3月14日、晴れ。今日も・・・君に、逢えた。










 いつもの帰り道、いつもの電車。
 自動改札をくぐって、ホームに立つ。この時刻の8両目に乗るのが俺の日課だった。
 場内アナウンスが流れると、あっという間に電車がホームに入ってきた。
 春とはいえまだ肌寒くて、襟元を引き寄せる。トレンチコートの裾が風に靡いた。
 ゆっくりと目の前の扉が鈍い音を立てて開いて電車の中に飛び込めば、変わり映えのしない面子。
 俺は迷わず、扉のすぐ左側にある2名席を目指す。




 そこに、彼女がいた。




 紺のセーラー服に身を包んだ少女は、丸めたベージュのダッフルコートと鞄を抱いて熟睡していた。
 緩みそうになった口元を撫でて誤魔化し、俺は隣に腰を下ろす。がたん、と電車が揺れ始めた。
 走り出した車内に響くのは、電車の車輪の音と、通り過ぎる踏切の音くらいで。
 一駅15分間隔の中距離列車内は、昼と夕方の間という時間もあって、それはそれは静かだった。
 鞄から取り出した小説のページを捲る。挟んでいた栞を抜くタイミングで、ちらりと見上げて・・・。
 そこに・・・ふと見慣れないものを見つけて、流すはずだった視線の動きを止めてしまった。


「 ( もしかして今日は、卒業式・・・だったのかな ) 」


 胸元に咲いた白い花。窓と背もたれの間に身体を預け、あどけない寝顔の半分はコートに埋まっている。
 けれど・・・落ち始めた太陽に照らされた寝顔には、薄っすらと涙筋の影があった。
 ・・・卒業式、か。自分には随分前のことだけど、それが彼女には『 リアル 』だってことが何だか不思議だ。
 時間の流れを今更感じて、俺はふう、とひとつ吐息を吐いた。
 普段、この席で何気ない顔をして本を読む彼女も、別れを惜しむ友達がたくさんいたんだな。幸せなことだ。


 がたん、ごと、ととん。


 オレンジ色に染まった世界の中で。小説に視線を戻した俺と、眠り姫を乗せて電車は走る。
 ひと際大きく揺れたのは、途中の陸橋を渡ったからだ。今日は特に大きくて、お尻がふわりと浮いた。
 その時だった。着地した俺の肩に、跳ねる前とは違う変化が訪れたのは。


「 ( ・・・・・・え、 ) 」


 左肩が温かい。俺の方が随分と座高が高いから、肩というより上腕、かな。
 さらりとその腕を撫でるのは柔らかい髪。電車の揺れに合わせて舞う度に・・・いい匂いがした。
 それに気づくと、もう・・・駄目だった。動揺が身体中を駆け巡り、そのまま俺は硬直する。
 幸運だったのは、周囲に乗客が少なかったことだろう。
 慌てて辺りを見渡すが、自分たちに注目している者はいなかった。
 読んでいた小説も当然頭に入らないから、彼女を起こさないよう、細心の注意を払いながら本を閉じる。


 がたん、ごと、ととん。


 静かな車内に、俺の鼓動だけが響いて・・・彼女が目を覚ましてしまわないかが凄く心配だった。
 怖くて確認することはできなかったけれど、彼女のコートのポケットから車輪とは別の振動を感じた。


「 ( そうだ。彼女は降りる駅が近づくタイミングで、アラームをセットしていたっけ・・・ ) 」


 僅かな眠りに落ちる時も、本を読んで起きている時も、必ずてのひらの上で震えていた。
 今日はコートのポケットにしまったままだったのだろう。おかげで彼女には届かない。
 車内アナウンスが駅名を告げ、俺がおろおろとしているうちに彼女の降車駅に到着してしまった。






「 ( えっ、えっと・・・ど、どうし、たら・・・! ) 」






 起こすか起こすまいか悩む俺の方がきっとどうかしている。だって、当然起こすべきなんだって解ってる。
 ( どうして彼女の降車駅を知っているのか、とかではなくて、ええと、自然に起きるよう仕向ければ・・・ )






 だけど・・・きっと彼女が本当に卒業式を迎えたのなら?これが・・・『 最後 』なのだとしたら?






 俺の困惑など知らずして、無情にもドアが閉まった。もうこうなっては・・・覚悟するしかない。
 はあ、と小さく吐息を吐いてから、更に乗客の少なくなった車内で、俺は完全に腰を落ち着けることにした。


「 ( ・・・こうなったら、今日はとことん彼女に付き合うとするか ) 」


 彼女は電車の揺れに合わせて動くだけで、起きる様子など欠片も無い様子だった。
 そのうち自分の降りる予定だった駅を過ぎ、車窓からの景色も見たことのないものに変わる。
 沈む夕陽。赤に紫、紺色のグラデーションに染まる雲。最後の日の光を浴びて輝く川面。
 とても綺麗だった。予定外だが、こんな美しい景色を見れたのなら、案外悪くないんじゃないかと思えてきた。
 ぼんやりと見つめているうちに・・・車掌の、終着駅を告げるアナウンスが聞こえた。






 がたん、ごと、ととん・・・ととと、ん・・・・・・とと、と、ん・・・・・・。






「 ・・・・・・・・・・・・・ん、う 」


 振動が収まると同時に、隣で身じろぎする音がした。
 欠伸をして目を擦る気配。俺はその間もどうしたらよいかわからず、ただひたすらフリーズした。


「 き・・・気がついた、ようだね 」


 身体をゆっくり起こした彼女に、出来るだけ、さ、さりげなく・・・声をかけたつもりだったのだが。
 口を、あ、の形に開いて、そのまま両手で覆った。真っ赤になった彼女はすくっと立つと頭を下げてきた。


「 すっ、すみませんすみません!わた、私、寄りかかったまま・・・!! 」
「 いいんだ、君が気にすることじゃないよ 」
「 そ・・・んな訳にはいきません!だってここ終点ですよね!? 」


 車内を視察しに来た駅員を捕まえて、ですよね!?と再度問いかけると、駅員も驚いた顔でこくこくと頷く。
 その駅員さんに追い立てられるようにして外へ出る。
 他の乗客は途中の駅でほとんど降りてしまったようで。無人のホームに俺たちは2人きりだった。
 彼女はコートのポケットから取り出した携帯を操作して、次の電車は30分後みたいです、と教えてくれた。
 夕陽は沈んでおり、夜の帳が訪れようとしていた。空を眺めた彼女が、暗い・・・としんみり呟く。
 彼女も俺も、急な寒さに丸めていたコートを纏った。
 ぶるりと一度大きく背中を震わせた俺の背後で、がらがしゃん!と大きな音が響いた。


「 はい、徐庶さんの分です。カフェオレで良かったですか? 」
「 そんな気を遣わなくてもいいのに・・・でも、ありがとう 」
「 どういたしまして、です! 」


 隣に腰掛けて、コートのポケットから缶を渡された。
 有難く受け取ると、えへへと笑った彼女の息が真白く染まり、静かな春の夜に溶けていく。
 ベンチに並んで座り、プルタブを開けて口に含むと自然と息が漏れた・・・そこで俺はふと呟いた。


「 あの、どうして俺の名前を知っているの「 ふおおああああッッ!!!! 」


 言葉の途中で突然彼女が叫んだ!本日何度目かの硬直に、目を白黒させていたが・・・。


「 すっ、すす、すみません、私・・・私・・・ッ!!ああもー!私のバカバカ!! 」
「 ・・・え・・・ 」


 もうこれ以上ないってくらい、顔を・・・いや、耳や首筋まで真っ赤に染めた彼女が。
 喉を鳴らして、持っていた缶の中身を飲み干す。その間・・・俺はずっと呆気に取られていた。
 最後に、意を決したかのように、こん!と地面に缶を置いて、さっき以上に深く頭を下げた。


「 あっ、あ、のっ・・ご、ごめんなさい・・・お話しもしたことないのに、突然お名前を呼んで・・・ 」
「 いや、いいんだ。それより俺の名前をどうして、君が知っているんだい? 」
「 それは、以前・・・徐庶さんが鞄の中から小説を取ろうとして、お財布も落としたの、覚えていますか? 」
「 ・・・ああ 」


 一瞬にして思い出された記憶に、無意識に頬が緩んだ。


 今日と同じように、彼女の隣に座った夏の日のことだ。俺が・・・この日のことを忘れる訳が無い。
 本を取り出そうとして、膝の上から鞄が落ちてしまった。静かな車内で中身をぶちまけて、天を仰いだ時。
 同じように本を読んでいた彼女が、ぱたん、と本を閉じて、俺の荷物を拾ってくれた。
 落ちた本の埃をてのひらで払い、はい、と差し出してくれた。
 羞恥でまともに礼も言えなかった俺に、嫌な顔ひとつせず、軽い足取りで降りていった。






 ・・・あの瞬間から、なんだ。俺が、君を意識するするようになったのは。






「 その時、た、たまたまだけど、名刺のお名前を見ちゃったんです。だから私、ずっと覚えてて・・・ 」
「 偶然見ただけなのに、ずっと覚えていてくれたのかい? 」
「 あっ!えっと、それはその、好きだから・・・ 」
「 好き?? 」
「 ・・・あ・・・ま、待って下さい!好き、じゃなくて!いや、好きなんだけど!!・・・あれっ!? 」


 くしゃりと前髪をかき上げて、彼女は本当に不思議そうな顔をしたので・・・硬直が解けて堪らず吹き出した。
 二人で声を上げて笑う。いくつもの笑顔が吐息に変わって、ふわふわと夜空に舞い上がった。
 ひとしきり笑った後・・・彼女はすっきりした表情で、缶を差し出した時と同じようにすっと手を差し出す。


「 ・・・私、っていいます 」
「 ああ、よろしく、さん。えっと・・・卒業おめでとう、かな 」


 と、無意識に言ってしまったことを、少し前の彼女のように『 後悔 』する。
 きょとんとしたさんの顔を見て、赤くなるのは俺の番だった。言葉を綴りたいのに何も音にならない。
 あ、あの!その!!と繰り返す俺に、さんはとうとう眉を顰めた( いけない、これじゃダメなんだ )
 ぎゅっと握り締めた拳の中で、つい力を入れすぎたせいで空になったカフェオレの缶が悲鳴を上げる。


「 俺も、その、君を見ていて!今日は胸元に花があるから卒業式かな、と・・・いつもつけていないのに 」
「 いつも・・・見ていて、くれたんですか・・・? 」
「 ええっ!いやっ、その・・・・・・君の言う通り、なんだ 」


 さんが勇気を出してくれたのに、俺の方が情けない真似をするのは男としての沽券に関わる。
 俺は・・・彼女の『 勇気 』に答えられるような男になりたい。
 ひとつ大きく深呼吸して、俺は意を決してさんに向き合った。


「 本当はずっと君を見てた。今日、隣に座るのが最後だと思ったら、君を起こすことが出来なかった。
  ・・・すまない。俺がちゃんと起こせば、さんは今頃自宅に帰れていたのに 」
「 徐庶さん・・・ 」
「 さん、ええと、君さえ良ければ・・・こんな俺だけど、これからも逢って欲しい 」


 長年の想いを口に出してしまえば、何てことはない・・・とてもすっきりした気持ちになった。
 途端、彼女の瞳が潤む。俺の視線を避けるように、さっと目を逸らして俯いてしまった。


「 ( これ以上、嫌われるのは・・・たとえ『 今日 』が最後でも俺には耐えられない ) 」


 もう一歩踏み込んで彼女の真意を確かめたいとは思うけれど・・・俺の勇気なんて本当にちっぽけなもので。
 ありがとう、ごちそうさま、と呟くと、俺は踵を返す。ゴミ箱に空き缶を捨てると、その場を離れることにした。
 俺から少しでも距離を置けば・・・彼女に本気で嫌われるのも避けられるし、自分の頭も冷えるだろう。
 ・・・何て卑怯な男なんだ、俺は。でも臆病過ぎて、さんに拒否されることが怖くて仕方ない。
 白く息が長く伸びるのを視界の端で追いながら、一歩、また一歩・・・離れていく。
 徐々に、だけど確実に広がっていく互いの距離に、胸が押しつぶされそうな想いだった、が・・・。


「 徐庶さん!!あの、私・・・私、貴方に謝らなきゃいけないことがあるんですっ 」


 ぱたぱたと走ってきた彼女は、俺を抜いて・・・とん、と三歩先へと立ち塞がった。
 さんは振り向いて、震えながらきっと俺を睨んできたので、情けなくもその場で怯んでしまった。






「 ほ、本当はさっき・・・寝たフリだったんです!私こそ、私の方こそ・・・ 」






 春の日も、夏の日も、秋の日も、冬の日も。晴れの日も、雨の日も・・・君だけを見てきた。


 小説を真剣に読む横顔。コートに埋めた寝顔。初めて俺に向けてくれた、笑顔。
 いつもこっそり見てきたどの『 彼女 』よりも、今、興奮に泣き出しそうな彼女が一番愛らしかった。






「 私の方こそ・・・これからも徐庶さんに逢いたいって、思ってます!! 」

















 その言葉に俺がどれだけ幸福な気持ちになったかを伝えるのは、とりあえず抱き締めた後でもいいかな。

















 胸に閉じ込めた彼女の肩越しに、ふわりと舞った天使の羽根。
 まるで俺たちを祝福しているかのように・・・2人きりのホームに、季節外れの雪が舞い落ちてきた。






夢以上、現実未満。



( この腕に閉じ込めた君の笑顔が『 泡沫 』にならないためなら、俺はどんなことでもするよ )




Title:"ロストガーデン"
Material:"ふるるか"