たったったった・・・すと、ん、たったった・・・たたっ、すとん・・・。




 軽やかな足取りが近づいてくる。
 中庭に造られた石畳の小道を走り、時折石段を飛び越えながらこちらへ駆けて来ているようだ。
 その足音が一瞬止まり、静かになると音が変わった。脇道から茂みに入ったらしい。
 茂みをかき分ける音を合図に、俺は横にしていた身体を起こす。
 もたもたしていると、そのまま踏まれてしまうだろう。
 いくら彼女の体重が軽くて実害はないとはいえ、きっとびっくりさせてしまうだろうから・・・。


「 ・・・・・・っ、じょっ、徐庶!? 」
「 やあ、 」
 

 踏まれなくても、結局のところ驚かせてしまったらしい。
 茂みから姿を現したが慌てた顔で数歩後ずさった。が、足をもつらせてしまったようだ。
 宙を掻くように両手を振り回して、うわわぁあ!と悲鳴を上げたまま後ろに引っ繰り返り・・・。


「 っと!! 」


 ・・・そうになったを、すかさず腕を伸ばして引っ張った。
 そのまま、ぽすん、と自分の胸に引き入れる。
 彼女は長い吐息を吐き出して、安堵した表情で、ありがとう、と礼を口にした。
 どういたしまして、と微笑んだ俺につられて一瞬笑顔になったが、すぐに我に返ったようだ。


「 ・・・じゃなくて!!何でこんなところに徐庶がいるのよ!? 」


 真っ赤になったが、ぽかぽかと拳を打ち付けて暴れた( といってもびくともしないが )


「 何で、と言われても、少し休憩していたんだ。此処は人の通りもないからね。
  こそどうしたんだ?この時間は孔明の講義だろう。
  まさか、君主ともあろうお方が逃げてきた、なんてことはないよな? 」
「 にっ・・・逃げたりなんかしないわよ!!
  わ、私も休憩よ!ちょっと疲れただけもん、すぐ戻るつもりよ 」


 袖を口元に当てて、ほほ、と彼女は笑ったが、その微笑が引き攣ったのは一目瞭然。
 俺はしばらく我慢していたが、堪えきれずに吹き出してしまう。
 酷い!とは頬を膨らませたが・・・すぐに苦笑に変わる。
 肩の力をすとんと抜いて、大きな溜め息混じりに困ったような顔で俺を見つめた。


「 ・・・はあ、徐庶にはお見通しなのね 」
「 我が君主さまが、あまり机に向かうのが得意じゃないのは理解しているよ 」
「 だけど孔明ってばそれを知ってて強要してくるんだもん!ほんっと酷い!鬼畜! 」


 孔明には絶対面と向かって言えないけど!
 拳を天に突き上げて、そう宣言する彼女があまりにも堂々としていて、逆に笑いを誘う。
 ( こういうところが、我が君主さまの愛らしいところだ )
 やれやれ・・・と俺は頭を掻くと、彼女の頭にそっとてのひらを乗せた。


「 ・・・徐庶? 」
「 ついておいで、。同じ休憩なら、少し俺に付き合ってはもらえないだろうか? 」
「 あ、うん。いいよ! 」


 てのひらの乗せたまま俺を上目遣いに見上げて、彼女は素直に頷いた。
 その手をに差し出し、繋いでやれば、嬉しそうに瞳を細めて俺の腕にしがみつく。
 ・・・彼女のこういうところは好感を持てる。君主というより妙齢の娘相応という意味で。
 が、同時に、いまいち男性への危機感に足りないと思う時がある。


「 ( 天真爛漫な君主さま、か・・・ ) 」


 前君主の唯一の子であるが君主となったのは、わずか10歳になったばかりだった。


 彼女が、一人前の君主として、また女性として成長するまでの間。
 全権を委ねられた諸葛孔明が、国の一切を引き受けた。
 そんな彼が、を育てる上で第一信条としたこと・・・それは『 人を信じること 』だった。
 世間の悪しきことから隔離された彼女を、君主として頼りないと言う輩も多いだろう。
 けれど、その真っ直ぐな瞳が何よりも換えがたいものになる時が絶対にある。
 真白き存在は神々しく、皆の希望的存在になるように・・・と、孔明は考えているようだ。
 彼女を汚そうとする者を罰するのは、臣下である自分たちの役目だ、とも。

 それに、は誰でも信用する訳ではない。
 自分で見極めた存在にのみ、全幅の信頼を、真心を委ねてくれるのだ。
 だから彼女を、『  』と親しみを込めて名を呼ぶことを赦してくれる。
 そして年頃になっても、無垢な笑顔でついて来てくれるのは、俺への信頼の証なのだ。


「 ( 君主にそう思ってもらえるのは純粋に嬉しい・・・が、男としては複雑だな・・・ ) 」


 彼女にバレないよう小さく溜め息を吐いてから、はっとする。





「 ( 俺は・・・に『 臣下 』ではなく『 男 』として求められたいのだろうか・・・ ) 」





 ・・・い、いや、そんな訳ない。
 相手は君主だ。は俺が使えるべき立場の人間であって決して・・・。

 と、言い訳染みた言葉がぐるぐると頭を回っているうちに、足が止まっていたようだ。


「 徐庶? 」


 咄嗟に振り向いた俺の顔すぐ近くに、の大きな瞳があった。


「 ・・・っ!えっ、、あ、の・・・ 」
「 どうしたの??急に立ち止まっちゃったから、具合でも悪いのかなーって 」
「 い、いいや!大丈夫だ・・・行こうか 」


 首を傾げた彼女の髪がさらりと揺れる。黒緑色の瞳が、真っ赤になった俺の姿を映していた。
 動揺した心の奥まで覗かれてしまいそうで、それとなく視線を外して騒ぐ心を素早く鎮める。
 平静を装って、心配そうな声を出したに笑いかけると、心を解した彼女が笑顔に戻った。
 どちらともなく差し伸べた手をもう一度繋いで、俺たちは茂みを抜けた。

 そこは庭の端。
 低い城壁が取り囲む平地だったが、連れて行きたかったのは『 其処 』ではない。
 繋いでいた手を引き寄せて、そのまま自分の首に回すとを抱き上げ、大地を蹴った。


「 ひゃっ! 」


 小さな悲鳴が耳を突く。掴んだ太い枝にぶら下がると、反動をつけて次の枝へと渡る。
 ひとつ、ふたつ登ったところで、安全を確かめてから枝の上へと腰を下ろした。
 俺が立っていたままでは、いつ足を竦ませるか解らない。
 ぎゅっと目を瞑ったまま硬直しているをそっと膝の上に乗せて、見て、と耳元で囁く。
 俺の声に、彼女は恐る恐る瞳を開いた。


「 此処が、俺のつれてきたかった場所だよ 」


 あんなに怖そうにしていたが、その景色を見た瞬間、呆気にとられたように絶句した。


 そこから見える景色は、宮殿を中心に広がる無数の屋根。
 夕餉の支度が始まっている家もあるのか、かまどの煙が上がっている。
 民の姿が見えるほど近くはないが、人の気配がそこかしこにあるのは、遠目からでもわかった。
 あの一軒一軒に人が住み、生活を営み、日々の暮らしている。
 当然のことだが、どうしようもなく感動したようだった。

 もちろん玉座に居ても、普段は官吏からの報告を受け、城にいても国の様子は解る。
 機会は少ないけれど、視察に出れば民と交流することもある。それは解っているのだけど。
 低い塀のおかげで、大樹の上から見える景色はもっと現実味があった。

 興奮したように頬を染めた彼女は、気持ちが落ち着いてきたのか一度大きく深呼吸する。
 ふう、と息を吐きながら、瞳を開いた彼女の輝いた表情に・・・思わず、どきりとした。






「 ありがとう、徐庶。この国に生活している民の為にも、私、頑張らなきゃ・・・だね 」






 自信に満ちた顔の彼女は・・・立派な『 君主 』だった。






 彼女はこんなに小さい身体なのに、その懐は広く深い。
 君主の言葉は大変光栄なものだった。彼女に仕えることができる自分は幸せだと改めて思った。
 を支える手を離す訳にはいかないので拱手は出来なかったが、自然と頭が下がる。
 けれど・・・俯いた俺の眉根にはぎゅっと皺が寄せられていた。


「 ( 嬉しいはずなのに、何故か胸の奥がちくりと痛むのだろうか・・・ ) 」


 苦しい。
 そう思ったが、ふいに振り向いたに目を奪われて、すぐ様痛みから目を逸らした。


「 ねえ、徐庶。この場所、他の人に教えても良い?? 」
「 え・・・どうしてだい? 」
「 またこの景色を見たいって思った時に、一人じゃこの樹を登れないし・・・。
  徐庶のいない時に誰かを誘おうかなって。皆も見たいかもしれないじゃない?
  宮殿にいながら、民の息吹を感じられる場所なんてなかなかないもの 」


 忙しい孔明だって、城下に下りなくても良くなるんじゃないかな、とは至って無邪気だ。
 彼女の言い分は最もだ。孔明だけでなく、喜ぶ官吏や武将がいるかもしれない。

 なのに・・・俺は敢えて首を振って、右手の人差し指を、その柔らかい唇に押し当てた。







「 それでも・・・2人だけの、俺とだけの秘密にしておこう。だから、俺を呼んで。
  君が望むなら、いつでも俺が連れてきてあげるから・・・約束、できるかい? 」







 驚いたように、ぱちくりと瞬きを繰り返すに優しく微笑んで、人差し指を離す。
 生温かい唇の感触が、名残惜しむようにゆっくり、ゆっくりと指先から消えていく・・・。
 大胆なことをした、と今になって心臓が飛び出しそうなほど、強く鼓動する。
 そんな俺の心境など露知らず、はぱあっと瞳を輝かせた。


「 約束する約束するっ!見たくなったら徐庶に声、かけるからねっ!! 」


 わーい!と諸手を上げてはしゃぐ彼女は、『 秘密 』の意味なんて理解していないのだろう。
 ・・・それでも、今こうしてが笑顔でいるのならば、それでいい、と思ってしまう。






 彼女の笑顔に、温かい感情で心が満たされていくものの。

 ふいに、指先に付着した紅の色を見て・・・どうしようもなく胸中を揺さぶられるのであった。






絶対君主にしてる!

- 徐庶 -

( 「 おかえりなさい。講義を抜け出して、徐庶との『 休憩 』は楽しかったですか? 」「 ( ば、バレてる! ) 」 )




Title:"capriccio"
Material:"Tiny tot"