晴天だった空は、今や曇天。
 ぽつ、と地面に雨粒が落ちたかと思って見上げれば、途端に視界を塞ぐほどの勢いとなった。






 愛馬に跨り、ちょうど城門を潜ろうとしていたところだった。
 分厚い石の向こうに伝う、地上の全てを打つような水音に驚いて、思わず馬の足を止めた。
 が、弾かれたように出入り口まで急ぎ駆け、何事かと確認すると・・・溜め息が零れた。


「 ( 豪雨・・・この長い城門をくぐる前は、全くもって雨の気配などなかったのに ) 」


 いくら鎧で全身を包んでいるとはいえ、雫までは防げない。
 それに、雨というより霧だ。激しく地面に打ち付けられた滴が霧散し、白く立ち上る湯気のように周囲を包んでいた。
 人々の逃げ惑う声が遠くで聞こえる。恐らく屋根のある場所を求めて、みな彷徨っているのだろう。
 無理に馬を走らせて事故を起こしても、風邪でも引いていざという時武将としての役目を果たせないのも、困る。
 せめて雨足が弱まるのを待つか・・・仕方ない、私もここでしばし雨宿りをする他ないだろう。
 伺うような愛馬の嘶き。苦笑を浮かべてその鬣を撫でてやった、その時だった。


「 これは、文鴦殿 」
「 ・・・殿? 」


 城門を抜けた橋の袂で、見知った顔を見つけた。豊かな黒髪を結い上げた彼女は、司馬昭殿の女官殿だ。
 こんにちは、と礼儀正しく拱手した殿を前に、私も下馬すると拱手を返す。
 顔を上げた私は、ふと彼女が胸に小さな包みを抱いていることに気づいた。彼女は、ああ、と笑う。


「 司馬昭さまのお遣いで、夏候覇殿のお屋敷にお伺いするところだったんです。
  だけどこの雨で、ちょうど足止めを喰らってしまいました・・・文鴦殿はどちらへ? 」
「 執務が終わったので、屋敷へ戻ろうと。戦が終わってからろくに帰っていなかったものですから 」
「 そうでしたか。でも急に降って来ましたものね。降るとわかっていたなら、時間をずらしたのに 」
「 本当に。お互い不運でしたね 」


 と言えば、きっと二人で肩を竦めるのだろう・・・そう思っていたのに。
 殿は予想に反して首を横に振った。そして、私は不運とは思いませんわ、とはにかむ。


「 雨は・・・好きなんです。心が落ち着くんです 」


 そう言って、大きな城門の軒下から外を見つめる。戸惑いながらも彼女を追うように、視線を向けた。
 周囲の人々は避難し終えたのだろう。誰の声も聞こえなかった。
 まるで世界に取り残されて二人きり・・・そんな錯覚に陥ってしまいそうになるほど。
 すると、雨は・・・時に過去を振り返るきっかけを与えてくれるんです、と隣で声がして現実に引き戻される。


「 過去を振り返るきっかけ、ですか? 」
「 城勤めを始めるよりも、もっと前。昔から学ぶことが好きで、外で遊ぶより家に篭ってばかりいました。
  親は外に出ろと薦めてきましたけど・・・自分の中に知識が溜まっていくことの方が好きだったんです。
  雨が降れば、ひとつ言い訳が出来ると幼心に思いました。だから、雨は好きです 」
「 なるほど 」
「 でも、あの頃を経て『 今 』があります。だから忘れちゃいけない。雨は初心を思い出すきっかけなんです 」


 殿はそっと瞳を閉じる。私には彼女が内にある何かを抱き締めているように思えた。
 きっとそれが、雨の音を聞きながら勉学に励んでいたという彼女の過去・・・『 初心 』なのだろう。


 彼女が瞳を閉じているのをいいことに、私はまじまじと見つめた。
 すらりと伸びた手足、伏せた長い睫。流るる黒髪の美しいこと。
 どちらかというと、執務室ではなく後宮にいそうな端正な容姿の持ち主。
 外見もさながら、彼女は優秀な女官吏だ。妙齢の才女だけに、いつ誰もが娶ってもおかしくないと専らの噂だ。


 私は執務関係で数度会話をしたことがあるだけだったが、改めて見れば皆の言う通りだと思った。
 それにしてもどんな少女期だったのだろう・・・止め処なく考えていたら、恐らく見惚れてしまっていたのだろう。
 殿はとっくに目を開けていて、文鴦殿どうしました?と揺さぶられるまで気づかなかった。


「 あ、あっ、そのっ!も、申し訳ない!!不躾な視線で、女性を凝視するなど・・・ 」
「 全然気にはなりませんでしたが・・・ふふっ、急に固まられたのでどうしたのかと思っちゃいました 」
「 いえ、道理で殿は賢いはずだと感心してしまいました。それだけ努力なされたのですから 」
「 恐縮ですわ。そう仰る文鴦殿だって、司馬昭さまに期待された優秀な武将ですのに 」
「 とんでもない。私こそ・・・本来は、極刑を受けて当然の者です 」


 父と共に処断されなかったのが、不思議なくらいだ・・・。


 城の中では有名な話だ。当然、彼女も知っているのだろう。
 殿は何も言わずに、また空へと目を向けた。まだ雨は降り続いている。
 少しの沈黙の後、お互い視線は合わさずに殿が言った。


「 文鴦殿の武は、お父上に教わったものなのですか? 」
「 ・・・はい。それはもう幼い頃から弟と共に鍛えられました。国の役に立つ男になれ、と 」


 不思議と厳しいとは思わなかった。父の教えを信じて疑わなかったからだ。
 だから・・・尚更、悔やまれる。その父が何故道を踏み外したのか、どうして私は諌められなかったのだ、と。
 他人の誹謗中傷や侮蔑の視線には耐えられた。それがこの道を選んだ私への罰であり、戒めだと思っていた。
 ・・・だけど瞳を閉じて思い浮かぶのは、勇ましく、逞しかった父の姿。
 それが今の私には悲しく、とても辛かった・・・いつまでも胸の中は温かい思い出ばかりだったから。


 自然と力の篭った拳に、そっと彼女が触れたと気づいたのは、かしゃりと鎧が鳴ったからだ。


「 過日を変えることは出来ません。後悔もただ抱えるだけでは、何にも生みません。
  お父上のことを『 尊敬 』していたことを素直に認めることこそ、今の文鴦殿に必要なことなのでは?
  そして、お父上が愛してくれたこと・・・誇りに思っていらっしゃるなら、胸を張ってもよいと思います 」
「 ・・・、殿・・・ 」
「 お父上の志を受け継いで目指すことにどうして躊躇われるのですか?
  文鴦殿は文鴦殿ですもの。お父上在っての存在だとしても、貴方は『 同じ 』ではないんです。
  自分の信念を忘れずにいれば、きっと目指すものに到達できると・・・私は信じています 」
「 ・・・・・・・・・ 」


 相変わらずの雨音が、城門の洞の中で滝のような轟音を立てて木霊していた。
 ・・・なのに、隣に並んだ殿の声は大河の一滴のよう。澄んだ響きが私の心を満たす。


「 こんな雨の日こそ・・・そんな感傷に浸るには、最適だと思いませんか? 」


 甘い綿菓子のようにふわりと微笑んだ彼女が、神々しく見えた。胸の奥が熱くなる。
 じわりと湧き上がるそれを鎧の上から手を当てて触れたみた。
 目には見えない・・・だけど、目を逸らすことなんて出来ない。確かに存在する父への想い。
 思い浮かべる父は、いつも誇らしげに微笑んでいた。私にはその姿こそ、誇らしかった。






「 ・・・殿の、言う通りです 」






 これからも父のことを悪く言う輩はいるだろうし、歴史には悪者として名が刻まれるかもしれない。


 でも、私だけは信じなくては。そして父が目指そうとした志を受け継ぐのは・・・私しか、いない。






 突如、隣の殿が高潮した頬を両手で覆う。
 見下ろした私の視線に気づくと途端に俯いて、申し訳なさそうに頭を下げた。


「 あ、あの、失礼いたしました・・・女官分際で、生意気な口を・・・ 」
「 とんでもない!むしろ、私は礼を言わなければいけない。貴女のおかげで・・・目が、覚めましたから 」


 おずおずと見上げた彼女に、私は微笑む。
 すると少しだけ色づいた頬を見せて、殿の嬉しそうな笑顔が・・・更に輝く。
 ほら!と持ち上げた指は、晴れ間を覗かせた空へと向けられていた。


「 ・・・いつの間にか、雨は上がったようですね 」


 豪雨は通り雨だったらしい。雲の切れ間から太陽が顔を覗かせていた。
 屋根代わりにしていた石の合間を伝った雫がぽつりぽつり、と零れて足元に水溜りを作っている。
 そこには、今までになく『 晴れた 』表情の自分が在った・・・まさに殿が指した天と同じ。
 彼女は一歩城門の外に出て、んー!と身体を大きく伸ばしている。そして、くるりと私を振り返った。


「 それでは文鴦殿、ここで・・・ 」
「 夏候覇殿の屋敷へなら、私がお送りしよう。足元も危ないし・・・何より、もうしばらく貴女と話していたい 」


 え、と彼女の驚いたような声。その声を聞いて、初めて自分が何事を呟いたかを悟る。
 ・・・かっ、彼女は仕事の途中なのだ。邪魔をしてはならないとわかっているのに・・・私は・・・。
 高潮した頬を押さえはしなかったが、穴があったら入りたいとはこのことだ。
 どうして鎧は頬まで覆っているものではないかと、恨みたいくらいだった・・・。


 だけど、更に赤くするようなことを・・・彼女は呟く。






「 ありがとう、ございます。私も・・・文鴦殿ともう少しだけ、お話したいなと思っていました、ので 」






 殿は真っ赤になったまま、恥ずかしそうに笑った。
 それが堪らなく嬉しくて・・・私も唇が緩んだ。よかった、と頷いて、先に馬上に跨ると彼女へと手を伸ばす。
 細い腕を持ち上げて、小さな身体が胸元に収まると、殿が慌てたように身体を離そうとするが。


「 殿、出来れば、その・・・私に寄りかかっているといい。馬上は揺れるので 」
「 ・・・お、お言葉に甘えます・・・ 」


 先程とは打って変わって消えてしまいそうな声。耳元まで真っ赤になっているのが、黒髪の間に見て取れた。
 ふっと浮かんだ微笑を誤魔化すように、私は手綱を緩める。
 了解した、とばかりに愛馬が元気よく城門の外へと飛び出した。
 きゃあ!と悲鳴を上げた殿の腰を抱き締める手が・・・本当はこっそり、歓喜に震えていた。










「 ( 確かに、不運ではないな。こんな雨も、悪くない・・・ ) 」










 光差す澄んだ空には、天弓の架け橋。


 それは『 目に見える空 』にだけではなく・・・内なる、私の心にも。












通り雨の向こう側



( 暗雲を晴らし、未来への虹をかけてくれたのは殿・・・貴女のお陰だ )






Title:"love is a moment"