若くして抜きん出た才智を見せつけ、曹操の気に入りとなった男・郭奉孝。
大胆かつ精緻な策は、戦いを勝利に導く一矢となる。ゆえに能ある人物として認めざるを得ないわけだが、個人的な感情としては別だ。
柔らかな微笑の優男は、とにかく女にもてる。
主君に寵愛され、女をはべらせる男は無類の酒好きでもあった。とにかく享楽的で、刹那主義というのが彼に関する印象だ。男女から向けられる嫉妬や羨望の情は種類こそ違えど、争いの種になりかねない厄介なものだ。
それを常にまとわりつかせ、平然としている。
「理解できん男だ」
「それはすみません」
知らず洩らした独り言を拾われるとは思わず、ぎくりと肩が強張った。
横からすいっと移動して青年は目を細め、優雅に首を垂れる。その仕草に通りがかった女官が頬を染め、文官が嫌そうに顔をそむけた。女たちは大体似たような反応を示し、男たちは年若くなるほどに反発するという。
話には聞いていたものの、あからさまな構図に呆れた。
「私の方は、将軍のことをそれなりに尊敬しているのですけどね」
「それなりか」
「ええ。噂程度のことしか知りませんので、お互いに」
最後に足された部分のせいで、舌の奥が苦くなる。
よく知らないのに勝手な評価を下されるのは納得がいかない、といったところか。それこそ噂など気にしない男だと思っていたが、どうでもよくはないらしい。
ちらりと横目で見やる。
相変わらず色素の薄い男だ。それがいいと女たちは言う。
(やはり理解できん)
だからお前は妻がおらんのだと(脳内の)曹操が言う。
『のう、夏侯惇よ。女は良いぞ? 抱けば柔らかくて、いい匂いがする。これほどの癒しはあるまいに』
ええい煩い、と内心で毒吐いた。
癒されるからと何人も女を囲って、歴代皇帝に並ぶほどの後宮を作ろうとしている男に言われたくはない。そういうところも郭嘉と通じ合うのだろう。つくづく理解できない感覚だ。
「おやおや、酷い顔だ。将軍にも癒しが必要でしょうか」
「いらん! 余計な世話だ」
「これは失礼を」
悪びれずに一礼して、去っていく背を睨む。
何が言いたかったのだ、あの男は。
人をからかって遊ぶ趣味の悪さは、またしても曹孟徳と重なる。これが類は友を呼ぶというやつかと頭を抱えながら、足音も荒く先を急いだ。
これは後から気付いたことだが。
郭嘉の行動は突発的なことが多く、意味がないように見えてもどこかしらで繋がっている。夏侯惇があそこを通りがかるのを把握した上で、わざと偶然を装って話しかけたのだ。雑談にもならない短い会話で終わったのは、長期的な付き合いを見越していたから。
そして郭嘉の行動の裏には、一人の少女の姿があった。
「修復するのですか?」
それと言わずに視線で示されたものを見やり、夏侯惇は顎をひく。
「貴様も知っているだろう。俺は、これに何度も命を救われた。鎧としての役目を終えようとも、屑鉄に戻す気はない」
「それはそれは。作り手もさぞ喜ぶでしょう。かの夏侯惇将軍に多大なる評価をいただける名工など、そうおりませんから」
「誤解するな。俺が武功を立てられるのも良い武具があってこそだ。でなければ、孟徳の覇道など支えられん」
むすりと返して、ひとつ息を吐いた。
友好の証にと冗談めかして贈られた鎧を、用が為さなくなるまで使い潰すことになるとは夏侯惇自身も思っていなかった。旗揚げした頃ならいざしらず、今はこぞって名工たちが逸品を献上してくる。金に糸目を付けぬと言って、作り直させることもできるくらいだ。
武具の良し悪しで、生還率が変わってくる。
達人は得物を選ばないというが、夏侯惇はその域に達していない。不覚をとって失った左目が、増長しようとする心をいつでも押し留める。
「一度くらいは、会って礼を言いたいものだな・・」
「ええ、一度『だけ』ならかまいませんが」
またしても独り言を拾われ、思わず隣を凝視する。
相変わらず微笑を浮かべているものの、空気がやけに重い。珍しすぎる反応に、夏侯惇は片眉を上げた。疑問のままに言葉を紡ぐ。
「貴様の妹に会わせろと言っているわけではないぞ」
「ええ、もちろんです。それは分かっていますよ、もちろん」
郭家が抱える名工と並んで、最近の噂にちらほら出てくるのが「掌中の玉」だ。
ぴたりと製造を止めてしまった名工と入れ替わりに、その存在が囁かれるようになった。郭嘉が目に入れても痛くないほど可愛がっている妹姫は齢十五。本格的に縁談話が舞い込んできてもおかしくない年頃なのに、郭嘉が全て断っているらしい。
屋敷から一歩も出ていないので、どんな容姿かも分からない。
郭嘉の妹ならさぞ美しかろうと、想像だけが独り歩きしているのだ。郭嘉自身が関係した女たちの中には、妹姫を話題にしただけで捨てられた者もいるとか。
噂の真偽はともかく、馬鹿馬鹿しい話である。
(俺とは親子ほども離れているのだぞ。気になるわけが・・)
ここで夏侯惇は、とある可能性に気付く。
通常ならば、ありえない符合だ。しかし郭嘉の行動を最初から追っていけばいくほどに、己へ向かって糸が繋がっている気がしてならない。糸の元は当然ながら、郭嘉の手の内だ。
名工と掌中の玉。
全く無関係の二つに、同じ拒絶反応。
あくまでも仮定だ。信じたくない結論に愕然としている夏侯惇に、郭嘉は得たりと頷く。
「ふふ、言ったでしょう? 私は将軍を尊敬している、と」
「妹を溺愛しているのだろう」
「ええ、それはもう。本来ならばどこにも出すつもりはなかったのですが、そうもいかなくなりまして・・」
「貴様の事情など知ったことか。俺を巻き込むな」
「あの子では役不足とでも?」
「噂だけで判断するなと言ったのは、貴様の方だろうが。俺に評価させたいのならば、本人を連れて来い」
「分かりました。・・そこまで仰るのならば、仕方ありませんね」
やれやれ困ったものだと肩をすくめる郭嘉。
まるで夏侯惇が無理難題を押付けたような態である。しかも先刻までの空気はどこへやら、楽しくて可笑しくてたまらないと口元が緩みかけている。
(はめられた)
痛くなってきた頭を抱えれば、とうとう吹き出してくれた。恨めしくも憎らしい。
付き合う女に年齢を問わない男だからこそ、妹を添わせる相手にも気にしないのか。いや大いに気にしてくれと訴えたい。きれいに聞き流されると分かっていても――。
「おい、貴様」
「そうだ。賭けをしましょう、夏侯惇殿」
「だがことわ・・」
「あの子が貴方を気に入ったら、私の勝ち。貴方があの子を気に入らなかったら、私の負けです」
「それでは条件が合わんだろう」
「これでいいのですよ。大丈夫、私はこういう勘は外しません」
笑えない冗談だ。
しかし賭けそのものは悪くない。郭嘉の妹だって、結婚するなら若い男の方がいいに決まっている。可愛がっている妹の「遊び相手」に夏侯惇を選んだとは、さすが考えられない。
そもそも郭嘉に見慣れている妹ならば、審美眼も相当なものに違いない。
「・・もういい。貴様の好きにしろ」
「投げやりですね。そんなに気が進みませんか?」
「年の差を考えろ、年の差を。さすがに憐れと思わんのか」
「年齢など、身分ほどの障害にもなりませんよ」
そう、身分は釣り合うのだ。
片や曹操の右腕として活躍する大将軍、片や軍師の中でも一、二を争う実力者。元々の家柄も低くない上に、当主同士の実績も華々しい。政略結婚としてなら、親子ほどの年齢差など珍しくもない。
ただ、それを郭嘉が言うのかと。
政略結婚でも不幸せになるとは限らない。年月をかけて、少しずつ心を通じ合わせた夫婦もいる。夏侯惇が男として魅力がないというわけでもない。それなりに女にもてたし、縁談話も未だに持ちかけられている。
何より曹操が諦めないので、いい加減うんざりしているところだ。
「夏侯惇殿は贅沢ですねえ」
心の葛藤を読み取ったように、郭嘉が嘆息する。
「煩わしい縁談が消えて、可愛い幼妻が手に入るんですよ。何が不満なのですか」
「・・・・っ貴様は一体、何を考えている!?」
「妹の幸せ、ただ一つですよ」
もはや二の句が継げなかった。
あまりにも透明な笑みで答えるものだから、毒気を抜かれた。同時に、ここまで熱心にかき口説かれたのも初めてだと苦笑いが浮かぶ。尤も肝心の当人不在での説得ではあるが。
「さっきも言った。貴様の好きにしろ」
「分かりました。・・ああ、それと」
「まだあるのか」
もう何も考えたくない。仮眠室で寝てしまいたい。
胡乱な目で振り向いた夏侯惇に、郭嘉は今までで最高の笑みで迎えた。
「――――ですよ」
「・・・・は?」
「信じる、信じないはご自由に」
最後に人を食ったような笑い方で締めくくり、将軍の悪友殿は悠々去っていく。
残されたのはよく似た別人か、精巧な彫像かと疑いたくなるような髭面の男が一人。言葉の意味が完全に咀嚼し終わって衝撃が咽喉元を過ぎた頃、ようやく視線が向かったのは修復に出す予定だったボロボロの鎧であった。
- written by 武藤渡夢 -
2015-05-01