ひらひらと花びら舞い落ちる季節。柔らかい風に、花はその身を委ねている。
陸遜は、目の前に降ってきたそれを杯に受け止める。薄紅色の花びらは、水面に小さな波紋を投げた。
なんと風流な・・・と杯を一気に飲み干すと同時に、背後からの圧力に思わず噴き出しかけた。
「 陸遜ーっ、飲んでおるか!?酒が足りんのではないのか、いつもと全然変わらないように見えるぞぉ 」
「 ・・・りょ、呂蒙殿・・・はい、楽しんでおります。ただ私は、少々酔いが見た目に出辛い体質のようで・・・ 」
「 あああッ!これはいかん!杯が空ではないか。よーし!俺が注いでやろう、さあ飲めッ!! 」
唇の端から零れそうになった雫を拭って、振り向いた陸遜は自分の上司を仰ぐ。
俺の酒が飲めんのか!?という無言の圧力を携えた呂蒙が、持っていた徳利を差し出していた。
ご機嫌そうな笑み満面に浮かべているが・・・さて、どうしましょうか。
この場を逃れるための言い訳ではなく、本当に顔色が変わらないのが、陸遜の長所であり短所でもある。
呂蒙の気遣いは嬉しいが、実はこれでも充分酔っているのだ。だけど・・・。
「 ではお願いします 」
今日、呂蒙がここまで上機嫌になるのも理解できる。だからむしろ、甘んじてその行為を受けたいと思った。
「 そうこなくては!さ、杯を・・・ 」
呂蒙の差し出す徳利と、陸遜の杯が近づく。だが、杯を持った白い手が合間を縫うように割り込んだ。
驚いた二人が見上げると、呂蒙の後ろにが立っていた。
「 呂蒙殿っ!陸遜殿の前に私に注いで下さるってお約束しましたのに! 」
「 おおっ、か!そうだった、そうだったな、では一献・・・ 」
「 えへへ、ありがとうございます 」
呂蒙の徳利が背後の彼女へと向き直り、が真っ赤な顔でにこーっと微笑んで杯で受け止めた。
起こった展開についていけず、陸遜が呆然としていると、呂蒙の肩越しに彼女がぱちんと片目を瞑る。
・・・声を上げそうになるのを必死に堪えた。一瞬飛び上がった心臓を意識すると、もう鼓動が止まらない。
急に高鳴り出した胸を押さえて、陸遜は顔に熱を集めてしまう。
「 ( 無意識とはいえ、こ、これでは・・・怪しすぎる・・・ ) 」
せめて最初から酒に赤くなっていれば、まだ言い訳できたものの・・・。
慌てて顔を背けて、じわりと浮かんだ汗を拭う。ふ、とその視界が翳ったと思えば、また背中から圧力。
ごちん、と何か固いものが頭にぶつかって、陸遜の目の前に星が散った。
若干涙目になったまま慌てて振り返れば、案の定というべきか、やっぱり呂蒙だったのだが。
「 そろそろ潰れるとは思っていたけれど・・・予感的中、かな 」
頭ぶつかっちゃたみたいだけど、大丈夫だった?
豪快に鼾をかいてひっくり返った彼の代わりに、が申し訳なさそうに手を合わせた。
「 陸遜殿、すみません・・・私、自分で運ぶつもりだったのに 」
しゅん、と肩を下げる彼女を見て、呂蒙を背負った陸遜は首を振った。
「 とんでもない。貴女が優秀な武将であることは知っていますが、これは男の役目です 」
「 ・・・戦場じゃ男も女も関係ないのに。こんな時ばかり男女の役割が決まってるの卑怯な気がします 」
「 いいえ、そうではありませんよ、殿。こんな時しか活躍できないという意味です 」
は呉の食客。放浪の末に孫権の元で刀を振るうことになった、稀な女武将の一人だ。
身につけた武で生きてきただけあって、彼女の力に孫呉は何度も助けられた。
「 ううっ、やだなーもー・・・くすぐったいです、そういうの 」
「 それは私も同じです。飲んでも全然顔に出ないのを知ってたから、助け舟を出してくれたのでしょう? 」
「 凌統殿から聞きました。陸遜殿はあれでも相当酔ってるから、呂蒙殿を止めてやってくれって 」
・・・ああ、それでか。あれは” 呂蒙殿は私が引き受けるから ”と安心させるための合図だったのだ。
本気で勘違いしてしまうところでした・・・と内心焦った陸遜は、同時に軽く落胆した。
そんな彼の心境を知ってか知らずか、は陸遜の一歩前に出て、呂蒙の執務室の扉を開ける。
どこの執務室は、構造は同じ。陸遜は迷いなく仮眠室へと足を向ける。
簡単に寝具を整えたが手招きすると、眠ったままの呂蒙を横たわらせた。
唸るような声がしたが、起きたわけではないらしい。相変わらず、呂蒙は気持ち良さそうに寝息を立てている。
・・・普段は絶対こんな穏やかな表情、見せないのに( でも、そんなところが彼らしいと思う )
同じことを考えたのだろう。隣のも偶然振り向き、二人顔を見合わせて笑った。
「 今日は『 特別 』ですものね・・・おやすみなさい、呂蒙殿 」
が慈愛に満ちた眼差しで、呂蒙を見つめる。陸遜は・・・何故かその表情から目を離せなかった。
執務室から出て、二人きりで廊下を歩いていても心がざわついている。
まだ少し赤い顔をしたは、先程まで呂蒙と張り合っていたとは思えないくらいしっかりとした足取りだ。
さっきまで共に酒を囲んでいた凌統や甘寧の話を聞きながら相槌を打つが、どこか上の空だった。
・・・いつもの『 彼女 』なのに、どこかその輪郭がぼやけて見える。
陸遜の明け透けな視線を感じてか、彼女の口数が減っていき、次第に目を泳がせるようになった。
終いには隠すように両手で頬を覆い、いつか穴が開いちゃうからそんなに見ないで下さい、と苦笑した。
「 まだ赤い顔してるって呆れてるのでしょう?陸遜殿と反対で、すぐ顔に出ちゃうみたいなんです 」
「 私には赤くなる方が羨ましいのですが・・・あの、殿はまた宴会に戻られるのですか? 」
「 ううん、せっかく抜けてきたので、私もこれで終わりにします 」
呂蒙と同じように、自分の執務室に戻り、仮眠するという。
そんな彼女に、お送りします、と言うと一度は遠慮されたが、そこを何とかと押し切った。
普段ならここまで無理強いはしない。でも今は・・・そうでもしないと、二度と逢えないような気すらしたのだ。
どうしてこんなに不安な気持ちになるのだろう。焦燥感に駆られて、陸遜は口を開いた。
「 殿・・・私に何か隠していませんか? 」
唐突すぎるであろうことは、陸遜自身も理解している。もきょとんした顔で彼を見上げた。
「 根拠はありませんが、その・・・何だか、今日の貴女は酷く不安定に見えます。
教えてください、殿。貴女を苦しめる何かがあるなら、私はそれを取り除いて差し上げたいのです 」
これでも、彼女が呉へとやってきて以来、仲良くしてきた人間の一人だと自負していた。
女武将として好奇の目に晒された彼女を支え、彼女も陸遜に気を許してくれているように見える。
足を止めて長い廊下で向き合う。城の誰もが宴に借り出されているため、二人の邪魔をする者はいなかった。
陸遜の真摯な瞳を受け止めて、驚いたように見開いていたが・・・長い沈黙の後、ゆっくりと吐息を吐く。
諦めたようにふっと微笑んで瞳を閉じる。そして次に陸遜を見上げた彼女の瞳には、強い覚悟が浮かんでいた。
「 さすがは軍師殿。いくら隠したところで敵いません・・・これは男も女も関係ないけど、やっぱりずるい 」
「 殿・・・ 」
「 呉は天下統一を果たした。三国はひとつにまとまり、民は安寧を得た。私は『 役目 』を終えた。
だから・・・明日、ここを出て行こうと思っています 」
絶句した陸遜に柔らかく笑んで、孫権様にはちゃんと許可もらいましたよ?と軽く首を傾けた。
「 な・・・ぜ、ですか・・・!?三国がまとまるのも、呉が天下統一した結果が世に広がるのもこれからです。
得た安寧が続くよう民を導くのが、戦を終えた私たちの『 役目 』でもあるというのに!! 」
・・・違うッ、こんなことが言いたいのではありません!と、陸遜が動揺して大袈裟に首を振った。
落ち着いてと声をかけようとしたの手を払う。ふらついた彼女の両肩を陸遜が掴んで揺すった。
脅えるようにその手から逃れようとする仕草が、煩わしい。どうして自分をわかってくれない?
こんな、こんな気持ち、自分だって嫌だ。なのに止められなくて・・・混乱する陸遜は泣きそうになった。
「 一体、貴女はどこへ行くというのですか!?教えてくださいッ! 」
「 ・・・故郷へ。ずっとずっと遠く・・・自力では行ったり来たりすることのできない、時代の異なった場所なんです。
予感でしかないけど『 役目 』を終えた今なら道が開くかもしれないから・・・ 」
「 時代の異なった?道が開く?意味がわかりません!貴女は身を置く国もなく、放浪していたのではないですか!? 」
「 放浪というより還り方がわからなかったんです。理解し辛いとは思うけど、簡単には戻れない場所で・・・ 」
「 ええ、理解できません・・・理解、できませんよッ!!どうして・・・ 」
どうして、故郷より私たちを選んでくれないのですか?私たちを、置いていくのですか?
両肩に凭れかかるようにして俯く。手が、身体が、震えている・・・恥ずかしかったが、止められない。
郷愁の念に駆られるのは、人なら当然のこと。ずっと還りたかったのに還れなかったと、は言った。
その方法がわかったことは、喜ばしいことのはずなのに。それすら許せない自分に腹が立つ。
彼女の言う『 役目 』とは何か、ということも尋ねたかったのに、陸遜にはその余裕すらなかった。
これでは駄々を捏ねているだけだ。素直に応援したい気持ちと、がいなくなる寂しさに、心が板ばさみになる。
耐え切れなくて、ぽたり、と床に雫が落ちた時・・・震える身体を上から覆う、もうひとつの身体・・・。
「 ・・・、殿・・・ 」
武人とは思えない、真白く細い腕。陸遜殿、ありがとう・・・とが呟いた。
陸遜は俯いたまま涙を拭うと、ゆっくりと身体を起こして、彼女と視線を交える。
「 どうして礼など?私は罵倒こそしましたが、御礼を言われる筋など・・・ 」
「 『 私を必要としてくれてありがとう 』の、ありがとう、です。間違ってたら思い上がりも甚だしいけど 」
「 ・・・いいえ、間違ってなどいません。私こそ申し訳ありませんでした 」
ばつの悪そうな顔をした陸遜の頬に、の手が添えられた。彼女は優しく微笑んでいる。
「 これから呉は、ますます発展していくのでしょうね。孫権様や呂蒙殿や凌統殿や・・・貴方の手によって。
私はそれを遠くから見守りたいと思っています。そして共に駆け抜けた日を、誇りに思って生きていきます 」
「 貴女はそれでいいと思っていても、殿を必要と思う私たちは?想っても、報われないのですか・・・? 」
こんなに恋しくて堪らないのに・・・と、ふと零しそうになって口を噤む。
はふるふると首を振って、違うわ、と言った。彼女の大きな瞳にも光るものがあった。
「 此処は私の第二の故郷だから・・・還れなかった時は、戻ってきてもいいですか? 」
「 それこそ卑怯ですよ、殿。そんな言い方をされて、私が断ると思っているのですか・・・? 」
「 ・・・ついでに許してもらえるなら、今だけ、女の子になりたい、かな 」
「 え? 」
「 この気持ち・・・いつか離れてしまうならって、ずっと我慢してきたけど・・・きっと、これが最後だから 」
弱々しく微笑んだの顔がくしゃりと歪むと同時に、頬に添えられた手がそのまま首元へと回される。
急な展開に戸惑う陸遜。だけど・・・考える前に身体が動いた。
胸の中のを抱き締めると、彼女が泣いているのがわかった。涙が、合わせた二人の頬の間を伝っていく。
更に腕の力を強めて、陸遜は彼女の名前を呟いた。何度も、何度も。
がその度に、はい、と答える。そして彼女も、陸遜殿、陸遜殿・・・と愛しそうに頬を摺り寄せた。
『 恋慕 』なのかはわからない。でもそれに類似している。
陸遜はこれからも離れることがないだろうから、はいつか離れてしまうなら、と目を逸らしてきた想い。
気がつけば想っていた。でも気がつくのが遅かった。別れの刻は、もう目の前まで迫っている・・・。
・・・切なかった、この愛しい存在と別れることが。でもそれは、相手も同じなのかもしれない。
「 殿に約束します。この陸伯言、孫呉を支え、いつか還ってくるのをお待ちしています 」
「 ・・・還って、こないかもしれないのに?だって、もう二度と逢えないかもしれない 」
「 構いません。貴女が還って来なくても、還ってきたくなるような国作りを目指すだけです 」
貴女が過ぎた日々を誇りに想ってくれるなら、それに恥じない生き方をしたいと思う。
陸遜の決意に、は困ったような笑顔を見せて・・・泣いた。そして、嬉しいです、と涙を拭う。
「 この世界で、陸遜殿に逢えて本当によかった 」
「 私も・・・殿に逢えたことを心より嬉しく思います 」
抱擁を解いても尚、繋いで手が離れることはなかった。
我に返ったが、まだ酔ってるのかも・・・と照れたように真っ赤な顔で呟きながら、陸遜に微笑む。
頷きながら、今までこんな空気を纏ったことはない、と陸遜は思った。そして、今が最高に幸せだとも。
寄り添った二人が着いたのは、送り先であるの執務室。
扉に立ったまましばらく話していたが、彼女の手招きに陸遜が足を踏み入れる。静かに扉が閉まった。
呉の天下統一に沸き起こる宴の喧騒も、今まさに結ばれようとする二人の世界までは届かなかった。
全てに終わりを、全てに始まりを
( たとえ道が分かれても、貴女を想う気持ちに変わりはありません・・・だから、好きです、殿 )
Title:"群青三メートル手前"
Material:"七ツ森"
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