食事をもらってくると郭嘉様は室を出ていった。
その背を見ながら、相手は将軍様だというのになにをさせているんだろうと、今更ながら段々と申し訳なくなってきた。
薬のお陰か熱も下がったようで、昨夜に比べて意識もはっきりしている。そのせいで思い出したくないことまで思い出しそうだ。
将軍様に看病させた挙げ句、暴言を吐いた。
しかも名前を間違えた。失礼な態度を取った。
うわあと心の中で悲鳴を上げながら、寝台でもがいていると、郭嘉様がいつの間にか戻ってきていた。
目が合い、にこやかに微笑まれる。
うわあ。
「調子は良さそうだね」
「はい、お陰さまで……」
「うん、私のお陰だよ」
「感謝しております……」
二人して寝台に腰かけて、朝食を取る。
熱で体力を消耗した身体は、あたたかい粥をすんなりと受け付けた。あっという間に完食し、渡された粉薬を口にする。
昨夜のせいか、気まずい。
ちらと横目で郭嘉様を見るが、彼は普段と変わらない様子であった。
なぜ彼があんなに優しかったのか、なぜ私にあんなことを言ったのか。彼の言葉の意味を考えても理由は見付からなかった。
そもそも私は、そこまで彼に関わりがない。
せめての接点は荀ケ様ぐらいで、荀ケ様の付き添いで後ろから彼を見るぐらいしか接触がなかった。そのため、まともに会話を交わしたことすらない。
私が荀ケ様をを好いていることも、荀ケ様の屋敷に住んでいることも、傷を負ったことも、それを郭嘉様が知っているのが不思議でならなかった。
「さらしを替えようか」
思わず顔を横に振る。
「ありがとうございます、でも、自分でできますから」
「本当にできると思っているの?」
できません。
ばつが悪くて顔を背けると、くすくすと笑われた。
「昨夜と同じだよ。私に身体を任せたらいい」
その言い方がそもそも嫌だ。
「それとも、荀ケ殿ではないから嫌なのかな」
そうやってまた、いじの悪いことを言う。
「楽しいですか、そうやっていじめて」
壁の方を向き、郭嘉様に背を向ける。
着物の紐を、自分の手でほどいた。
「人聞きの悪いことを言うね。私がいつ、あなたをいじめたと?」
「そうやってからかうところです。私の反応を見て楽しんでらっしゃる。私のこと、馬鹿にしているのでしょう」
「あなたはもっと素直になればいいのにと、そう思っているだけだよ」
肩からすとんと、着物を落とす。
ぺたと、冷たい手が背中に張り付いた。
思わず身体が強ばるが、知られたくなくて平静を装った。
「……素直?」
「荀ケ殿に好きだと言ってしまえばいいのに」
傷を触られ、身体が跳ねる。
「……言えるわけ、ありません」
「何故?」
言ってしまえば、傍にいられなくなる。
居場所を失ってしまうことがこわかったから、私は決意したのに。
「荀ケ様は結婚されるんですよ。だから私は決めたんです。女としての幸せはいらないから、あの人を生涯守るんだって」
それで満足なんだ。
女性として愛されなくても、彼の副官として傍にいて、信頼されて、戦場を共にすることができれば、それでいい。彼を守って死ぬことになっても、それは本望だ。
彼の奥方にはきっと、こんなこと出来ないから。それがまだ見たことのない奥方への、彼を奪った意趣返しだった。
「それで満足なのかな?」
こくりと頷く。
「本当は、奪いたいはずだよ?」
弾かれたように、後ろを振り返る。
郭嘉様と目が合う。そのひとは、恐ろしいほど美しい造形をしていた。
「違う、そんなこと」
声が震えた。
必死で隠して、蓋をして。決して開けまいと封じた気持ちを、見透かされた。
「奪いたいって、思わないわけないじゃない」
気付いたら、涙と言葉が一緒に出ていた。
「ずるいよ、私はずっと前からあの人を見て、一緒に過ごして、あの人を守ってきたのに、どうしてなんで、何も知らない人が私の居場所を奪ってしまうの。ずるい、私だって女として愛されたかった、笑っていたかった、抱き締められたかった、ずるい、ずるい」
汚いものが、一気に出てくる。
「身勝手だって、醜いんだって、そんなこと分かってる。私がいることで荀ケ様にも、その奥方にも嫌な想いをさせるかもしれないって、分かってる。それでも譲れなかった、嫌だった、苦しかった。だから苦しませたかった、守りたかったっていうのは建前で、ほんとうは」
壊してしまいたかった。
奪ってしまいたかった。
「言えばよかったんだよ、あなたは」
冷たい手で、背を撫でられる。
「荀ケ殿に好きだと、そう言ってしまえばよかったんだよ」
「言えるわけないでしょ」
あの人は本当に私を信頼してくれている。
だから私が想いを告げたら、きっと、あの人は真剣に考えてくれる。あの人はそういう人だ。双方が納得できるまで考えて、解決しようとしてくれる。
それでも私は、一介の副官であり侍女だ。立場の違うもの同士が想いを共にすることは、容易いことではない。
それにあの人は、私を女として好いてはいない。結果は目に見えて分かっている。
「捨てられるのが、こわかったの」
両親に捨てられ、荀ケ様にも捨てられたら、どうすればいいの。
一度手に入れたぬくもりを捨てなければならないなら、そんな恋情はいらない。
「捨てるとか捨てないとか、あなたはずっとそうやって生きていくつもりかな」
ふと、泣きはらした顔を上げる。
「生きていれば嫌でも別れを味わうことになるよ。でもその一つ一つにしがみついて生きることは、それこそ生を捨てていることに等しい」
郭嘉様は、どこか自嘲した笑みを浮かべていた。
「あなたの執着する気持ち、分からなくはないけれど。別れがくれば、新しい出会いもあるものだよ」
「そんなもの」
「私の副官になればいい」
え、と声が漏れる。
驚きのあまり、言葉が詰まる。
「本当だよ」
「でも、そんなこと」
「実はこれはね、決定事項なんだ」
郭嘉様は、秘密なんだけどと教えて下さった。
郭嘉様の副官に私がという話が出ていたことも、荀ケ様がそれに対して悩まれていたことも。
「荀ケ殿もね、あなたを離す気はなかったみたいだけど。どうもあなたが傷を負ってから、悩み始めたみたいだよ。自分のそばにいれば、いずれあなたが死んでまうんじゃないかって」
自分の代わりに傷を負っても「守れてよかった」と笑うあなたに、死んで欲しくないと心底思ったそうだよ。
その話に、私はぞっとする。
確かに、それで死ねたら本望だと思っていた。
「まだ荀ケ殿は、悩まれている様子だったよ。あなたを手離すことに。私はそんな様子を見てね、ああなんて愚かなんだろうと思ったよ」
主も、その副官も、なんと愚かな。
自分のことなのに、少し笑えてきた。
不思議と、心が満たされていく。
私のことで荀ケ様が悩んでいる。そのことがすごく贅沢だと思った。
それと共に嬉しくて、悲しくて、申し訳なくて。
嬉しいのは、荀ケ様にとってそれだけの存在であったという証拠から。
悲しいのは、打ち明けてもらえなかったこと。
申し訳ないのは、主を悩ませていたこと。
それだけで、十分だ。
「私、言います」
荀ケ様に好きだってことを。
そして、あなたの元を立ち去ることを。
がむしゃらに積み重ねてきたものは、零じゃなかったのだと、初めて知った。
だから正直に告げて、立ち去ろう。
荀ケ様から言うことは、きっと酷だろうから。
「うん、そうだね」
きゅと、新しいさらしを巻かれる。
強く巻かれたことが、嫌いではなかった。
「それで、私の副官になるの?」
その問いに、私は首を左右に振る。
「少し、考えさせて下さい」
「考える意味なんてあるのかな? ああ、もしかして」
次の居場所が見付かったから荀ケ殿に別れを告げる、という風に見えて嫌だったからとか?
耳元で囁かれたその言葉に、私は赤い目を細めた。
「図星かな」
「違います。そういうところが嫌だからです」
「私はあなたのそういうところ、好きだよ」
だから嫌なのだ、この人は。
言葉を返さずに、ただずっと顔を顰め続けていた。
さらしを巻き終えたのを見届けてから、さっと身支度を整える。
よく思えば、好きでもなんでもない男に肌を見せていたのだ。熱に魘されていたとはいえ、女性としてこれはありなのか。
「見てごらん」
郭嘉様の声に、ふと振り返る。
「雨が上がったようだよ」
いつの間にか雨音は止み、室内に陽がさしていた。
「郭嘉様」
その光を眺めながら。
それは不思議と、口から出てきた。
「ありがとう、ございました」
こうして私たちは、帰路を辿った。
半月後、私は郭嘉様の副官として任命された。
「それで、あの後どうなったのかな」
執務室にて机に向かう郭嘉様に、横から新しい竹簡を渡す。
「お喋りより、お仕事です」
「新しい副官殿は手厳しいね」
「そんな私を選んだのは、あなたでしょう」
「気の強い子は嫌いじゃないから、いいけど」
そう言って、いつもの調子でからかう。
私はほうと息を吐いて、内緒話をするように彼の耳元で口を開いた。
「好きだと言ったら微笑まれ、離れるといったら背中を押されました」
思いを告げたとき、微笑まれて自分もだと言われた。
それは主が部下に抱く好意だろう。
だから私も部下として、笑ってそれに応えた。
この人に幸せになって欲しいと、初めて思えた気がした。
これで、いい。
一人になって、うずくまってまた泣いた。
離れることがこわかったけど、離れてみて、意外と生きていけるものなんだなと、何日か経って思った。
苦しく思う夜もあるけど、朝は必ずやって来る。世界は嫌でもそうやって回っているのだ。だから人は、強くなれる。
「そういえば荀ケ様から聞いて、改めて思ったんですが」
そもそも郭嘉様が私を副官に欲しいと言ってきたようだが、それはなぜだろう。
口にしたその問いに、郭嘉様は「ああ、それはね」と筆を机に置いた。
「あなたに惹かれていたからだよ」
耳元で囁かれたその言葉に、私は「え」と顔をひきつらせる。
それが面白いのか、郭嘉様は肩を揺らして笑っていた。
「愚かで、傲慢で、とてもいじらしいと。そう思ったからだよ」
そう思ったから、副官にしたかったんだよ。
その言葉に、私は握りしめていた拳を緩めた。
「でも厳しいのは何とかならないかな」
「それとこれとは、話が別です」
あんなにも看病してあげたのにと呟く郭嘉様に、もう忘れて下さいと顔を赤くして私は言った。
あの日から、雨が降っても傷が痛むことはなかった。
- written by うい -
2015-06-01