あれから一時間ほど経ってから、酷暑と悩みに苛まれて、いよいよ具合が悪くなったは、関興に付き添われて、みんなよりも一足先に別荘に帰って来た。
ビーチの更衣室で、水着から洋服に着替えるときに、備え付けのシャワーを借りたが、砂を流すだけだったので落ち着かず、一刻も早くちゃんと洗い流したかったので、別荘に着くや否やバスルームに直行した。
汗で肌に貼りついた服がもどかしく、やや乱暴に脱ぎ捨てて、編み込んでまとめた髪からヘアピンとヘアゴムを外して、身に着けていたもの全てから解き放たれ、勢いよくドアを開けた。
別荘の管理人さんたちが入念に掃除をしてくれたおかげで、バスルームはピカピカと輝き、バスタブにはお気に入りの入浴剤が入れてあった。
すぐさま熱いシャワーを頭から浴びて、髪を丁寧に洗い、スポンジを泡立てて体も爪先や指の間まで残さず洗い、再度シャワーを浴びて、全身の汚れを残さず落としてミルク色の湯船に身を沈めると、ようやく人心地ついた。
入浴剤の甘い香りを吸い込み、ほうっと深呼吸。ミントの香りが気分をすっきりさせてくれて、なんとも心地良い。生き返る気持ちだ。
真夏のビーチがあんなにも凄まじいものだとは思わなかった。物凄く暑いし、砂浜にも海にも大勢の人がうじゃうじゃしているし、正気の沙汰とは思えない。
見るのとやるのでは大違いだった。今回、それが学べただけでも良しとしよう。
お湯から腕を出して眺める。ひりついた場所はないし、見たところ日焼けもしていない。日焼け止めは塗ったし、日陰にいたから大丈夫だったのだろう。良かった。
……そういえば、関興は?
迎えの車に一緒に乗り込んで別荘まで帰って来たのは覚えている。別荘に着いて一目散にバスルームに駆け込んでしまったから、関興がその後どうしたのかは分からない。
水飛沫をあげてバスタブから飛び出した。
(いくら我慢出来なかったからって、お客様の関興を放ったらかして、自分だけ先にお風呂に入るなんて!)
あまりにもひどい。
管理人さんやお手伝いさんがいるから一人ではないけど、慣れていない場所では気まずい思いをしているだろう。しかも、関興は口下手だ。沈黙を厭わないとはいえ、自分を置いて、さっさと風呂に入って出て来ない彼女なんて嫌気がさしただろう。
がシャワーを浴びている間に、お手伝いさんが用意してくれた新しい下着と麻のワンピースに着替えて、髪をタオルドライしてからリビングに顔を出すと、籐椅子に腰かけた関興がこちらに気づいた。
「……」
「お嬢様、お飲み物をご用意致しましょうか」
関興の向かいに座っていたお手伝いさんが、すっくと立ち上がった。
どうやら関興の話し相手をしてくれていたらしい。客人を退屈させまいとする彼女の気遣いには頭が下がる。電話を入れて、ものの数分でビーチに迎えて来てくれた運転手さんといい、祖父の代からお世話をしてくれている彼らは、本当に優秀だ。
「お願いします」
「かしこまりました」
お手伝いさんが座っていた場所に、も座り、心配で眉を下げている関興と顔を合わせた。
「具合は……もう平気?」
「はい。おかげさまで。お風呂に入ったらすっきりしました」
「良かった……」
安心したように、関興はふっと笑った。何度見ても無表情からの、この笑みへの変化はずるいなあと思う。きゅんとしてしまう。
そういえば、洗面所ではスキンケアをしただけで、メイクもせずに関興の前に出てしまった。厚化粧ではないと思うので、すっぴんが別人ということはないが、アイラインがあるのとないのでは見栄えが違うと思う。今度こそ幻滅したことだろう。
おもむろに両手で頬を包む。
「すみません。関興を放ったらかして、先にお風呂に入って、こんな……すっぴんで出て来てしまって……」
「謝ることはない。具合が良くなって良かった。あなたは化粧をしてもしなくても……どちらも素敵だと思う。それに、今の姿は……色気があって困る」
「え?」
……今、関興らしからぬ台詞を聞いた気がするのだが。
関興の顔が頬紅を刷いたように薄く染まっていく。空耳ではなかったようだ。
「すまない……忘れてくれ」
「え、あの……」
「頼む」
「はい……」
暫し、沈黙。
なんと言えばいいのやら、次の言葉が見つからない。
だって、まさか、あの関興の口から『色気』なんて言葉出るとは思わなかったから。
なんだか落ち着かなくて俯く。
関興と二人きりのときの沈黙なんて、今まで何度も経験しているし、それが気まずいと思うことなんて一度もなかったのに。
確かに、突然変なことを言ったりする人ではあるけれど、でも……。
膝の上に落としていた視線を持ち上げて、ちらりと関興の様子を窺えば、驚いたことに彼はこちらをじっと見つめていて、視線がかち合うと喉を鳴らした。
「関興?」
関興は、くっと呻いてから、素早く立ち上がると、風呂に入ると言って、その場から去ってしまった。
残されたは、お手伝いさんが飲み物を持って来るまで、きょとんとした顔で座っていた。
関興が戻るのを待つ間、は自室で過ごすことにした。
綺麗に掃除されて埃一つない室内は、アロマの香りで満たされていて、呼吸をすると幸福感に包まれた。
香りに酔ったようにふらふらと歩いてベッドの上に伏す。スプリングが鳴き、背中がゆっくりと上下した。
冷房で冷やされたシーツが、ふあああっと間抜けな声が出てしまうくらい気持ちいい。
楽園は太陽がさんさんと振り注ぐビーチにあったのではない。楽園は室内のエアコンが効いたひんやりとしたお部屋にあったのだ。間違いない。文明の利器万歳。
横になると、体のあちこちに鈍痛を感じる。シャワーを浴びてさっぱりしたとはいえ、強すぎる日光と気温に、体は相当参ってしまっていたらしい。
呼吸はやがて寝息へと変わり、はいつしか深い眠りについた。
頭を撫でられている感触がして、徐々に意識が覚醒する。
重い目蓋を上げれば、関興の驚いた顔がいて、撫でていた手が、何事もなかったように、すっと引いていった。
「すまない……勝手に部屋に入ってしまった」
「平気です。こちらこそ、ごめんなさい。寝てしまって」
「気にしていない。もっと、寝ているといい。兄上たちは帰って来ていないから」
起き上がりかけた肩をベッドに戻された。
放ったらかし二度目なのに許してくれて、こちらの体調を気遣ってくれる関興は、本当に優しい人だ。まだ体がだるいので、お言葉に甘えて、みんなが戻るまで横になっていよう。
ふうっと、息を吐いて気を静めると、先程から耳に入って来る音の正体に気づいた。
「もしかして、雨降ってます? それも結構な量の……」
「台風が、来ている」
「あ、来てしまったんですね」
台風が接近しているからと、一度は中止になりかけた今回の旅行だったが、「直撃ではないから大丈夫! 絶対行くの!」と三娘のごり押しで決行した。
やはり別の日にしておけば良かったのかもしれない。
昼は晴れだが夕方からは崩れると、朝のニュースで予報されていたのを思い出した。
「みんなは?」
「屋敷の人が迎えに行ってくれた」
「良かったです」
胸を撫で下ろし、薄手のカーテンがかかった窓を見ると、雨が窓ガラスを激しく叩いて流れ落ちている。ときどき、雷鳴が聞こえる。さすがに、こんな天気では海に入っていないだろう。皆が無事であるよう祈るばかりだ。
「体は、まだ辛い?」
「いいえ。辛くないです。心配かけて、ごめんなさい。あと、色々と放ったらかしにしてしまって……」
見向きもしないで風呂に駆け込んだり、自室で眠りこけてしまったり、随分自分勝手なことばかりしてしまった。
「気にしていない。あなたが無事なら、それでいい」
「わたし、彼女なのに、関興に全然彼女らしいことをしていなくてすみません。せっかく好きになってくれたのに、こんなことばかりで、幻滅されても仕方ないというか……」
「そのことだが……あなたに、聞きたいことがある」
耳の横に片手をつかれて、関興が前屈みになり、互いの顔が近づく。
ああ、この眼差しには覚えがある。告白された、あのときと同じだ。
「は、無理して私と付き合っているのだろうか」
ピカッ、ゴロゴロ、ピシャンと、雷が落ちた。今度はの脳内ではなく、実際に。
続いて、部屋の電気が消えた。窓の外も真っ暗になった。
「えっと……停電みたいですね。わたし、お手伝いさんを呼んで――」
「逃げないでほしい」
関興の指に顎をとらえられて、向かい合うように固定される。
目が暗闇に慣れてくるにつれて、関興の表情が浮かび上がる。苦しそうで悲しそうで、泣き出してしまいそうな。こんな関興を、今度こそ放ったらかしにすることは出来なくて、は押し倒されたまま、彼の言葉を待った。
「私は……話すことが得意ではないから、知らぬうちにを傷つけてしまっていた、と思う」
そんなことはない。関興はいつだって優しくしてくれた。こちらが嫌なことは一つもしなかった。
「告白も、あんなところで突然してしまって……申し訳ないことをしたと思っている。でも……どうしても、気持ちを抑えられなかった。あなたを一目見たときから、あなたのことばかり考えてしまって、ずっと側にいたいと思った」
「関興……」
「あなたの優しさにつけこんでいるのは分かっている。でも、別れたくない。遅くなってもいい。いつかは……私のことを好きになってほしい。私があなたの虜になっているように、あなたも私を愛してほしい……お願い、だから……」
そっと唇が重ねられる。
「こうして……あなたに私の気持ちが移ればいいのに……」
静かだけど熱い関興の欲情が、どろりと溶けだして、の体の中へ除々に侵食していく。
関興の興奮が伝って火照る。昼間のよりも、逃れられない熱さがを包んで放してくれない。
関興は穏やかな人だから大丈夫だなんて、どうして思ってしまったのだろう。口数が少ないからといって、何も考えていないはずがないのに。
息を僅かに乱す関興の熱い唇が、顎へ、頬へと移り、耳元で止まる。
「あなたを……愛している」
かすれた声色が全身を弄り、はピクリと震えた。体の一部が疼いた気がした。
(え? なに?)
耳元で「愛している」と囁かれた瞬間、の胸の奥で何かが弾けた。
それは、じわじわと周りを侵食していき、むず痒い気持ちにさせていく。
「このまま……あなたに触れてもいいだろうか」
心臓がうるさいくらいに高鳴っているには、返事をする余裕がない。
いいとも、駄目とも言えず、目を伏せていると焦れた関興が動いた。
関興はを強く抱き締め直して、余すところなく体をつけて、抑えきれぬといった風に、はっと息を吐き出した。その吐息の荒々しさと熱に、の体がまたしても跳ねた。
それを合図に、関興は触れるのをやめた。
「すまない……」
落胆したのか、関興がゆっくりと離れていく。
違う。嫌がったわけじゃない。お願い。離れないで。
気がつけば、起き上がって関興を両手で抱き締めていた。
そのまま引き寄せて、ベッドに背中を預ける。ビーチで抱き寄せられたときよりも、関興と密着している。
心臓はドキドキしている。ものすごく恥ずかしい。
でも、関興を離したくない。ここにいて欲しい。
(なんで? どうして?)
分からない。分からないけど、こうしていたい。関興をもっと知りたい。
いつの間に、こんな気持ちを抱いていたのだろう。
関興がの耳を撫でる。指先を肌に触れさせたまま、下に移動し、首筋にあった後ろ髪を避け、あらわになった肌に口づけを落とした。
ちりとした痛みに、の体が跳ねる。
(……噛まれた?)
それにしては、微々たる痛みだが。
に不思議な感覚を与えた関興は、息を乱して、シーツに顔を埋めた。苦しいのか時折うめき声のようなものを吐き出した。
辛いのだろうか。もしかして、具合が悪くなったのか。雷が怖いのか。
背中を擦ると、先程ののように、関興がビクリと震えた。
「ふっ……」
思わず、擦る手を止めた。
なんて淫らな吐息を吐くのだろうか。こちらの息が止まってしまうくらい、ドキッとさせられた。
何をやっているのだろうとか、どうしてこんなことになったのかとか、考えなくてはいけないことを全部放棄して、関興が次にする行動を、期待しながら待つ。
一体何を期待しているのかは、自分でも分からないけど、でも今は、関興がすることであれば、なんでも許せる気がするのだ。
関興が触れたいと思っているのであれば、は――
次の瞬間、光が戻った。
眩しくて一度目を閉じてから、慣れるのを待ち、ゆっくりと開くと、電気が復活していて、部屋の隅々まで見渡せた。
今までの艶っぽい雰囲気は、暗闇とともに一瞬にして消滅してしまい、も関興も突然変わった状況をのみ込めなくて、そのままの状態で静止する。
今まで何をしていたのか。さっき感じた気持ちは一体。
廊下を走る足音が聞こえて、関興がの上から退いた。
「お嬢様、ご無事ですか?」
「あ、は、はい!」
ドアの向こうでお手伝いさんの心配そうな声が聞こえ、は体を起こして答えながら咄嗟に、掛け布団を肩まで被って体を隠した。裸ではないのに、何故かとても恥ずかしい気がした。
まだ、何もしていないのに。
……まだって、なんだ。何を期待していたのだ。
『関興お兄さまって、あまりしゃべらない感じだけど、ベッドの中だとどうなの? すごいの?』
三娘の台詞を思い出して、顔が真っ赤に染まる。
次いで、先程までの関興の色気を帯びた表情と、指先と吐息の熱に触れて、びくりと震えた自分の体を振り返り、羞恥で涙が出て来そうだ。
関興の色気は、とんでもない。
こちらを溶かしてしまいそうな熱い眼差しとか、悩ましげな吐息とか、彼の全部がの理性を、どろどろに溶かして、はしたない女にしてしまう。
の彼氏は、抗えないほどの魅力を隠し持っている恐ろしい男だ。
「関興様が見当たらないのですが、ご存知ですか?」
「関興なら、ここに一緒にいます」
「あら、ご一緒に……まあまあ、そうですか。おほほほほ。夕食は三十分ほどしてから、ご用意致しますね。お邪魔致しました」
お手伝いさんは、何がおかしかったのか、笑いながらドアを開けることなく行ってしまった。
どうしたのだろう。なんでもないことで笑えるくらいにツボが浅い人ではなかったと思うが。
溜め息をついた関興が、つと立ち上がった。
どこへ行ってしまうのかと視線で問えば、関興はきまり悪そうに俯いて小さく呟いた。
「……トイレに」
「す、すみません」
自分のせいで関興に言わなくてもいいことを言って恥をかかせてしまった。穴があったら入りたい。
停電だったのだ。トイレに行けず、辛かったことだろう。それなのに、あんなに甘えてしまって、申し訳なかった。
「我慢させてすみませんでした。二階のお手洗いの場所分かりますか? 案内しましょうか――っ!?」
首を傾げた拍子に、髪が滑り落ちて露になったうなじに、関興がかぶりついた。
悲鳴を上げそうになった唇は、大きな片手で覆われた。
ちゅっと音を立てて吸いつき、痛みが少ない甘噛みをしてから、関興はゆっくりと離れて、と目を合わせた。
「次は、もう待てないと思うから……早めに心の準備をしてくれると嬉しい」
そう言い残して、関興は今度こそ部屋を出て行った。
刻まれたキスマークに触れて、はスローモーションのように体を倒してベッドに沈んだ。
素早く枕をつかんで真っ赤になった顔を埋め、行き場のない羞恥に悶えた。
『ねえねえ、どうなの? そんなに照れちゃうほど激しいの? やっぱり、すごいの?』
今なら、三娘に大きな声ではっきりと答えられる。
(すごいよっ!!)
せっかくお風呂に入ったのに、肌はしっとりと汗ばんでしまっていた。
行きは、みんなでわいわいしながら乗った特急電車も、帰りは疲れのため、みんな眠ってしまい、静かなものだ。
他の乗客も同じで、旅行の疲れから来る睡魔には勝てず、一様にこっくりこっくりと船を漕いでいる。
の肩に頭を預けた関興も、すうすうと寝入っている。
昨晩、は関興への想いを考えに考えた。
これは、なんだ。恋なのか。そうでないのか。そうでなければ、なんなのか。
そして、とうとう結論を出した。
これは、恋であると。
一目見て、体に衝撃が走り、恋に落ちた――わけではない。
これこれこういうことをされたから、きゅんと来て、恋に落ちた――わけではない。
しかし、これは恋である。
友情の延長ではない。だって、友だちと触れあってもドキドキしないし、抱き締めたい、抱き締められたい、キスをしたいとは思わない。
関興は一目で好きになったと言った。
よって、恋とは落ちるものである。
落ちるものではあるが、育つものでもあるのではないだろうか。
「いいな」「素敵だな」と思った小さな憧れの種が、月日が経つにつれて育ち、恋になることもあるのだろう。「恋ぞつもりて 淵となりぬる」という歌もあるのだから。
あの日、告白して来たのが、関興じゃなくて、他の人だったら、やはり同じように付き合っていたかもしれない。
でも、関興のように、好きにはならなかったと思う。数ヶ月もしたら、別れを告げていたことだろう。
関興は待ってくれたから。の恋心が育つまで、辛抱強く待っていてくれたから、こんなにも好きになれた。
「わたしも、愛しています。心の準備しておきますね」
小さく小さく囁いた愛の告白は、熟睡している彼の耳には、きっと届いていない。
関興の目が覚めたら、ちゃんと伝えよう。
今年の夏は今までとは違う、特別な夏になりそうだ。
満足して目を閉じたは、関興の耳が赤くなっていることに気づかず、眠りの世界に旅立っていった。
- written by 未花 -
2015-08-02