彼女は、池の傍の石に腰をかけていた。


 上田の秋は他より遅く、葉はまだ青々と多い繁っている。
 深紅色の着物を纏った彼女の背後には白樺。足元の池には藻の間から錦鯉が顔を出していた。
 様々な色が混じっているにも関わらず、均衡の整った一枚の絵のようだと思った。
 絵心の何たるかなど全く解らない某だったが・・・心を奪われ、立ち尽くしていた。


「 あっ、幸村さまっ! 」


 渡り廊下にいた某に気づいたのだろう。彼女は、絵の中からぴょんと飛び出した。
 着物の裾を翻し、草履を放り出して自分も廊下に登ると、こちらへと一目散に駆けてくる。
 徐々に縮まる距離に心臓が高鳴る。避けたい衝動と、笑顔の彼女を受け止めたい気持ちが衝突していた。
 どちらの結論にも辿り着かないまま、顔の熱だけが上っていくうちに・・・。
 どこからともなく伸びた手が、ひょいっと彼女の襟元を摘んで、迫っていた影の進行を止めた。


「 ちゃーん!それ以上近づくと、旦那に避けられて転んじゃうよっていつも言ってるじゃない 」
「 さ、佐助! 」
「 佐助さんっ! 」


 彼女を摘み上げたのは、庭の木々と同じ色の装束を纏った佐助だった。
 動きの止まった殿を開放して、やれやれ・・・と子供にそうするように頭を撫でた。
 撫でられた指の合間から佐助の笑顔を見つけて、彼女の顔がぱっと輝く。


「 佐助さん、おかえりなさい!そ、そうでした・・・ごめんなさい、私ったら・・・ 」


 ( ちくり )


 恥ずかしそうに彼女は頬を染めて、数歩下がって廊下に額をつけた。
 それに合わせて、某の視線も自然と降りる。叩頭したの長い黒髪が、さらりと床を撫でた。


「 おかえりなさいませ、幸村さま。城下の見回り、お疲れ様でした。冷たいお茶をご用意いたしますね 」

「 あ・・・ああ、お願い、致す 」
「 かしこまりました 」


 にこ、と微笑んで、先程とはうって変わったように静々と歩いて去っていく。
 消えていく背中からも目を離せず、ぼんやりとを見送っていると・・・。
 いつの間にか隣に来ていた佐助が、肩を竦める。


「 旦那もさ、ちゃんが上田に来てから一年にもなるんだし、そろそろ『 受け止め 』たら? 」
「 ・・・どういう意味だ、佐助 」
「 過去に一度、本当に避けちゃって、ちゃんが庭にすってんころりと転がったことがあったじゃない。
  いい加減、女人が苦手、だなんて言ってらんないでしょってコト。さっきだって避けようとしてたでしょ? 」
「 そっ、そんなことは・・・! 」
「 ないって言い切れるのかい、旦那?観念して、ちゃん戻ってきたら縁側でも仲良くお茶しなよ 」


 食いかかる前に、手を振った佐助の気配はあっという間に消える。
 ぐぬぬ・・・と焦りと怒りを溜めていた拳を、ゆっくり力を解く。同時に溜め息も零れた。
 掌を見つめれば少しだけ爪の跡が残っている。力強く握り締めたせいだ。
 佐助の言う通り、というのは気に食わないが、縁側にどかりと腰を下ろす。
 こんな気持ちになるくらいなら、一言くらい言い返せばよかった・・・だが、事実でござる。


「 ( 殿を受け止めるか、避けるか、迷ってしまった・・・ ) 」


 手の異常は爪の跡だけではない。ほんの僅かだが・・・震えている。
 母親の顔を覚えぬ年から武田家に仕えているせいか、女性は苦手、だ。
 けれど決して『 嫌い 』なのではないし、興味がないというわけでは・・・いや!こ、これは破廉恥な!!






 ただ・・・どうしてであろう。どんなに考え抜いても、某にはわからぬのだ。






「 幸村さま、お待たせいたしました 」


 両手で盆を持った彼女が現れる。某の傍らの、一歩離れた場所に膝をつく。
 茶の準備と同時に、まずはこちらを、と白い手拭を差し出された。
 ここに持ってくる直前まで冷やされていた物なのであろう。
 手に取るとよく冷えていて、顔や首筋を拭うと疲れも一瞬で消えた。
 溜まらず吐息を吐くと、隣でくすくすと忍笑う気配。拭ったはずの顔に、嫌な汗がじわりと浮かぶ。


「 ・・・そ・・・某、何かおかしいところがあっただろうか・・・ 」
「 申し訳ありません、あの、その・・・お心安らいだなら、やっぱり用意してよかったなと思えて 」


 手拭のことだろう。羞恥に顔を赤くしたまま某が素直に頷いてみせると、殿は嬉しそうに笑った。
 その笑顔が眩しくて・・・ただでさえ口下手な某は、言葉すら失ってしまうのだ。
 それでは預かりましょうか、と伸ばされた手に渡そうとした時だった。人差し指が、彼女の手に触れる。


「 うおおォッ!? 」


 それはほんの一瞬の出来事なのに、身体に電流が走ったようにびくりと大きく身体が震えた。
 あ、との口が大きく開いて、彼女も慌てて後ずさり平伏する。


「 もっ、申し訳ありませんっ! 」
「 ・・・い・・・いや、こ、こちらこそ大袈裟に・・・失礼した・・・ 」
「 ・・・・・・いえ、 」


 平気です、と俯いた彼女はそう紡いだが。
 顔を下げる直前に見えた・・・八の字眉と、潤んだ瞳はもしか、して。


 ( ちくり )


 何ともいえない気持ちに固まった某の前に、冷茶が差し出された。
 殿の顔を・・・ちらりと伺うように見れば、彼女は至っていつも通り、だった。
 その表情の下に隠したものが爆発してしまわないか、と某の緊張が解かれることは無かった。
 いただきます、ええどうぞ、なんて在り来たりな会話が交わされて・・・。


「 ・・・美味い・・・ 」


 と、某が呟いた時の・・・殿の顔、といったら。








 ( どき、ん )








「 よかった!賄係の女中さんに習ったんです。私が幸村さまにできるのは、これくらいしかないから 」
「 そ・・・そんなことは 」
「 いいえ、本当なんです・・・幸村さまからもらうものは多いのに、私はこんなことでしか返せない 」


 そう言って、目を伏せる彼女に・・・気の利いた言葉のひとつでも返してやりたかったのに。
 殿の白い頬に、黒髪が流れる。伏せた睫が憂いた影を落とした。


 ( ちくり )


「 そんなことはないッ! 」
「 ・・・えっ!? 」
「 そんなことは、ござらん・・・殿は、、殿は 」






 そうやっていつも穏やかに、真っ直ぐな眼差しで某を見ていてくれるから。






 それだけで、某の心は癒されるのです。励まされているのです。
 戦場にいても、城下に降りていても、貴女が待っていてくれていると思うだけで強くなれる。
 貴女がいる場所・・・すなわち其処が、某の『 帰る場所 』なのでござる。
 ( だから本当は『 おかえりなさい 』は、一番に佐助ではなく某に言って欲しかった、のだが )


 ・・・なのにどうして、貴女は時々、そんな泣きそうな顔をするのでござろうか。


 殿が悲しい顔になれば、某だって悲しい。
 貴女が笑っていれば・・・某は、どうしようもなく『 嬉しい 』のに。
 輝く笑顔に心臓が高鳴って、いや高鳴りすぎて、逆にその場から逃げ出したい気持ちになるが・・・。






「 ・・・幸村、さま・・・? 」


 大きな瞳を丸くして、殿が某を見上げていた。詰まった言葉の先を待っているのだろう。
 だが、心の中で渦巻くたくさんの言の葉が『 音 』になることはなかった。
 静かになった縁側で聞こえるのは、遠くで鳴く鳥の声だけ。
 沈黙に耐えかねて、先に白旗を挙げたのは・・・恥ずかしいことに、某の方だった。
 見つめあっていた視線をふい、と逸らしてしまうと、殿が更に落ち込んだように俯いた。


 ( ちくり )


「 ・・・そ・・・そうだ、お団子!お団子があるんです!幸村さま、お好きですよね!? 」
「 あ・・・ああ 」
「 今、お持ちいたします。お待ち下さいませ 」


 彼女の、妙に明るい声ははっきりと聞こえるのに、表情は一切伺えなかった。
 すくっと立つと、慌ててその場を後にする。
 無意識に引きとめようと伸ばした手だけが宙に浮いて・・・仕方なく引っ込めた。
 もう少し饒舌であったなら、とこの時ほど後悔したことは過去にない。
 はああ、と大きな溜め息を吐いて、眼前に広がる・・・彼女の『 居た 』庭を眺めた。


 ・・・彼女は此処で、何を見ていたのだろうか。少しは某のことを考えてくれた時間があっただろうか。
 なんて自惚れた考えが浮かんでは、可能性の低さに落ち込むのだ。


「 ・・・殿・・・ 」


 森の精がいるとしたら、殿のような人だろう。それほど先程見た光景は忘れ難い。
 堅物の自分がのぼせ上がるほど、愛くるしく美しかった。この世の祝福を一身に受けたような神々しさがあった。
 心底惚れ惚れしてしまう・・・といっても、惚れているのはもっと以前からだ。
 女子が苦手でも嫌いでもないのに未だ受け止められないのは、相手が殿だから、こそ。
 ・・・きっと、あのまま抱きつかれたら幸せで卒倒しそうだし。
 万が一、抱き締めてしまえば・・・きっともう、二度と離さないから。


 これが・・・恋か。狂おしいほどの気持ち、どう消化したらいいのかわからないほどの。


 彼女の笑顔を受け止めたいのに、正面から受け止める勇気がない。
 戦場に立つより、彼女に向かい合って立つことの方が怖い。
 見つめられて、自分という存在を意識されて嬉しいはずなのに裏腹な態度ばかり表に出てしまう。
 愛しているのに、一粒も気持ちを伝えられなくて、胸の中に甘い痛みと後悔が傷となって積もる。










 無垢で、高尚潔白な殿。
 戦場を駆け抜け血に染まった某の腕が・・・真っ白な彼女に触れてはいけないと、わかっているのに。










「 ( どうしたら・・・いいので、ござろうか・・・ ) 」










 収まる様子なく、むしろ日々募る苦しい気持ちと欲求ごとこの身に閉じ込めて。


 頭を抱えて身体を丸めた某をからかうように、池の鯉が水音を立てて跳ねた。










せつないくらいでちょうどいい



( こんなに苦しいなら恋など知らぬほうがよかったのではないか、そんな錯覚に捕らわれるのでござる )






Title:"春告げチーリン"