引き留める声を無視して、連中と別れた徐庶とは、地下鉄を使って、徐庶の自宅がある最寄り駅に着いた。
の希望で、桜並木を通って帰ろうということになり、いつもよりも少し遠回りをした。
川の上のレストランのような景勝ではないけれども、遊歩道の桜もなかなか美しい。満開から数日過ぎてしまったため、ほとんど散ってしまってはいるが、それはそれで風情があると徐庶は思うのだが、はどうだろうか。満開の方が好きだろうか。やはり、先週の桜を見せてあげたかった。これで何度目の後悔だろう。
「先生、手を繋いでもいいですか」
「え、あ、ああ。繋ごう」
ぼんやりと桜を眺めていた徐庶は、はたと気づいてと手を繋いだ。細くて少しだけ冷たいの指を包み込む。
「急に連絡して、すみませんでした。ご迷惑でしたか?」
「いや、迷惑じゃない。俺も君に会いたかったから嬉しいよ」
「良かったです。先生もわたしと同じ気持ちで」
「うん。同じだ」
先程、とんだ修羅場を目撃してしまったが、あの二人と自分たちは違う。も徐庶に会いたいと思ってくれていた。それだけで、とても嬉しい。
「今日は周瑜兄さまと食事だったんですけど、お店から桜が見えて先生のことを思い出して、無理を言って途中で抜けてしまいました。先生、先週のデートの時、桜をとても見たがっていましたよね。もうだいぶ散ってしまいましたけど、この夜桜も綺麗だと思うんですがどうですか? 満開の方が好きでしたか?」
「いや、俺もこの夜桜も十分綺麗だと思う。それに、本当は俺は桜が見たかったわけじゃないんだ。君の喜ぶ顔が見たくて、あの店を予約したんだ。結果、失敗してしまったけど」
は目を瞬かせ、ふふっと花のように笑った。それから二人、無言で桜の下を歩いた。
夜風が撫でるようにして、大量の桜の花びらと、の長い黒髪をさらう。街灯と月に照らされたの横顔は美しく、背景の桜吹雪が幻想的に魅せる。月がさらってしまうのではないか。次に瞬きをしたら、はかぐや姫のように月へ帰るかもしれない。徐庶の傍から、月――他の男のもとへ。ほとんど無意識に、繋いだ手に力を入れていた。
「は――俺のことが好き?」
「はい。好きです」
は迷うことなく頷いた。即答は嬉しいが、しかし納得いかぬことがある。徐庶に、ここまで好かれるに値するだけの価値はないからだ。
「その……俺に遠慮することないから。嫌いになったら、いつでも言ってくれて構わないから。そのときは、すぐに――」
「先生は、わたしが嫌いなんですか?」
“別れるから”と最後まで言い切る前に、が被せるようにして聞いた。
を嫌いなのか。そんなこと考えるまでとない。否だ。
「俺が君を嫌いになるはずがないよ」
「わたしも同じです。先生のことが大好きです。わたしの気持ち、伝わってないですか?」
じっと見上げてくるを、真っ直ぐ見返した。知らぬうちに、二人とも足を止め、向かい合っていた。片手は繋いだままに。
暫し見つめ合い、桜が風に舞い上がり、ゆっくりと地に落ちるだけの時間が経ってから、徐庶が苦しそうに眉を寄せて視線を外した。
「君が俺を好きな理由が思い当たらないよ。さっき見ただろう? 美しくて女性の扱いが上手い郭嘉殿や、幸運に恵まれている李典殿、たくましい体を持つ楽進殿の方が、俺よりも優れているのは見て明らかだ。この前会った甘寧殿だって、俺とは違って、自信があって堂々としていた。君に相応しいのは彼らみたいな男だよ」
視線の先、地面には砂で汚れた花びらが点々と散らばっている。枝から離れてしまえば、見向きもされず、踏まれてしまう存在に成り下がる。きっと徐庶もに振られたら、こんな風に用済みとなり、一度咲いた記憶を恋しく思いながら朽ちていくのを待つのだろう。と過ごした幸せだった日々を、これから生活していく中で何度も思い出して切なくなるのだろう。自分にはもったいない、夢のような日々だったと。
(また、同じことをしている……)
ついさっき、必要以上に自分を卑下するのはやめようと思ったばかりなのに。どうにもままならない。
「先生、わたしを見てください」
緩慢な動きで首を向けると、は真剣な面持ちでいた。以前も覚えがある空気だ。一年前、大人っぽくなって現れた彼女と同じ顔をしている。
「先生がいいんです。他の人は関係ないです。わたしは先生が好きなんですから」
それでも長年の卑屈根性は払拭叶わず、徐庶は疑い深く質問を繰り返す。
「何故、君は俺を好きになったんだ? 君の家庭教師だった頃は、受験に関係ないことはほとんど話していなかったはずだ」
本当は色んなことを話して、のことをもっと知りたいとは願っていたけれど、相手は未成年のため脳裏にちらつく“犯罪”の二文字と、何よりも周瑜が怖くて、への恋心を押し殺していた。
「そうでしたね。先生は真面目だから、勉強に関係ないことは、全然話してくれなかったですよね。でも、そこが先生らしくて素敵だなって思ってました」
「俺よりも真面目な奴は、もっとたくさんいるよ。俺は特別じゃない」
「でも、苦しんでいたわたしを助け出して、遊びに連れて行ってくれたのは先生だけです」
――ああ、そうだ。そうだった。
あの頃一度だけ、問題集とペンを置いて、屋敷からを連れ出したのだ。
その日、は元気がなく、時折目を潤ませて、ペンを持ったまま問題を解こうとはしなかった。前回出した宿題も完成させておらず、いつもと様子が違っていた。理由を聞いても首を横に振って苦笑するだけで、「大丈夫です」と全然大丈夫そうに見えないのに言った。
その苦笑には覚えがあった。徐庶が無理をしているときと同じ仕草だったからだ。
だからこそ、このままにしておけないと思った。彼女を救わなければ、きっと壊れてしまう。
後先も考えず、の手を取り、部屋から連れ出した。運良く誰にも見つからずに車庫に辿りつき、高級車数台とは少し離れた場所に駐車させて頂いていた愛車に彼女を同乗させた。
そして、テーマパークに連れて行った。女子高生が喜ぶ場所と考えたとき、そこしか思いつかなかったのだ。今日の授業は、ここで思い切り楽しむこと。いいね。とに言い聞かせて、夕方からのチケットを買って入園した。
は最初とても困惑していた。それまで彼女はこういった場に来たことがなかったからだ。アトラクションを体験し、お菓子を歩きながら食べ、マスコットキャラクターの髪飾りを頭につけて、パーク内を一周する頃には、とびきりの笑顔を見せていた。
さらうようにして連れて来てしまったが、彼女が抱えている悩みを一時的とはいえ忘れて楽しめたようで良かったと徐庶は安堵した。
平日夜に制服姿の女子高生を連れ回す成人男性という図を見た周囲から、危ない関係ではないかという囁きを聞いた背中には冷や汗が流れ、帰宅したら周瑜にひたすら平身低頭として詫びなければと内心がくがくしていたのだが、にだけはおくびにも見せないようにした。
「帰ってから周瑜兄さまに叱られてしまったときも、庇ってくれましたよね」
がせっかく楽しんでいるのに、水をさしたくはなかったので、二人とも携帯の電源を切り、連絡が取れない状態にして遊んだ。帰る頃になって、徐庶が携帯の電源を入れると、案の定とんでもない回数の着信とメールの受信が溜まっていた。言わずもがな、の従兄周瑜からだった。死をも覚悟して折り返そうとしたとき、孔明から電話がかかってきた。大切な姪に何をしているのかと詰問され、事情を説明すると、「そんなことだろうと思いましたよ」と呆れ声が返ってきた。
を自宅に送り、玄関前の地面に膝をつけて土下座の構えをしたとき、その必要はないと一蹴され、肩透かしを食らって周瑜を見上げれば、腕を組んだ彼は今回だけは見逃すと許してくれた。孔明が手をまわして、周瑜にが相当追い詰められていたことを話していたのだった。おかげさまで、首の皮一枚で、徐庶の家庭教師の職は繋がった。
「あれは大したことじゃない。それに、孔明も助けてくれたから」
「試験前はお守りを頂いて来てくれましたし、合格発表のときは、泣いて喜んでくれましたよね」
の入試の日が近づくにつれて、本人以上に緊張した徐庶は、今のの学力であれば合格すると誰よりも確信していたにも関わらず、学業成就と合格祈願で有名な神社を参拝し、から合格を知らされたときは情けなくも嬉し泣きした。
「特別なことじゃない。俺が勝手にしただけで――」
「いいえ、特別な素晴らしいことなんですよ。みんながみんな、優しくしてくれるわけじゃないんです。心配してくれても、言葉だけだったり、心の中でだけだったりして、行動までしてくれる人は、ほんの一握りいるかいないかです」
「それでも……君は素敵だから、俺以外にもいるはずだよ。俺だけじゃない」
「それが下心あってのものか、本心からのものかどうかは、さすがに見抜けますよ。そこまで世間知らずじゃないです」
彼女が年下だからといって、どうして世の中を知らないと決めつけていたのだろうか。裕福な家に生まれた彼女は金銭面では苦労知らずかもしれないが、欺瞞や妬みといったものから無縁だったとは言い難い。両親がいない良家の美しい一人娘を、周りがどう扱うのかなんて、少し考えれば分かることだ。
「わたしは先生の優しいところが好きです。自分を顧みず相手のために行動するところが好きです。勇気があると思います。人を貶したり、騙したりしないところも好きです。優しすぎて、つい自虐的になってしまうところは少し直して欲しいなって思いますけど、そんなところも愛しいって思います」
「褒めすぎだよ。君は俺を買い被りすぎている。さっきの合コンだって、俺は全然もてなかったのに――」
「合コン?」
「本当は飲み会じゃなく、合コンに行っていたんだ。君が嫉妬してくれることを期待して……すまない。彼女がいるのに、行くべきじゃなかったな」
「可愛い子いましたか?」
「いや、君以上に可愛い子はいなかったよ」
それまで真っ直ぐに見つめていたが、恥ずかしそうに、そっと目を伏せて、徐庶も自分がこぼした台詞の意味に気づいた。こんな気障なことを言うなんて自分らしくない。郭嘉みたいじゃないか。
前言を撤回しようとしたがやめた。恥じらうを前にして愛しさが溢れる。もっと可愛らしい顔を見せて欲しい。徐庶の言葉で喜んでくれるのなら。
「あの、本当にもてませんでしたか?」
「本当だよ」
「その方たち、見る目がなかったんですね。先生はわたしにだけ好かれていればいいと思います」
「ああ、そうだね。俺なんかを好きになってくれてありがとう。先週はレストランの予約に失敗して本当にごめん」
「先生と一緒にいられたら、どこでもいいんです。それだけで幸せなんです」
ふわっと微笑むが狂おしいほどに愛おしい。胸が苦しくなるほどに。
こんな徐庶を愛してくれる。傍にいるだけで幸せだと言ってくれる。
は徐庶を優しいと言ったが、本当に優しいのはだ。
(愛しくて愛しくて、どうにかなってしまいそうだ)
の髪に落ちた花びらを、徐庶が指で払った。
「君に触れていいのは、俺だけであって欲しい」
桜の花びらにまで嫉妬して、想いのままにの唇を奪った。しっとりと濡れた柔らかい感触を、もっと味わいたくて、何度も重ね合わせる。
「せ、先生、あの、外です。誰かに見られたら……」
「分かってる。――けど、止まらない」
制止をするの手を抑え込んで、堰を切ったようにキスを激しくしていく。屋外なのは分かっているけれど、ここは閑静な住宅街の遊歩道で、しかも夜なのだから人通りは少ないだろう。万が一、見られたとしてもやめたくない。こんなにも愛しい彼女を放したくない。
の呼吸がすっかり乱れて肩で息をするようになって、ようやく徐庶はキスをやめて抱きしめた。の首筋に顔を埋めると、彼女の甘い香りがした。うっとりとして、全身の力が抜けていき、余計な感情が溶けて消え、への愛情だけが残った。
「君が好きだよ。誰にも渡したくない」
「はい。捕まえていてください」
「今夜は帰したくない」
「お泊まりさせてください。実はそのつもりで、明日の予定を全てキャンセルして来ました」
「君にずっと触れていたい」
「触れてください。でも、ずっとくっついてたら、お風呂入れないですよ」
「風呂も一緒に入りたい。駄目、かな?」
好きだという気持ちに急かされ、本音が次から次へと声に乗って送り出される。常であれば、絶対に口にしないようなことも全て惜しみなく。への想いが抑えられないくらいに大きいことも理由だが、が自分を好きでいてくれていると信じられたから、我が儘を言って甘えたいと思ってしまう。
しかし、からの反応がない。慌てて顔を外し、首を横に振った。
「さすがに、それはないな。今のは忘れてくれ」
「違うんです。嫌じゃないんです。その……普段あまり言ってくれてなかったので、なんだか、とても嬉しくて照れてしまいました」
その照れた様子の可愛さときたら、徐庶を一撃で仕留めるに足る破壊力で。くらりと足元が揺らぎそうになってしまった。
「先生、大丈夫ですか? 酔ってしまいました?」
らしくない大胆な言動にが首を傾げる。桜よりも心奪われる存在に、徐庶は眩暈すら感じる。
「そうだね。どうやら酔ってしまったようだ」
――すべては、夜桜に酔ったということにしてしまおう。
- written by 未花 -
2015-04-01