、ですか 」
「 ・・・ああ 」


 は驚いた声を上げ、ぱっと頬を真っ赤に染める。
 恥ずかしそうに俯くことで、普段より開いた胸元に視線が集中し、こっそり顔を赤くした。
 ( こ、こんな・・・不意打ちは卑怯、だ )
 そんな私には気づかずに、昭は上から下まで遠慮なく見つめると満足そうに笑んで彼女に問うた。


「 冗談はさておき、どうしたんだ一体 」
「 春華さまが仕立てた着物の余り布で、私に髪留めを作ってくださったんです。
  折角だから今付けてみなさいと言われて・・・あの・・・そのまま着せ替え人形のように・・・ 」
「 うーん、なるほど・・・それはちょっと想像できる、ねえ兄上 」
「 まあ、な 」


 母上は、自分付きの女官であるをとても可愛がっている。
 高価な贈り物では彼女が遠慮すると思い、敢えて余り布で仕立てて送ったのだろう。
 だが、予想以上にが喜んでくれたのを見て気を良くした・・・といったところか。


「 でも、すっごく似合ってる!嘘なんかじゃないぜ!!本当は一瞬、誰なのかわからなかったくらいだ 」
「 そうでしょうか。こんなにお化粧を施したり、着飾ったことが今までなくて・・・ 」
「 もっと自信持って良いと思うぜ。母上の見立てなら、尚更間違いないって! 」
「 しゅ、春華さまの・・・!そ、そうですね、司馬昭さまの仰る通りかもしれません 」


 敬愛する主人の名前を出され、恥ずかしがって俯いていた顔を持ち上げては瞳を輝かす。
 昭の言うように『 素材 』は極上なのだ。自信を持って背筋を伸ばした彼女は、凛と咲く芍薬のよう。
 だが、フンと鼻を鳴らして浮かれた空気を凍らせた私に、昭とが振り返った。


「 兄上?何か気に入らないことでも・・・?? 」
「 安い茶番だと思っただけだ。も、化粧で素顔を誤魔化すような女に成り下がったかと思ってな 」
「 ・・・・・・! 」


 の、息を呑む音がした。じわりと大きな瞳に浮かんだ涙を見て、昭が慌てたように彼女を宥める。
 おかげで零れることはなかったが、さっきまでとは打って変わった雰囲気に包まれ、は頭を下げた。


「 わ・・・私は、これで。御前、失礼致します 」
「 待てよ、!兄上はああ言ったけど、俺は本当に・・・ 」
「 司馬昭さま、ありがとうございます。そのお気持ちだけで充分です・・・・・・っ! 」


 無理に笑おうとしたの顔を、とうとうほろりと零れた雫が伝う。
 昭が引き止める間もなく、踵を返すと廊下の向こうへと消えていった。小さくなる足音に、昭は頭を掻く。


「 あーあ・・・たとえ気に食わなかったとしても、もっと言い方ってものがあるでしょうに 」


 世にも珍しいの艶姿、俺はもっと堪能したかったですけど、と昭が肩を竦める。
 私は何も答えず、そのままそこで彼と別れた。廊下を進む昭に、どこからか現れた王元姫が話しかけている。
 無言で二人を見つめていたが、私もその場を後にし、自分の執務室へと戻った。
 持っていた竹簡を机に置くと・・・室を出る。そして元来た道を戻り、廊下の奥へ進んでいく。


 昭は、王元姫と一緒だろう。
 元姫が現場を目撃していたとは思えないから、そのまま追いかけたとは考えにくい。
 それに・・・彼女の『 行先 』を知っているのは、昭でも母上でもなく、私だけだという自信がある。






 罪悪感広がる心を、僅かに侵食する優越感を感じながら・・・私はひたすらその場所を目指した。


























「 はぁ・・・この、泣き虫め 」
「 ・・・・・・ッ!し、司馬師、さ、まッ!! 」


 陽も差さない竹簡室の一角。
 それがの隠れ場所・・・というより、私との恋人同士として使用している『 逢瀬の場 』だ。
 寄り付く者も少なく、誰の目にもつかないので、約束を交わしては彼女とこうして逢瀬を重ねていた。
 室の端で蹲り、ぐしゃぐしゃになったの顔を優しく両手で包んだ。
 化粧はすでに落ちて、代わりにと云わんばかりに真っ赤に腫れた瞳に、私はそっと唇を寄せる。


「 もう泣くな。すまない、私たちの関係を周囲に隠しているとはいえ、酷いことを言った 」
「 司馬、師、っく、さま・・・ふえぇん 」
「 子元でいい・・・本当にすまない、すまなかった、。愛している 」
「 う、ううっ・・・ひっく、子、元さ、ま・・・ッ! 」


 大きな声で泣きたいのを、それでも堪えて。
 は私の背中にぎゅっと手を回してしがみつくと、胸に顔を埋めて泣いた。
 いたいけな彼女を抱きこむように覆うと、片方の手で頭を優しく撫でてやる。
 少しでも、の気持ちが落ち着くように・・・と( 原因が私であることは充分わかっているのだけれど )


「 ・・・子元さまには、本当は内緒にしたかったんです・・・ 」


 ひとしきり泣いて、鼻をすすったが胸元でぼそりと呟いた。


「 何故だ? 」
「 だって・・・着飾るのとか、お嫌いかと思って。香水とか化粧の匂いとか嫌いって言うじゃないですか。
  だから私、子元さまに見つかる前に化粧を落とそうと思って、自分の室へ行くところだったんです 」


 日頃すれ違う女官たちを貶しているからだろう。そういうのを好む男も居るが、私が嫌いなだけだ。
 彼女を着飾らせた母上には、知識に精通しているので嫌悪感は欠片もなかったが。
 ( ああ、だからか。背後に私を見つけて、瞳を見開いて驚いていたのは )
 すみません、汚してしまいました・・・と服に沁みた涙の後を必死に拭っているを、突如抱き締めた。
 小さく悲鳴を上げた彼女の耳元で、お前は勘違いをしている、と囁いた。


「 私は香水や化粧の匂いが嫌いなのではない。それはその人本来の芳香を消してしまうからだ 」
「 その人本来の、芳香、ですか? 」
「 そうだ。から漂う香は、どんな匂いより芳しい。お前が傍に居てくれていると実感できる。
  ・・・の傍だけだ。自分が司馬一族の人間だということを忘れ、肩の力を抜けるのは・・・ 」
「 子元さま・・・ 」


 擦り寄っていた彼女の額に口付けると、おず、とが顔を上げる。
 どちらともなく、吸い寄せられるようにしてお互いの唇を重ねた。何度重ねてもこの瞬間は堪らない。
 湧き上がる衝動を理性が押し止めるが、その境界が次第に曖昧になる。
 切なく、幸福な眩暈。魂まで熱に犯されて、眉を顰める・・・こんな姿、にしか見せられない。
 私という『 個 』を愛してくれるにだけ、だ。


「 ( だからこそ、余計な輩に手を出されないよう私の物であることを公にしたいというのに ) 」


 司馬一族の頂点に立つ司馬懿の第一子の嫁には、容姿端麗は言うまでもなく、相応の身分が必要だ。
 平民出の自分では恋人と明かしたところで引き離されてしまう、とは断言して譲らなかった。
 だから時期が来るまでは・・・と、自分たちの関係を隠し通すことにしたが、これはこれで辛い瞬間も多い。
 今日のように、目が合うだけで嬉しい程愛しく思っていても、周囲を気にして虚勢を張る癖がついてしまった。


 私には・・・そろそろこの嘘の『 限界 』が迫っているような、そんな気がするのだ。
 何より彼女をこんなやり方で傷つけたくないし、傍でもっと護ってやりたいと思う。
 私たちを引き離す相手として、警戒するのは父上より母上のような気がするが・・・幸い、その点なら心配ない。
 自分の衣装と同じ布の贈り物を渡すくらいだ。
 女官としても、一人の女性としても秀でていると認められている証拠だった。


 ならば、あとは私が『 足りない部分 』を補ってやればよい。
 が納得する身分の者に養子縁組を頼み、良き日を選んで妻として迎える。




「 ( 待ち遠しいぞ・・・が、本当に私の手の中に落ちる、その瞬間が ) 」




 立ちはだかる全ての障害を突破し、周囲を憚ることなく愛していると言える日が来ることを願って止まない。




 縋りつくように、必死に私の胸元を掴んで口付けを受け止める
 こんなに愛らしい彼女の姿を見ても良いのは、この世にただ一人・・・私だけだ。
 最後に少しだけ強く吸うと、ちゅる、と鳴る。蕩けそうな瞳を気だるそうに閉じて、が言った。


「 ・・・好きです、子元さま・・・ 」
「 私もだ、ただ愛してる・・・お前だけを 」


 長い吐息と共に、こてんと肩に預けた頭を自分の首元へと引き寄せた。
 は少しだけ微笑んで、なすがままになる。竹簡室にはまたも静けさが訪れた。
 凝った造りの格子から少しだけ外の光が漏れ、こっそりと身を寄せ合った私たちの影を照らしていた。


 ふと・・・沈黙はそんな彼女の、あ、と小さな声で破られる。






「 そうでした・・・私、子元さまにご伝言をお預かりしていたんでした。
  『 この宮中で私が知らないことはないのだから、観念してさっさと相談にいらっしゃい 』と 」
「 ・・・敢えて聞くが、誰にだ 」
「 春華さまです。贈り物を頂いた時にそう言ってらっしゃって・・・どういう意味だったのでしょうか 」
「 ・・・・・・・・・ 」






 何かご相談事があるんですか??と首を傾げるは、本当に気づいていないのだろうか・・・。


 苦笑にも似た微笑をふっと浮かべると、私が笑んだことが嬉しいのか、彼女の顔がぱっと輝く。
 ・・・まあ、いい。私の役目は、傍で咲くこの美しい華を、どんな雨風からも護ることだ。
 少し惚けたところも、鈍感なところも、の愛らしさを引き立てる魅力の一つだと思うから。










 もう一度だ、と強請るように言うと、彼女は照れたように笑んで・・・そっと自分から唇を寄せてくれた。










そして、重なる、二つの影



( 「 春華、嬉しそうな顔でどうした 」「 旦那様、私・・・近々『 娘 』が増えそうな予感がしますの、ふふ 」 )






Title:"確かに恋だった"