February 2016


変わらないものはひとつだけ with 姜維


 私――は、元は月英様にお仕えしていた侍女だ。
 その夫である諸葛亮様が侍女を持たなかったため、不便に思った月英様が私を諸葛亮様の侍女としたのだ。それ以来ずっと諸葛亮様の身の回りのお世話をさせて頂いている。
 諸葛亮様が登城するのであれば共に参り、屋敷に戻るならそれに従うのが、侍女たる私の常である。
 私にとって諸葛亮様は非常に身近な存在ではあるが、その仕事ぶりとお人柄、そして才能に尊敬を抱いていたし、諸葛亮様の侍女として勤められることに誇りを抱いていた。
 月英様のお近くにいた時ももちろん全力で勤めていたが、当時は穏やかで張り合いがなかったというか、仕事に対する有り余る熱量にもどかしさを抱いていたのが本音であった。
 だから諸葛亮様の侍女となったとき、身体に流れる血が沸騰したかのようにあつく燃えた。
「お力添えをしたい」
 奥方である月英様とは違う別の方向から、あの方を支えて差し上げたかった。
 もしかしたら月英様もそれを見越して私を推薦したのかもしれない、と今になってようやく気付く。

 そんなとき、姜維という魏の武将が蜀に降ってきた。
 彼が初めて登城した日に、諸葛亮様の斜め後ろからその姿を確認した。
 凛とした背筋、揺れる長い髪、穏やかな声。
 優しそうな顔立ちをしており、真っ直ぐに前を見つめる瞳がとても印象的であった。
 諸葛亮様の意志に賛同し笑顔を浮かべる彼の姿に、私は不思議な感情を覚えていた。
「仲間ができたような」「嬉しいような」「悔しいような」「ずるいような」「置いていかれるような」「不安」「嫉妬」
 諸葛亮様を師と仰ぐ姜維様と、諸葛亮様を主人と仰ぐ侍女の私。
 そんな私たちの奇妙な触れ合いは、それから間もなく後であった。

 降将でありなにかと肩身の狭い彼を気遣って、諸葛亮様と月英様は自邸に彼を招いた。
 だがそれが裏目に出たらしい。
 緊張からか早々に酔ってしまった姜維様は、急に笑い上戸になったかと思えば泣き出したりと、それはそれはとてもひどい酔い方をされていた。
 大丈夫なのか、と見かねた私が姜維様の背中をさする。すると今度は私に向かって大きく腕を広げ、抱きつこうとした。すかさず月英様に頭を叩かれ姜維様はそのまま気を失ったが、翌日目覚めた姜維様は顔面蒼白で謝罪に来た。
 「気にしないで下さい」「お大事になさってください」と笑って流しておいた。
 今でもこれは笑い話になる。
 それ以降姜維様は私を見ると、なぜか顔を赤く染めて、どこかよそよそしくなってしまった。
 仕事柄ふれ合う機会が多いので仕方ないが、毎回それだとやりにくい。
 先の事件が後ろめたいのか、それとも私が嫌われているのか。
 耐えきれず月英様に相談すると「あなたも大概ですね」と笑われた。
 意味が理解できなかった。

 そらから日々は過ぎ、四人で食事をしたり話をする機会がどんどんと増えていった。
 諸葛亮様の話に相槌を打つ月英様。諸葛亮様の言葉に対し問いかける姜維様。それに頷く私。
 あっという間に時間は過ぎ、戦乱の中でも穏やかで充実した日々を過ごしていた。
 私は身売り同然で家を出て、家族のぬくもりを知らない。
 おこがましいかもしれないが、私にとって諸葛亮様が父で、月英様が母のような存在だった。
 沢山のことを教わった。人の優しさも思いやりも、あたたかさも、知恵も知識も、生きていく術も、全て二人から教わった。
 三人で過ごす時間は、私にとってはまるで、家族のようにあたたかだった。


 そんな時だった。
 五丈原の地にて、諸葛亮様が亡くなった。
 激戦になるため成都に留まることを言われた私は、黙って三人を見送った。
 そして毎日、三人の無事を祈っていた。
 諸葛亮様の訃報を聞いたとき、ただ呆然とした。信じられなかった。信じたくもなかった。
 そして帰ってきた冷たい諸葛亮様に触れたときに、漸くはじめて涙が溢れた。月英様と抱き合って泣いた。
 尊敬し大好きだった主人を想った。
 父を、想った。

 数日の後、殿を勤めた姜維様が戻ってきた。
 彼も泣いているのかと思った。
 私の予想とは違った。泣いてなどいなかった。
 ただ一言、私にこう言った。
「あなたのことも、月英殿のことも、この蜀も、私が守ります」
 彼にそう告げられ、大きな腕で抱き締められた。
 そのぬくもりがおそろしてくて、不安で、私の心は揺れた。
 諸葛亮様の死と相対し、以前の彼ではなくなってしまったのだと、私はそのとき思い知った。

 月英様の推薦で、私は姜維様の侍女となった。
 やることは何ら変わらない。
 城内でも屋敷でもお供をし、身の回りの世話や書簡の運搬などを行う。
 変わってしまったのは、姜維様だった。
 姜維様の目付きは以前に増して険しくなった。張りつめた空気がいつでもそこにある。彼は何を言われても、何を聞いても、どんな目に遭おうと、一歩も譲ることをしなかった。
 少し目を離せばどこかに消えてしまいそうな不安定さと脆さを感じる。
 私が少しでも足を止めれば置いていかれそうな彼の速度に、私は戸惑った。
 重い使命と責任感、それを一身に背負うその背中に触れたくて、でも触れられなくて、どうしようもなくもどかしかった。
 身を切るような想いを、月英様に相談する。
 すると月英様はゆっくりと首を横に振った。
「あなたを傍に置いた理由はそれなのです」
「あなたなら、姜維殿の傍にいれると思ったのです」
 そこでやっと、私は気づいたのだ。
 私のなすべきこと、使命に。
「私は、姜維様を一人にしたくない」
「私も、姜維様に置いていかれたくない」
 姜維様が、姜維様の大志を成し遂げるその日まで、ずっと傍に居続けることを心に決めた。


 北伐が開始される。
 反対を押しきって実行する姜維様に私は寄り添った。共に歩んだ、共に進んだ。
 家族のように四人で過ごした日々は、もはや遠い過去のようだ。
 姜維様とは仕事の話はするが、昔のような雑談などは滅多にしない。ただただ、目の前の使命から二人、逃げ出さなかった。
 戦乱は続く。戦火は止まない。
 城内を姜維様と歩く。文武官から指を指される。
 私は姜維様に寄り添う。何を言われても何をされても構わない。
 黒い森の中を、彼一人で歩かせたくない。私はそばにいる。彼に気付いてもらえなくていい。
 あなたは一人じゃないのだと、一人で苦しまないでと、そう祈って。ただただ傍に居続けた。
 私はあなたを置いていかない。
 この国を見限った人たちにも、命果てた人たちにも、あなたから離れていった人たちにも、私はならない。
 だからどうか、あなたはあなたのままでいて。


 政争相手への警戒のため、成都から沓中へ姜維軍は移動となった。
 姜維様は珍しく荒れた。
 ここまで露骨に感じる殺気に、私はひどく驚いた。
「貴女はここに残ってくれ」
 彼は早口に、そう言い捨てた。
「嫌です」
 私は即答した。姜維様は怪訝な顔をする。
「貴女を連れて行けば今度こそただでは済まないだろう。貴女は成都に残り、ここで生きるべきだ」
 何を言っているのだろう、この人は。
、貴女は貴女の生を全うしてくれ。好きな男と結ばれ、子を残し、貴女の人生を歩んでくれ」
 その言葉に、私は震えた。
「ありがとう。今まで私の傍に居続けてくれたことに、感謝する」
 口より先に、手が動いた。
「嫌です!」
 叩かれた頬に、姜維様が唖然としている。
「なんでそんなこと言うんですか! 私は、誰に命令されたわけでもない、ただただ私があなたの傍にいたいから居続けていたのに、なんで今更これしきのことで離れないといけないのですか!」
 姜維様も、目を釣り上げる。
「貴女も死ぬかもしれないのに、黙って連れていけるわけがあるか!」
「私に一人になれというのですか! だったら死んだ方がましです! あなたの傍にいれないというのなら、あなたの手で殺して下さい!」
!」
 肩を強く掴まれる。
「これは命令だ」
 強い視線で睨まれる。
「いや」
「私の傍にいることを許さない」
「そんなの、私だって許さない」
 涙が溢れた。
「諸葛亮様が亡くなったとき、私はその時あなたの傍にいれなかった。死ぬほど後悔したわ、着いていけばよかったと後悔したの。帰ってきたあなた、変わっていた。きっとあなた、一人で苦しんで、一人で変わってしまった。私は置いていかれた。私は置いていってしまった。悲しかった。苦しかった。私が欲しかったのは、私がずっと欲しかったのは、」
 四人で過ごした、あの楽しい日々。
「ずっと取り戻したかった。それだけだったの。それだけだったのよ。だから一人にさせてしまったあなたの傍に、ずっと居続けた。ねぇ、今更離れられると思う?」
「私は」
 姜維が珍しく、いい淀んだ。
「貴女が、愛おしいから」
  その言葉は、抵抗なく身体に流れていった。
「だから死んで欲しくない。着いてきて欲しくない。本当はずっと貴女を手放したかった。でも私は甘えていた。貴女が傍にいてくれることに、ずっと、甘えていたんだ」
「私も同じよ」
 姜維の赤い頬に、手を寄せる。
「姜維様。あなたの傍にいたい。あなたの力になれなくても一緒にいたい。あの日々が恋しいなんてもう言わないから、どうかあなたの傍にいさせて」
「でも貴女を死なせるわけには」
「私だって同じよ。私の知らない場所であなたを死なせて、たまるものか」

 そろそろと、お互いの指が重なる。
 あたたかい。
 姜維様の手はあたたかくて、それだけで涙が止まらなかった。
「姜維様、あなたについていくわ。ずっとこの先も、ずっと、どんなことが起こっても」
「ありがとう。私も突き進むよ。腐らず、真っ直ぐに、私の道を」
 気が付けば、お互いを強く抱き締めていた。


 沓中の地で、二人で生きる日々。
 変わったのは、私は屋敷に暮らすということだけ。
 危険な陣地はともかく、城にも足を踏み入れないことが、伯約との約束だった。
 屋敷に帰ってきた伯約と、日々を生きる。
 以前より甘い空気が漂う暮らしに、昔の日々を感じていた。


 そして、魏が攻めてくる。
 私は祈ったわ。伯約は遠い場所で戦っていた。

 蜀は、滅んでしまった。
 ふらふらの足で、屋敷の庭に出る。
 やけに照らす太陽の光がひたすら忌々しかった。目眩がした。

 進軍した魏軍に身柄を拘束され、私は暫く幽閉された。
 その獄中で、伯約は生きて拘束されていると聞き、安心する。
 生きてさえすれば、なんとでもなる。
 命さえあれば。

 国内の混乱も落ち着き、ここは正式に魏軍のものとなった。
 数ヵ月後、ようやっと拘束が解かれた。
 そして、伯約が戻ってきた。

(ああ、また一人にさせてしまった)

 諸葛亮様を亡くしたときのことを思い出した。
 例えあなたが変わっていても、私は――



 久方ぶりに見る彼はやつれ、痩せ細っていた。

「ただいま」

 その姿はただ、尊くて。

「おかえりなさい」

 涙が出た。


 そして、二人の生活は再開する。
 蜀将ではなく魏将として伯約は登用され、今は鍾会という将軍の元にいるという。
 面白い人なんだと笑う伯約につられて、私も笑顔になった。

 沓中の地から、成都に移る。
 数年ぶりの成都は、どんな景色なのだろう。
 成都で再び暮らす日々を想って、私は目を細めた。

- written by うい -

2016-02-01