時間が近づけば近づくほど、何度も顔を上げて扉の外の気配を確認してしまう。


 この陽の高さ・・・もうそろそろだと思うのに。
 そう思うと居ても経ってもいられなくて、執務室の椅子を立った。
 それが合図。最初は首を傾げていた副将も、今では了解したと云わんばかりに竹簡を抱えて室を後にする。
 ぱたり、と扉が閉まる音が独りになった執務室に響く。私は小さな溜め息を吐いて、元の席に戻った。


 ・・・この時間になると副将が出て行ってしまう理由がわからなかったのですが・・・。
 今ならわかる気がする、のです、何となく。私に気を遣ってくれているのでしょう。






 何故なら・・・この時間に、いつも・・・。






「 こんにちは、楽進さま。です、お邪魔してもよろしいでしょうか 」


 軽く扉を叩く音がして、反射的に腰を浮かせた。
 大きな音を立てて椅子が後ろにひっくり返る。扉の向こうで、きゃ、と驚いたような彼女の声がした。


「 楽進さま・・・あの、大丈夫ですか!? 」
「 はっ、はははいッ!申し訳ありません、今開けますので!! 」


 か、彼女を待たせてはいけません!( せせせ折角の来訪だというのに )
 慌てて駆け寄り、扉の前で急ぎ深呼吸をひとつ。柄を掴んで、ぎ、と引くと・・・そこに殿が立っていた。
 部屋に差し込む光に照らされて、薄暗い廊下にいた殿の顔に微笑が浮かぶ。
 小さく頭を下げて、こんにちは、と改めて挨拶された。
 私も目一杯背筋を伸ばして直角に頭を下げると、殿はクスクスと苦笑する。


「 将軍たる楽進さまが、私ごときにそんな丁寧なさらなくても結構ですのに 」
「 いえ、そんな・・・殿は医師殿です。ましてや毎日、怪我のために往診して下さっているのですから 」
「 正確には医師の卵、ですけど。恐縮していただけるなら、次の戦では怪我をせずに帰還してくださいな 」


 はい・・・と小さくなった私を、室の中で商売道具を広げ始めた彼女が手招きする。
 最早『 定位置 』となった椅子に座り、じ、と彼女の背中を見つめる。用意してくれているのは消毒だろう。


「 では、失礼します 」


 殿の細い指が伸びる。その白さを、閉じ込めるように瞼を閉じるのが・・・好きだった。
 右額に貼っていた布をそっと剥がし、傷の様子を確かめているのが気配でわかる。
 かちゃり、と軽い金属音がした。ああ、これから消毒でしょうか、と思った矢先に傷に冷たい感触。
 途端、額から静電気のような痛みが走る。沁みますか?と問われ、反射的に首を振ろうとして止める。
 ( こっ、これ以上殿を驚かせてしまうのは気が引けます )
 いいえ、と答えたのにお見通しだったのか、彼女は傷口に息を吹きかけてくれた。
 柔らかな吐息に全身が粟立つ。彼女は気づいた様子もなく、次の作業に取り掛かっているようだった、が。




「 ( ・・・まずい、非常にまずい予感がするのです・・・ ) 」




 『 勘 』は李典殿の得意分野だが、こんな私でも『 わかる 』ことくらいはある。




 粟立ったと同時に、どくりと胸打つ心臓を鷲掴みにしたい気分だった。
 ・・・そ・・・んなに、激しく鼓動しては、気づかれてしまいます!!




「 ・・・・・・さま、楽進さま 」
「 え、あっ、はい!はいッ!! 」


 突然声をかけられて、大袈裟なほど身体が揺れた。瞳を開けると殿は不思議そうに首を傾げている。
 あ・・・あからさま過ぎましたか・・・と内心汗が伝うのを感じながら、必死に動揺する気持ちを抑えていた。
 頬の辺りが引き攣るのを感じたまま固まっていると、申し訳なさそうに彼女が言う。


「 頭に見落としていた傷があったみたいで・・・すみません。今まで痛くなかったですか? 」
「 いえ、特には。寝ていても気になったことはありません 」
「 なら良かった、というのはおかしいですね。手当てしますので、もうしばらく座っていてください 」
「 わかりました 」


 殿の指がまた伸び、私は目を閉じる・・・が、先ほどとは違う。
 傷は頭の天辺に近い場所だったのだろう( 先日の戦場で矢をかわしたことがありました・・・あの時でしょうか )
 正面に回りこんだ殿の声が、目を閉じてじっとしていてくださいね、と耳に届いた。
 ・・・目を閉じていると、五感が研ぎ澄まされるのは武将の性だ。
 身を乗り出して治療を施してくれているのだろう。つんとした消毒の匂いに混じる彼女の香が鼻腔をくすぐる。
 それだけでも『 暴れ 』だしたくなるのに、眼前から感じる『 熱 』に酔いそうになる。


「 ( ・・・少しだけなら、開けても平気でしょうか ) 」


 『 熱 』の正体を確かめるべく、こっそり左目だけ薄く開けてみる。
 眼前には随分と近い殿の身体。華奢な肢体が私に覆いかぶさっていた。
 手を伸ばせば届く距離に・・・彼女が居る。膝の上で握り締めた拳が、ぴくりと動いた。
 ・・・それよりも、いつも間にか開いていた両目に迫るのが、か、かか彼女の胸だと気づいて一気に体温が上昇する!
 思わずごくりと大きく息を呑んだ私に気づいて、殿が慌てて身体を離した。


「 申し訳ありません!私ったら、楽進さまに寄りかかって・・・ 」
「 いッ・・・い、いえっ!そのっ、あの!!わた、私は・・・ッ!! 」
「 ・・・もう少しなので、もう一度、寄りかかっても大丈夫ですか? 」
「 え、は、は・・・は、いっ・・・ 」


 短く息を吐いて、再び拳を握って背筋をぴんと伸ばす。先程よりも、遠慮がちになっている彼女の気配が伺えた。
 ・・・寄りかかるという行為より、頬に触れる『 熱 』の存在に、動揺してしまうのですが。
 ( そ・・・その、私も至って健全な男であるため、なのですが・・・! )
 か、彼女は治療のために私に触れているというのに。自分は何故こんな風に邪な考えしか抱けないのでしょうか。
 自分だけ、こんな・・・と自己嫌悪に陥っていると、あっという間に『 熱 』が離れる。
 ゆっくり瞳を開いた私に、手を拭きながら殿が笑った。


「 終わりました。ご協力ありがとうございます、楽進さま。嫌な思いさせてしまってごめんなさい 」
「 そ、そんなことありませんッ!えっと、殿こそ、いつも丁寧な治療をありがとうございます・・・ 」
「 額の傷は、もう診なくても大丈夫のようです。早めに完治して良かったですね 」
「 ・・・そうですか、完治ということはこれで終わり、なのですね・・・ 」


 『 用事 』がなければ、こうして定期的に逢うことはなくなる。
 自然とがっかり感が出てしまったのか、彼女がどうしましたか?と尋ねてきた。
 何とか誤魔化そうと、道具を片付けるのを手伝う( といっても、私ににできるのは包帯をまとめることくらいですが )


「 ( あ・・・そうだ、茶でも・・・ ) 」


 隣の部屋に、女官が用意してくれた茶道具がある。執務に疲れた時などに利用するが、客人が訪れた時も当然使う。
 ・・・一度、殿を誘ってみたいと思っていたのだ。いつもすぐに帰られてしまうのは、何だか味気なくて。
 最後くらいお誘いしたい、と、籠に道具を仕舞い終えた彼女の前に立つ。殿は不思議そうに顔を上げた。


「 楽進さま? 」


 上目遣いの殿は、きょとんと首を傾げる。
 小動物のような動作にかっと熱が上がった( 傷口から血が噴出してもおかしくないくらい・・・ )








「 殿、お忙しいのは存じておりますが私と茶でもいかがでしょうか 」








 ・・・と、すらりと言いたかったのに・・・現実は理想とは程遠かった。








「 、殿ッ!あ・・・あのっ、あ、あのッ!その・・・ 」
「 ・・・・・・・・? 」
「 えっと!その、あの・・・です、ねッ! 」


 ぱくぱくと酸欠のように口を開けて、真っ赤な顔になっている私を殿が訝しげに見つめている。


「 ・・・もしかして、まだどこか痛いところがおありですか? 」
「 いいいいいえッ!そのようなことは決して・・・!殿の治療のおかげですッ!! 」
「 ふふっ、よかった。そう言っていただけて嬉しいです 」


 プルプルともの凄い速さで首を振った私を見て、満足そうに微笑むと彼女は袍の裾を翻す。
 机上に置いていた籠を胸に抱き、それでは、と室に入って来た時と同じように頭を下げた。


「 楽進さまの次は、李典さまの治療に伺わないといけないので・・・これで失礼致します 」
「 そ・・・そう、ですか・・・は・・・はは・・・ 」
「 ・・・楽進さま、本当にいかがなさいましたか?何だか急に肩が落ちているような 」
「 いえ・・・何でも・・・何でも、ありません・・・ 」


 次の患者が待っている・・・か。そうだ、彼女は医者の卵なのです。
 殿がその仕事に責任と誇りを持っているのは知っていたはず。ならば私ごときが引き止めていいはずがない。
 ふっと全身の力が抜けて、私は笑顔を作る。そして、ありがとうございました、と殿に頭を下げた。
 何か言いたげな彼女は心配そうな顔をしていたが、お送りしましょう、と扉まで促すと渋々頷く。
 それでも諦め切れなかったのか・・・彼女は扉をくぐる際にふと顔を上げて、私にこう告げた。


「 あの・・・それでは、楽進さま・・・また、明日 」
「 ・・・明日・・・? 」
「 額の傷は今日で完治したと言っても過言ではないのですけれど・・・。
  さっき見つけた頭の怪我を診に参ります。ご迷惑でなければ明日もお伺いしてもよろしいですか? 」
「 も・・・っ、もちろんです!!是非!迷惑だなんて、そ、そんなこと、っ! 」
「 ・・・よかった。寄りかかって気を悪くされたのだとしたら、どうしようかと・・・ 」


 視線を逸らし、安堵したように息を吐いた彼女を見て、どうしようもなく・・・抱き締めたく、なる。
 扉を開け放つ手が僅かに震えた( このまま扉を閉めて殿に伸ばしてしまおうか、なんて・・・ )
 花のような笑顔のまま拱手した殿は、では、と扉をくぐって室を後にした。
 廊下に一歩出て、李典殿の執務室へと歩いていく彼女を見送る。
 一度だけ振り返って、また頭を下げたので、私もそれに倣う。
 曲がり角に消えた背中の残像を追うように、名残惜しくて扉の前で立ち竦んでいた。






「 ( ・・・また、明日、ですか ) 」






 また明日、殿に逢える。


 そう思うと、何だか心の内側が温かくなる。あの微笑みをまた明日も見られるのだ。
 ・・・ならば、好機が一日伸びたと思うことにしましょう。明日こそは必ず茶に誘ってみせます!
 どうせなら好きな銘柄でも聞いておけばよかったですね、と思いながら扉を閉めた。












 また明日、今日と同じ時間に・・・この扉の向こうに現れるであろう、愛しい彼女の面影を思い描きながら。












「また明日」とほほえんでくれるだけで



( こうして貴女と過ごす時間が、何よりも待ち遠しくなるのです )






Title:"黄昏に紅"