寒い、牀榻にこのまま潜っていたい、出たくたい・・・けれどそれ以上に、やっぱり寒い。
結局、身体が竦むほどの悪寒を覚えて起きてしまった・・・嫌な目覚めだ。
脱ぎ捨てたままの、床に落ちていた夜着を引き寄せる。
羽根のように軽くて薄い、という売り文句に惹かれて買ったが今朝はそれが恨めしいと思った。
が、無いよりましだ。悴んだ指先を何とか動かして帯を結ぶと、冷たい板の上を歩いて窓辺に移動する。
窓が開いている、道理で寒いはずだ・・・ああ、そうか。昨日は『 熱中 』していて気がつかなかった。
自分を抱き締めて離さなかった存在が『 居た 』ことを思い出す。でもとにかく今は寒い。早く、早く窓を閉めよう。
そう思って手を伸ばしたはずのに・・・窓の外から眺める世界は、圧巻だった。
「 ( ・・・雪、か。一晩でこんなに積もるなんて ) 」
降るとわかっていれば、せめて朝までなら居てもいいよ、と言えたのに。さすがに私もそこまで鬼じゃないさ。
積雪の中を帰らせたのかと思うと、若干自己嫌悪に陥る・・・えっと、もう彼女の名前も顔も思い出せないけれど。
( まあ、私にとってその程度の存在だったといえば、それまでだけど、ね )
窓辺の桟に腰をかけて、そのまま白銀の世界に見入っていたようだ。
部屋に入る時は必ず声をかけてくれる彼女に気づかず、叱られる破目となったのだから。
「 なっ!何しているんですか郭嘉さまッ!! 」
「 やあ、おはよう、。いい朝だね 」
「 いい朝かもしれませんが今朝は寒すぎます!お身体に障りますから、早く窓を閉めてください 」
「 ・・・やれやれ、では姫君の仰せのままに 」
「 姫は余計です 」
ぴしゃり、とねじ伏せるかの如く、が厳しく言い放つ。
大袈裟に肩を竦めると、また怒られるのだろうな・・・と悟り、小さく竦めてみたがやっぱり睨まれた。
( どのみち睨まれるのなら、あてつけに大袈裟にやっておけばよかったな・・・ )
乳兄妹であるは、いつもそう。私の色香を全く理解してくれない『 変わり者 』だ。
幼い頃から身体の弱い傾向のあった私を、いつも傍で見守っててくれた。
身の回りのことを頼んでいた乳母が亡くなり、代わりに屋敷に上がってくれた時は心底嬉しかったのに。
凛としていた憧れの『 彼女 』は、今では口煩い只の小娘に成り下がってしまった・・・というわけだ。
「 ( 小言も多いし、意地っ張り度は上がってるし。何よりこの私を『 男 』として見てくれないなんて ) 」
「 郭嘉さま、今、良からぬこと考えましたでしょう・・・そうですねえ、例えば私の悪口とか 」
「 ・・・え? 」
急に声をかけられて、我に返る( えっ・・・と、口に出していないはずなのにどうしてわかったんだろう・・・? )
じと目で睨むを横目に、無意識に交わした会話を脳内で巻き戻して、必死に思い出す。
・・・とりあえずこれ以上煩く言われるのを避けなければ。ふっと唇を緩めて首を横に振る。
「 愛しい貴女を前にしてそんなこと考えるわけ、ないじゃないか・・・うん、そうだな。良からぬことと言えば 」
「 如何わしい口説き文句は、郭嘉さまの仰る『 いい朝 』には不釣り合いですから控えてくださいね 」
首を振る度に長い前髪から光が零れるようだ、と他の女性はうっとりと頬を染めるのにには通用しない。
( それどころか『 楽しんで 』ばかりいるから睡眠不足で脳が働かないのですよ、と付け足される )
だが・・・彼女は厳しくとも、優しい。窓を開けたままにしておいてくれ、と我侭を言えば渋々頷いてくれた。
は分厚い着物を持ってくると、薄着の私に頭から被せる。
わ、ぷ!と驚きの声をあげた私を手のかかる子供を見守るような視線で見つめられているのがわかった。
「 ・・・ありがとう、 」
素直にお礼を言うと、いいえ、と小さく答えて仏頂面に戻ってしまう。朝食の準備にとりかかるのだろう。
曹操さまに仕えると決めたからには、住み慣れた故郷を離れるしかない・・・その我侭に彼女もついてきてくれた。
此処に住み始めてまだ日は浅いが、新しい屋敷での生活にようやく馴染んできたところだろう。
それまでは・・・随分と四苦八苦しているのは解っていた。
新しく雇った者に主人の世話をさせる訳にはいかないと、一人で私の世話を焼いてくれている。
それは身を案じての選択だが、私に憧れる者の『 嫉妬 』に繋がるのは目に見えていたというのに。
一家の管理者として若すぎると蔑まれても、私の手がついた愛人じゃないかと疎まれても・・・。
( 私としては願ってもないことだけど、ね。事実無根なのがむしろ残念だ )
は泣き言ひとつ言わなかった。絶対に、だ。何でも一人で抱え込むのは彼女の悪い癖なのは知っていた。
でもそうさせたのは、他でもない・・・私。それが寂しいと思うと共に、主として情けないことだと反省した。
たとえ、昔とは違い、口煩い只の小娘になってしまっても・・・。
誰にも頼らず、私を全力で守ろうとするその背中は、昔から愛して止まない『 凛とした憧れの彼女 』のままだった。
「 ( だからは、私には勿体無いほどの『 女性 』だし、彼女の代わりはいないと思うんだ ) 」
卓に並べられた料理の数々は、が私の為に栄養を考えて作らせたもの。
味の好みも、食べやすさも、これほど私を大切にしてくれる女性は、世界広しといえど彼女だけだ。
亡くなった母の代わりに・・・その想いがこうした『 形 』になって、彼女を動かし、私を支えてくれている。
だから私もの想いに応えるべくもっともっと『 大切 』にしたいと思うのに・・・何故『 堕ちて 』くれないのだろう。
ふうと大きな溜め息を吐いて、彼女が手際よく卓に朝食の準備を整えていくのをぼんやりと眺めた。
「 そういえば・・・雪はいつから降ったのかな 」
「 明け方からです。大粒だったのであっという間に積もってしまったみたいです・・・あ、もしかして昨日、の? 」
「 ああ。こんな雪の中、女性を独りで帰したのかと思うと気の毒になってね 」
「 妓楼の馬車を呼んでいたみたいですから、大丈夫だと思いますよ 」
「 ・・・そうなのかい? 」
「 はい。郭嘉さまの女癖の悪さを応援するわけじゃないですけど、把握はしていようと思いますので 」
の面白いところは、私の女癖を『 理解 』してくれているところだと思う。
( あくまで『 理解 』であって『 許諾 』しているわけではないのだけれど )
それは私が彼女の『 主人 』であるから、というのはわかってるけれど・・・どうも解せないね。
頬杖をついて、押し黙ったまま彼女を見やる。
汁椀の湯気の向こうに見えたが、上目遣いの私を訝しげに見つめ返した。
「 ・・・な、何です、か? 」
主の不機嫌を察してか、気丈なの声が珍しく上擦ったものになる。
私はそんな彼女を安心させるような『 極上の笑顔 』を作って返す。
「 うん、そろそろ僕のものになってくれないかなと思ってね 」
・・・憧れを通り越して、本当はずっと君に恋しているって、いつになったら気づいてもらえるのかな。
そろそろ『 主人 』ではなく、郭嘉という一人の『 男 』として見てくれないだろうか。
どんな女性にも敵わないほどの長い時間を、貴女と一緒に過ごしてきたのだから、いい加減気づいて欲しい。
そう願ってしまうのは・・・片想いしているのが私の方だから、なのかな。
茶化すと朝飯はなしです、と器を取り上げようとするので、酷いなあ!と反論すると思いの外悲惨な声が出た。
・・・が、笑う。乳母が亡くなってから、主人を支えるのは自分しかいないと硬い表情しかしなくなった彼女が。
ああ・・・ほら、彼女が微笑むだけでこんなにも世界が変わる。
あれだけ見惚れていた白銀の雪だって、貴女の『 笑顔 』の前では輝きを失う。
見慣れたはずの食事も、殺風景な部屋の中も、そこに浮かぶ空気さえ宝石のように光って見えるのだ。
くすくすと一緒に笑った自分の頬も、照れながらも緩むのが解った。
それを見た彼女は、からかわれたと思ったのか・・・また表情を無に戻すとくるりと踵を返してしまった。
舞っていた光が輝きを失い、目の前に広がるのはまた殺風景な『 いつもの 』風景・・・。
落胆の溜め息を吐いて、視線を雪景色に戻すが、目の当たりにした幸福な景色はそう簡単に忘れられそうもない。
「 ( うーん・・・どうやったら貴女を、本当の意味で『 幸せ 』に出来るのだろうか ) 」
真剣に、考えてみようか・・・雪が解けて、本当の春がやってくるまでに。
あなたが知らぬ花だって咲くのです
( 難攻不落の貴女を、この郭嘉が最高の軍略を以って堕としてみせよう。覚悟は、いいかい? )
Title:"春告げチーリン"