成都の城内、午後の鍛錬を終えた昼下がりのこと。
執務室と宮殿を結ぶ長い廊下を歩いていると、どこからか騒がしい声が聞こえてきた。
周囲を見渡すと・・・声は奥の角を曲がった先にある、休憩所の代わりに設けられた小さな東屋からのようだ。
そこに居た4人の人影に近づくと、おお!と黄忠殿が片手を上げる。
「 いかがなされた?廊下の向こうまで響くような声がしていたので、気になって・・・っとと! 」
どんッ!と勢いよく飛びついてきた影に、思わず体勢を崩しそうになる。
見下ろすと・・・『 彼女 』だった。
抱きついてきたのが諸葛亮殿の2番弟子であるだと判るや否や、不意に鼓動が早くなる。
崩れなかったはずの体勢が、彼女を見ただけで崩れてしまいそうになるのを・・・必死に、保つ。
「 趙雲さまっ、お願いです!私にご助勢くださいませっ!! 」
「 !!貴女は黄忠殿にだけでなく、趙雲殿に対しても何と無礼な・・・! 」
「 べぇーっだ!姜維の言うことなんて、私、もう聞かないもんね 」
「 ま・・・まあまあ落ち着くんだ、姜維、。一体何があったというのだ 」
通りすがりの私に申し訳なさそうな顔をした姜維は拱手を解き、きっとを睨む。
私の背に回り込んだ彼女が思いっきり舌を出したものだから、火に油を注いだように彼の怒りは更に増した。
見えない炎を纏った姜維が彼女の首根っこを掴もうと手を伸ばし、は私を盾に逃げ回る。
・・・纏わりつかれて、困るどころか嬉しさがこみ上げてくるが、と、とりあえず事情は聞いておかなければ、な。
黄忠殿とその隣に立っていた魏延殿へと困惑した視線を投げると、魏延殿がいつものように片言で喋り出す。
「 ・・・弓、習ウ・・・姜維、怒ッタ 」
「 弓を?何の為に?? 」
「 軍師としていずれ戦場に立つからには、武芸の一つくらい学んでおきたいという話じゃ。
だがには必要ない、と姜維が言い張ってのう・・・この有様じゃわい 」
真っ白な髭を撫でながら、やれやれと首を振る。
「 必要あるわけないじゃないですかッ!軍師といっても、は女性ですよ!?
戦場は盤上で行う『 遊戯 』ではないんだ。に人を殺せない。そんな人間に武芸は無意味だ! 」
会話を聞いていた姜維が、拳を強く握り締めて熱弁する。
だがとて軍師、そして諸葛亮の弟子だ。兄弟子の意見に賛成しかねる、と挙手した。
「 それは私が女だからですか!?それとも、軍師という役職だからですかッ!?
男にはなれませんけれど・・・諸葛亮先生や姜維だって戦場で活躍している。
姜維に言われなくても、戦場がどんな場所かだなんてわかってます!でも、でも私だって・・・!! 」
「 私だって、人を殺せると言いたいのか。軍師の見習いたる貴女が、子供みたいな言い訳をするものではない! 」
姜維が叱咤し、がぐっと言葉に詰まる。
走り回っていた足をぴたりと止めて、私の身体もようやく動きを止める。
は真っ赤になってぷるぷると身体を震わせると、黙ったまま私の背に顔を埋めた。
痛いほど顔を押し付けて、しがみついて・・・声を殺して泣いているようだった。
怒りすぎた・・・とさすがの姜維も思ったのか、追いかけるのを止めてバツが悪そうに溜め息を吐く。
黄忠殿と魏延殿も、この事態をどう収拾していいのかかわからずに顔を見合わせていた。
背に隠れたまま独りで泣くに・・・私は、慰めるような声音で語りかけた。
「 ・・・みんな、貴女が大切だから心配しているんだ 」
女性だから、軍師だから、という理由ではない( それならば尚香さまも戦に出れない、ということになるだろう )
戦が『 綺麗ごと 』でないことを、がいくら頭の中で理解していたとしても。
その想像の範疇を超えるであろうことは・・・戦場を経験した者なら容易に察することが出来る。
「 戦の壮絶さを知っておくことは、軍師として必要な知識かもしれない。
だが、武人ではない貴女に自らの手を血で染めて欲しくない。これは欺瞞などではなく我々の懇願だ。
それとも、は私たちの心配など無視にしても構わないと思っている? 」
「 ・・・いいえ・・・ 」
「 姜維だって私と同じ考えだ。を危険な目に合わせたくないから、厳しく忠告する 」
「 ・・・・・・・・・ 」
彼女が腫れた瞳をちらり、と投げかければ、姜維はぷいと顔を逸らす。
も反省してか・・・涙を拭ってしばらく考えた後、素直に頷いた。
「 わかり、ました。武芸を学ぶことは・・・諦めます・・・ 」
ただでさえ小さい肩を更に落として俯く。縋っていた私の背から手を離すと、おずおずと頭を下げた。
「 趙雲さま、巻き込んですみませんでした。黄忠さまも、魏延さまも・・・。
それから、あの、姜維・・・ごめんね、騒ぎ立てて 」
「 ・・・いいんだ、。貴女が納得してくれたなら、それでいい 」
双方の歩み寄りに、好々爺の顔で黄忠殿が頷き、魏延殿が薄っすら微笑んでいた。
場が収まったことは喜ばしいが、何となく漂う、仲直りした恋人同士のような雰囲気に少々・・・苛立つ。
眉の辺りに無意識に力が入っていたようで、寄っていた皺を私は慌てて解いた。
正面の彼女をそっと見やれば、気づかれてはいない様子だったが・・・視線を感じて振り向くと魏延殿に見られていた。
じ、と動かぬ視線に内心動揺している( どうして、こんなに、その・・・自分は慌てているのだろう )
手の中が汗ばんでくる。着物のどこかで汗を脱ごうとしていると目の前に差し出される白い手・・・だった。
「 ありがとうございます。趙雲さまがいらっしゃらなかったら、私、姜維とずっと喧嘩していたと思いますから 」
「 そんなことはないだろう。だって、姜維が納得した上で武芸を学べる『 理由 』がひとつだけあるじゃないか 」
「 いえいえ、そんなこ・・・・・・ええええええッ!? 」
ぎょっとするように顔を上げるに微笑んで、同じく驚いた様子の姜維に向き直る。
「 『 自分の身を守る 』ためなら、姜維だって反対はしないさ・・・そうだろう? 」
「 えっ!?いや・・・その・・・ 」
今度は姜維が答えに詰まる番。躍起になったが見落としていた、容認されるための唯一の『 言い訳 』。
自己防衛のため、そう言ってしまえば誰も反対できない。
女であれ、軍師であれ、彼女は蜀にとって大事な人間の一人だ。戦場では護衛が付くが、心許ない時もある。
非常時に対処できるよう、戦わずとも逃げれるような武芸を身につけたい、という理由であれば話は通り易くなる。
「 そ・・・ですよね、どうしてこんな簡単なこと、思いつかなかったのかしら・・・ 」
が『 言い訳 』を吟味するようにブツブツと呟いていたが、やがて瞳に生気が漲る。
そのまま黄忠殿へと向き直ると、彼は呵々と笑い、自分の膝を小気味良く叩いた。
「 よかろう!のために練習用の弓矢を用意するとするかのう。魏延も手伝ってくれい 」
「 ワカッタ・・・ 」
頷いた魏延殿が去り往く黄忠殿に付き従う。一瞬だけ・・・彼に見つめられ、私は素知らぬふりで目を逸らした。
背後から姜維の大きな溜め息が聞こえた。すまない、と視線で謝ると、諦めたように苦笑して彼は頭を振る。
姜維だって予め予想はついてのだろう・・・いつか彼女が『 気がついて 』しまうことに。
私たちの心情などお構い無しに、やったあ!と手放しで喜んだが、その場でぴょんぴょんと跳ねていた。
嬉しそうな姿に、頬が全開で緩み・・・そうになるのを隠すため、必死に『 苦笑 』のフリをしていると。
跳ねた彼女の身体が、最後に私の胸の中に収まる。ふいに感じた心地良い重さに、受け止めた腕が熱くなった。
「 趙雲さまっ!ありがとうございます!!せめて戦場でもみんなのお荷物にならないよう、私、頑張ります! 」
「 あ・・・ああ、そうだ、な・・・ 」
「 ふふっ、はしゃいですみません。でも本当に嬉しくて・・・趙雲さま、大好き、です 」
ほんのり頬を染めて、恥ずかしそうに微笑んだに・・・眩暈を覚える。
余裕を持ってこちらも笑顔を浮かべようとしたのに、耳まで赤くなったことに一番驚いたのは自分自身だ。
はそんな私には気づかずに、ぺこ、と頭を下げると拱手もそこそこに黄忠殿を追いかける。
走り出しそうになるのを必死に押さえながら、それでも溢れ出す喜びのままに時折足早に駆ける。
戸惑いを感じながらも、愛らしいその背を目で追いかけていると・・・す、と隣に姜維が並んだ。
・・・思わず、肩が震えた。
「 ・・・はまだまだ子供ですから。しっかり言葉にして伝えてやらねば、苦労するのはこちらです 」
「 なっ!な・・・んの話だ、姜維。私は・・・ 」
「 『 言い訳 』の話です。いつもの彼女なら自分で気づきそうなのに、頭に血が上るとどうしても見落とす。
軍師としても、人間的にもまだ子供だという孔明さまの言葉、今ようやくわかった気がします・・・ 」
これは自分も特に注意して指導せねば、と正義感の強い姜維は心機一転しているのだろう。
着物の下に嫌な汗を流す私に、涼しい顔を向けて拱手する。彼も廊下の奥へと消えて行った。
取り残された私は・・・堪えていたものを噴き出すように大きく息を吐いて、彼らが座っていた椅子に腰掛ける。
今の表情を誰にも見られたくなくて、右手で額を押さえて俯いた。
震える瞼を落ち着かせるように目を閉じると、華開くような、の笑顔が浮かんだ。
「 ( ・・・・・・これは、もしかして ) 」
私は武人なのに、これしきのことで、立っていられないほど動揺してどうする。
彼女の『 好き 』は、私の考えている『 好き 』とは違う。それは理解している・・・つもり、なのに。
わかっているのに、わかっていない。感情がそこまで追いつかなくて、軽く混乱を起こす。
せめて見てみぬフリをし、誰にも悟られないようにしなければ・・・と思うが、魏延殿の視線と姜維の台詞が胸を抉る。
・・・それでも、あの笑顔を思い出すだけで心が躍る。
認める、認めないは後回しにして・・・今は、誰も居ないこの場所で頬の緩みをこっそり開放させるとするか。
限りなく幸せに近い現状
( これが私の『 幸せ 』だ、と感じた時・・・私はこれを『 恋 』だと認めるのだと思う )
Title:"群青三メートル手前"