脳裏に蘇った声に、一瞬、自分がどこにいるのか解らなくなった・・・・・・。
しばらく、独りで出かけてくる。
そう言うと、従弟はいつもの口調で、いってらっしゃい、若、と言った。
履きなれた革靴に足を通し、つま先で一度、地面を叩いて馴染ませる。
扉を閉めようとする時、少しだけ振り返る。
そこに在った馬岱の笑顔は優しかった・・・泣いているのかと錯覚するほど。
それでも微笑んだまま見送ってくれようとするのは、奴なりに気を遣ってくれているのだろう。
心の中で礼を言って、俺は外へ出る。空は晴天、これならしばらく雨は降らないだろう。
厩舎から愛馬を連れ出し、荷物を担がせてひらりと跨った。
走り出した愛馬は、あっという間に街の喧騒を抜け、門を飛び出し、荒野を駆け抜ける。
『 孟起 』
風の中で俺を呼ぶ” 声 ”。その” 声 ”に導かれるように、愛馬の手綱を巡らせた。
『 本当に行ってしまうの?ねえ、孟起! 』
残像をこんなにも身近に感じるのは、冬の寒さが解けた後に訪れる暖かな陽気のせい。
おかげで忘れずに・・・いや、忘れられずにいる。
春が来ると、俺はやるせない気持ちに駆られて、こんな風に『 現在 』の世界を飛び出す。
そして『 過去 』へと遡ろうと馬を走らせる。止まった時へ還ろうとするのだ。
世界が変わりゆく、春。彼女と別れた・・・あの日へ、と。
『 相手はあの曹孟徳なのよ!!いくら錦馬超と謳われた貴方でも、勝ち目がないわ 』
毎年、見事な桃花を咲かせ、訪れる者の目を悦ばせてくれた故郷の丘。
そこで過ごした、最後の季節。
満開の花の下で、彼女・・・が叫ぶ。
「 何を言うのだ、!俺たちが負けるはずはない!! 」
「 無理よ!今は戦を仕掛けている時ではないわ。どうして貴方にはわからないの!? 」
「 !! 」
かっとなって怒鳴ると、はびくりと肩を縮ませる。
こんな風に喧嘩した時は拗ねて、ぷいっと顔を背けてしまうのに。
その時ばかりは怯まずに食らいついてきた。彼女は俺の両腕を掴んで、強く揺さぶる。
「 涼州の民を見捨てないで、孟起!みんな、貴方を必要としているの。
貴方が一時の感情に駆られて行動して、何かあったら私たちはどうすればいいの? 」
「 見捨てなどしない。俺にだって、涼州の民は宝であり、家族だ 」
「 なら・・・ 」
「 だが俺は曹操に屈指はしない。この戦で必ず勝利を収め、涼州に平和をもたらす 」
「 ・・・・・・・・・ 」
が呆れたような顔をして、がっくりと肩を落とした。
俺を掴んでいた両腕の力が抜け、脱力した手はそのまま彼女自身の顔を覆った。
「 ・・・、 」
「 ばか・・・孟起の、ばか・・・、っ 」
覆った手のひらの奥から聞こえてくる、くぐもった嗚咽。
・・・泣いて、いるのだろうか・・・。
そう気づいた瞬間に、ぎゅっと鷲掴みにされる心臓。溜まらず息が詰まる。
幼馴染の涙など見慣れているはずなのに、ここしばらく・・・泣かれると、どうもむず痒くなる。
手を伸ばしかけたけれど・・・ふと脳裏をよぎった” 噂 ”に、その手が止まった。
「 お前も・・・俺を、置いていくではないか・・・ 」
ふと漏れた台詞に、はっと顔を上げる。
涙に濡れた顔には、驚愕の表情が浮かんでいた。俺の中で” 噂 ”が”真実”に変わる。
毛を逆撫でされた猫のように、酷く気分が悪かった。
強く唇を噛んで、次に口を開いた時には彼女を傷つける言葉しか出てこなかった。
「 婚姻が決まったと聞いた!お前も、幼馴染の俺を置いていくのだろう・・・! 」
「 ・・・ど・・・して、それを・・・ 」
はみるみる顔色を失う。が、俺はそんな彼女に背を向けて、丘を降りていった。
「 ・・・俺を、止めるな。そんなお前が、俺を止める権利などない!
どこぞの男にでも嫁いでしまえ!!そして・・・戦とは無関係の世界で生きればいい 」
「 待って・・・っ、待って、孟起!孟起っ!! 」
俺を呼ぶの必死な声。
立ち止まって欲しくて、振り向いて欲しくて、俺を求める彼女の、声。
だがそれも今だけだ。はいずれ、人のものになってしまう。そうすれば、俺など・・・。
( 俺など、すぐに忘れられてしまうだろう・・・ならいっそ、風に消えてしまいたい )
いつも一緒だった幼馴染。ずっと傍に居てくれるものだと思っていた。
だけど『 居て欲しい 』と思っていたのは、俺の方。
どこにいても、いくつになっても、彼女の傍に居られるような。
に必要とされる、そんな存在で在りたかったのだと・・・ようやく気づいたのだ。
「 ・・・・・・見事だな、毎年のことながら 」
感嘆の溜息交じりに、俺は空を仰ぐ。満開の桃の花は、今年も見事に咲き誇っていた。
両手で抱き締めても当然足りないほど太い幹に触れ、大きく息を吸うと懐かしい匂い。
一昼夜、馬で走り抜けて来た疲れなど忘れて、気分が高揚してくるのがわかる。
樹を見上げながら、久しぶりに再会した旧友に語りかけた。
「 少々遠い地にいるからな。頻繁に訪れることは出来なくなったが、許せ 」
俺のそう長くない人生のうちには、数々の苦悩と分岐点があったと思う。
その結果・・・生まれ育った土地に根を張ることは叶わなかった。
これも定めなら受け入れていくしかあるまい。どうしても叶えたい『 願い 』の為に。
「 ( 願い、か ) 」
曹操への復讐。もうひとつは・・・諦めようとして諦めきれなかった想い。
心に渦巻く激しい風が、内面から吹き荒れたかのように、纏っていた外套が翻る。
その風に身を委ねるように、俺は瞳を閉じて風の中の” 声 ”に耳を澄ます。
『 孟起 』
俺を呼ぶ” 声 ”・・・それはいつだって心の中から消えない、の” 声 ”。
彼女を愛しいと思う気持ちが、恋だと気付いた時には全てが遅かった。
花びら舞う風の中で、俺を呼んでいたの声だけが、後悔と共に耳に残って離れない。
ふらりふらりと、夢遊病者のようにその面影を追って、この花の下へと来てしまう。
・・・そこに彼女が居なくとも、ここに来れば、いつか逢えるような気がして・・・。
そんな都合の良い『 偶然 』を期待してしまうとは、錦馬超の名が泣くだろうか。
いや、それでも構わない。そう思えるのは、ここが特別な場所だからだろう。
珍しく自分に甘いな、と自嘲した笑いを浮かべた時、背後から風の音消されてもおかしくないほど、小さな小さな” 声 ”が・・・俺の名を呼んだ。
「 ・・・孟、起・・・? 」
息を呑む暇もなく、振り返る。
人の気配を読むのは武将として当然の技量のなのに、気を緩ませ過ぎたか。
反射的に腰に下げた剣を掴むが、その面影を認め・・・柄を握る手の力が抜けた。
「 まさか・・・、なのか? 」
肯定するように、こくりと頷いた彼女を・・・この俺が見間違えるはずがない。
彼女もまさか俺に逢うとは思わなかったのか、とても驚いている様子だった。
長い黒髪を束ね、その顔立ちからは幼さが抜けていたが、あの日の面影が残っている。
頬を紅潮させたが走り寄り、一歩も動けずにいる俺との距離をあっという間に詰める。
気が付けば、俺は彼女に抱きしめられていた。ふわりと香る、桃の匂いを纏った・・・。
( ・・・ああ、あの頃に、還ったようだ・・・! )
「 孟起、孟起!ああ、本当に嬉しい!こうしてまた逢えるなんて! 」
「 ・・・まさか・・・本当に、お前に再び逢えることができるとは・・・ 」
呆然としていた俺は、抱き締めてくれるの背中へと手を回して、恐る恐る抱き返す。
かき抱けば消えてしまう幻想のように思えて仕方なかった。が、は言葉を続ける。
「 この樹の下に居れば、いつか貴方にもう一度逢えるんじゃないかって。
そんな都合のいい『 偶然 』に縋って、毎年花の季節に此処を訪れていたの 」
「 俺もだ。お前に逢えたらと思って、毎年、馬を飛ばして此処に来ていた 」
「 えっ!?そ、そう・・・嬉しいけれど、どうして今年に限って逢えたのかしらね 」
の苦笑する気配がして、身体を離す。
細い身体。あの頃はこんな風に優しく抱き締めることなんて想像できなかった。
だが、襟元から覗いた肌にはいくつもの古傷がついていた。
俺の視線に気づいたは、ああ、と呟いて目を伏せた。
「 孟起が涼州を出た後、私も戦火に巻き込まれたの。当然、婚姻もなくなったわ。
おかげで、この年齢まで独り身で・・・孟起に逢える日を待つことしか出来なかった 」
「 ・・・・・・ 」
「 ・・・ずっと後悔していた。どうして、自分の気持ちを伝えられなかったんだろうって。
貴方と別れたあの日、素直になっていたら未来は変わっていたのかな。私、私ね・・・ 」
「 そこまでだ、。それ以上は・・・それ以上は、俺の台詞だ! 」
力任せにぎゅううっと抱き締めると、が言葉と共に息を呑む。
腕の中で真っ赤になった彼女と視線を合わせる。
溢れんばかりの涙を湛えた瞳。そこには感極まったような、俺の姿が在った。
・・・みっともない、とは思わない。錦馬超と言われても、愛した女の前では一人の男だ。
だから、あの日のように意地を張らずに、素直に気持ちを告げるのは俺の方だ。
「 ずっと忘れられなかった・・・好きだ、。俺の嫁になってくれ 」
一世一代の、満を持しての告白。の涙が、あっという間に頬を伝って落ちた。
「 ・・・嬉しい・・・ありがとう、孟起・・・ 」
涙に濡れたが笑う。
俺も微笑むと、彼女の涙にそっと唇を寄せる。どちらともなく惹かれ合うように口づけた。
生きてきた年齢分だけ、積み重ねてきた想いが昇華した瞬間。
心の奥底からこみ上げ、溢れ出る感情に・・・俺も涙してしまいそうだった。
今度こそ、離さない。誰にもを渡さない。
桃の花びら舞う、悠久の風の中でお前に誓おう。
この恋は、永遠のものであると。未来永劫、一人を思い続け、幸せにすることを。
風は、長い時を経て結ばれた二人を包み込み、空へと舞い上がる。
煽られた花びらがまるで雪のように降り注ぎ、視界は薄桃色に染まった。
俺は・・・この美しく、幸せな一瞬を・・・生涯忘れることはないだろう。
- written by 灯 -
2015-03-01