ある時、兄がうんざりした表情も隠さないで言った。
「もう諦めたらどうですか」
わたしはイヤイヤと首を振った。
彼だけが見つからない。今まで声をかけてきたのは、彼を見つけるための手足がほしかったからだ。なんて最低で最悪な我儘だろう。
自覚してからも、止められない。
今も昔も、わたしは彼に恋している。もう一人は絶対結ばれないからという理由で。
わたしに心を壊された兄は、絶対にわたしを裏切らない。
だから、真っすぐに彼だけを愛するの。
ああ、この声だ。間違いない。
この時代にいると聞いて、ちゃんと記憶も持っていると知って、どれだけ嬉しかったか。直に会いたくて、声が聞きたくて、どうにかなりそうだった。今すぐ抱きついてしまいたいのに、意地を張りたい心が動きたがらない。床を睨んでいる目が痛い。頭に血が上ってきた。
「あ。その、えっと」
「言わなきゃわからないの? 手を貸して」
「ご、ごめん! お手をどうぞ、お嬢様」
「・・・・・・」
「あれ? 間違えたかな。こう言えば喜ぶって、孔明が言っていたんだけど」
「皆に会えて、なんでわたしにだけ会ってくれないの!?」
立ち上がりざま、彼の手を振り払って胸にしがみつく。
否、襟首を鷲掴みにした。皺がよろうが汚れようが構わない。
ずっとずっと待っていた。気が遠くなりそうな時間も、いつか会えると信じて疑わなかったから耐えられた。今生は最初から記憶があって、姜維や法正はわたしに導かれる形で思い出した方だ。わたしが忘れたままなら、彼らも思い出さなかっただろう。
こんなに多くの人たちが同じ時代に転生してるなんて知らなかった。
人の輪ってすごいなって、思った。
眉を下げて、寝不足みたいな隈の残った目の、剃り残したとは思えない無精髭の、ムカつくほど格好良くて(わたしのせいで)よれたスーツを着た、世界にたった一人の彼。
「ごめん」
「さっきから、そればっかり!」
「うん、ごめん。会いたいとは、思っていたんだけど」
「けど?」
「資格がないかな、って・・・・ぐえ」
「これ以上変なこと言うなら、絞め落とす」
「ご、ごめ」
「聞きたくない!!」
大声で、たくさんの人が振り返ってくる。
新年を祝う宴で、大半は酔いが回ってきている頃合だ。なんだ痴話喧嘩か、と揶揄する声が飛んできた。ささーっと人の波がひいて、大ホールにぽっかり穴があく。
「え、あ・・・・え?!」
彼は慌てた様子で周囲を見る。
誰も助けないし、誰も割り込んでこない。
主催で主賓であるわたしが、男性の襟首を掴んで締め上げているのだ。念のためのウォータープルーフでも、化粧がどうなっているかは考えたくない。
過去最高の完璧に着飾ったのに、意味がない。
「捕まえたわ、徐庶」
法正譲りの悪い顔で、にんまりと笑う。
襟首からネクタイへ握り直して、遠慮なく引き寄せた。
「うわっ」
「きゃー!! 情熱的!」
「しっ、見ちゃいけません」
先に弁明させてほしい。
わたしは普通に、ごく普通のキスをするつもりだった。それだけは断固主張しておく。なのにこんな、一足飛びに階段を駆け上がってしまうようなキスをするつもりじゃなかった。
しかも、しかもだ。
黄色い悲鳴とざわめきに離れようとした途端、あべこべにホールドされてしまった。だから、その先はわたしのせいじゃない。わたしは悪くない、きっと。
「・・・・俺たちは後ろ向いた方がいいんじゃね?」
「その台詞自体、無粋の極みだろ」
「ああ?」
「皆の者、赤飯が炊けたらしい。蕎麦で腹は満たされているかもしれぬが、これも祝いだ。せっかくなので、付き合ってほしい」
「りゅーぜんんんっ」
「大丈夫だ、父上。私はいつになく空気を読んでいる」
しれっと答える息子に、頭を抱えているだろう劉備の様子が思い浮かぶ。
周りの気配が移動していって、赤飯のいい匂いが漂ってきた。入り口付近で抱き合っている二人がぽつんと取り残された形だ。
がっつり見られたけど、放っておいてくれるらしい。
「は・・・・んんっ、徐庶・・も、うっ」
胸が苦しい。呼吸が辛い。吸うと吐くができない。
いつの間に赤飯用意したのとか、徐庶に会えなかったら赤飯どうしたのとか、わたしも一杯分けてほしいとか言いたいのに言えない。ざわめきが途切れる一瞬、濡れた音に赤面する。今なら火を噴ける。頭から煙も出ているかもしれない
恥ずかしいとか、嬉しいとか、そんなことよりも苦しい。
し、ぬ。
「いつまでやっているんですか、この阿呆」
「痛っ」
「あーあ、完全に落ちてるじゃないですか。この始末、きっちりつけてもらいますよ。徐元直」
「これはその・・・・久しぶりで、嬉しくて加減が」
「言い訳なんざ聞きたくねーんだよ。さっさとバカ娘連れて消えろってんだ」
「馬鹿は言い過ぎだろう。仮にも君の妹――」
「だからだよ。それとも何か? 譲ってくれるんですか? おやおや、それはお優しいことで。この孝直、ガラにもなく感激の涙を流しそうですよ。この悪人からは思いもつかない素晴らしい策。いやはや目から汗が出てきますな」
「えっと・・・・うん、俺が悪かった。だから棒読みで怒らないでくれよ、法正」
「譲ってくれるなら許す」
「それはできない」
「はっきり言いますね、この唐変木」
なんだろう、おかしな夢を見ている。
わたしが言いたかった罵詈雑言の数々を、法正が代弁してくれている。でも徐庶がしっかり抱きしめてくれるのが嬉しい。手を伸ばして、触れた何かをぎゅっと掴んだ。
「・・・・今回だけです」
「ごめん、次もないよ」
懐かしいやり取りを聞きながら、わたしは微笑む。
この幸せな夢が、朝になっても続いていますようにと願いながら夢の中の夢へと旅立った。
- end -
2016-01-01