「 ( 劉備殿に、お逢いするまでは・・・お逢い、するまで、私は・・・! ) 」
噛み締めた唇から、鉄の味がした。
太い幹に縋ってかろうじて立っているが、自分がどこにいるかすらもうわからない。
意識が混濁しているのは、先日負った傷のせいで高熱が出ているのだろう。
次第に狭まり、陰っていく視界。定まらない視点を集中させる気力も残っていなかった。
「 ( 私は・・・こんなところで、志半ばで倒れてしまうのか・・・ ) 」
武人として戦場に散るのではなく、鬱蒼とした夜の森でひっそりと命尽きるのか。
一瞬緩んだ気持ちに引き摺られてか、とうとう崩れ落ちる。
どさり、と土埃の中に身体が沈んだ。
起き上がりたくても、意識と神経が断絶されたかのように指先すらぴくりとも動かない。
血の気はどんどん失せていくのに、聴覚だけが酷く冷静に機能していた。
耳を劈く、おどろおどろしい闇夜に潜む鳥の声。ひゅーひゅーと細く消え入りそうな呼吸音。
・・・これが聞こえなった時、私は死ぬのだろう。自然とそう悟った。
抗えない眠気に、重くなっていく瞼が閉じようとした、時・・・だった。
視界の端で揺れる光。
近づいてくる橙色のそれは、天からの迎えのように・・・思えたのだった。
吐いた吐息は白く染まって、仰いだ星空に溶けた。
季節は確実に巡っていて、当然空の様相も変わってくる。
見上げた夜空はもう冬の装いだ。紺藍の世界に散らばる無数の銀の光は今夜も美しい。
けれど・・・それ以上に美しいのは、あの光。
星空から視線を下ろして先には、黄金の輝きがぽつりとひとつ、燈っていた。
昇った高台の上から目標に向かって駆け降りる。
とうに上がったはずの息も、しばし苦しさを忘れた。むしろ距離が縮まるほど加速していく。
幹の合間から除く光源を見失わないように一心不乱に走った末、程なく森を抜けた。
突如、開けた湖岸に出る。
その淵で穏やかに揺れる灯と、隣に丸まった背中を見つけて、ほっと胸を撫で下ろした。
・・・と同時に、ふつふつと湧き上がってくる苛立ちが、草を踏みしめる足元に力を篭める。
背後から次第に迫りくる物音に振り向き、素早く立ち上がった彼女が、口を大きく開けた。
「 ちょ、趙雲さんっ・・・!どうしてここに!? 」
「 どうして、じゃない!夜中に家を出る時は声をかけるよう何度も言ったじゃないか! 」
「 う・・・で、でも・・・これは私の問題、ですし 」
「 頼むから遠慮をしないでほしい。貴女の姿が見当たらず、心配で気を揉む方が疲れる 」
語気の荒い私を、目を丸くして見守っていただったが、割れた風船のように萎んだ。
しゅん・・・肩を落として、ごめんなさい、と素直に謝るに、自分の怒りも鎮まる。
苦笑して、項垂れた彼女の頭を撫でると、持ってきた外套を彼女の肩にかけた。
「 もう秋も終わる。薄着をして、風邪を引いては大変だ 」
「 ・・・ありがとうございます 」
やはり晩秋の夜は寒かったのだろう。表情を緩ませたが笑顔を浮かべた。
二人並んで腰を下ろす。
特に会話するわけでもなく、お互い黙ったまま湖面に映る灯を眺めていた。
・・・ゆらゆらと揺れる炎は、彼女に拾われた日を思い出させる。
枯れた草原を通り過ぎる風の音だけが聞こえる静謐な世界で、独り言のように呟いた。
「 今夜こそ・・・『 待ち人 』はやってくるだろうか 」
瞬時に、耳が痛くなるほど空気が張り詰める。も私も微動だにしなかった。
そのうち・・・ふっと、は悲しそうに微笑んで、わかりません、と首を振った。
「 でも、誰かが灯を燈さないと。闇に迷う人がいるかもしれないから 」
橙色の光に照らされたの瞳は、先程と変わらず、一直線に前だけを見据えていた。
波も立たない湖面のように穏やかな瞳。
けれど、私の『 言葉 』はそんな湖面に一石を投じたも同じこと。
今、彼女の心の奥底には、複雑な感情が渦巻いていることを知っている。
私は黙ったまま彼女の視線を追い、暗闇の中にも静かに佇む湖の彼方へと目を向けた。
人も獣も迷うような深い山間。その中心には美しい湖が広がっていた。
澄んだ水源に肥沃な大地だが人気はなく、湖のほとりに住んでいるのは唯一人。
あの夜・・・奇跡的に遭遇した私を、手厚く看病してくれただけだそうだ。
「 人気がないとはいえ、女性一人では何かと物騒だろう。
恩人が心無い輩に狙われるのは忍びない 」
回復した私は、感謝の気持ちとしてしばしの護衛を申し出た。
一度は断られたが、旅の途中であることを告げると、彼女は仕方なさそうに頷いた。
閉鎖的な土地だが、旧知の行商人が運んでくれる物資と、畑で育つ食物で生活を賄う。
旅を繰り返していた私に、湖のほとりで過ごすとの毎日は新鮮だった。
だが、どうしてあんな時間に私を発見することができたのか、ずっと不思議だった。
それに・・・私を見つめる時の、の『 視線 』。
酷く稀だが、ぼんやりとした視線を投げかけてくることがあった。
声をかけるとはっとした様子で元に戻る。何でもない、と謝罪するがそうは思えなかった。
まるで私に誰かの面影を重ねているような・・・とてつもない違和感を感じた。
さながら夫婦のように寝食を共にして・・・ようやく、その真相に辿り着くことができたのだ。
彼女には『 待ち人 』がいる。
毎晩、こうして灯を携えて湖のほとりを照らして、その人の帰りをひたすら待っている。
あの夜も、その人が帰ってきたのではないかと思い、は慌てて駆けてきたようだ。
・・・そんなに、恩人であることとは別に、単純に『 興味 』が湧いたのだ。
今、隣で遠くを見つめるに、表情はない。
『 待ち人 』を想う高揚感だけでなく、表情そのものが欠落しているようにも見えた。
そんな時は、私の背に面影を見ている時のように、ぼんやりとした瞳をしている。
実はとうに諦めていて、義務感だけで佇んでいるのかと思うが、灯は絶やさない。
心の中では、やはり『 待ち人 』の帰りを待ち詫びているのだろうか。
・・・きっと先程も、あの夜と同じように、誤解させてしまったに違いない。
『 私 』では期待に応えられない。
それが自分のせいでなくても、内心申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
無表情の横顔を見つめたまま、私は決して表に出さないの心情を想った。
「 趙雲さんは・・・私といて、楽しいですか? 」
私の視線に気づいてか、は前を見据えたままそう尋ねてきた。
「 私、趙雲さんが居てくれるおかげで、今、毎日が楽しいです。
引き留めている訳じゃありません。でも・・・あの時断らなくてよかったと思えるんです 」
「 にそう言ってもらえるのは嬉しいな。私も、貴女と居てとても楽しいから 」
「 ・・・本当ですか? 」
「 ああ 」
そう言って微笑むと、きょとんしたの頬が薄く染まる。
こういう時は、妙齢の娘の顔に戻る。嬉しい、と照れくさそうに笑って肩を竦めた。
二人でひとしきり笑うと・・・彼女は空気を抜くように、ふう、と息を吐いて一度俯く。
そして、意を決したように顔を上げた時には、打って変わって真剣な面持ちをしていた。
改まった様子に、私も緩んだ口元を引き締める。彼女が、静かに息を吸った。
「 もうすぐ・・・冬がやってきます。この辺りは雪も深くて、春まで動けなくなる土地なんです。
貴方” も ”此処を出ていく人。冬が来る前に、一刻も早く此処を離れるべきです 」
「 ・・・、私は貴女と、 」
「 私は・・・此処を、離れることができません。趙雲さん、貴方が望んでくれたとしても 」
空の星々にも負けない、存在を主張する強い光が彼女の瞳に宿っている。
が『 待ち人 』・・・彼女置いて去って行った恋人を、この場所で待ち続けること。
その決意だけは決して変わらないのだ、と主張しているようだった。
・・・私は、どんな表情を浮かべていたのだろう。ただ無言で、へと両手を伸ばした。
指先が触れると、びく!と一度大きく身体を震わせたが、それ以上の抵抗はなかった。
外気に冷たくなっていた頬を包み、優しく自分の方へと引き寄せる。
こつん、と2人の額が合わさった。
「 解っている。けれど・・・私はが好きだ。
ここで別れて、貴女を諦めるような真似はしたくない 」
の喉が動く。小さく息を呑む音がした。
「 ・・・私が、趙雲さんの気持ちに・・・応えられなくてもですか? 」
「 勿論。でも私はの、その強い志をとても貴いものだと思っているよ。
貴女を振り向かせるには” 彼 ”を想っていた分だけ時間が要ることは承知の上だ。
・・・その上で、こうして口説いている 」
瞬間、触れている額の熱がかっと上がったように思えた。
ちらりと視線だけ持ち上げると目が合って、彼女は申し訳なさそうに、睫毛を伏せた。
目元の影が小さく震えている。何か言おうとして・・・そのまま唇を噛み締めた。
「 ちょ・・・趙雲、さん・・・あ、あ、あの、私・・・っ 」
「 今、答えをもらおうとは思っていない。だから焦らないで 」
「 ・・・・・・・・・ 」
後悔、不安、疑念、自己嫌悪。
額を離して、恐る恐る私を見上げた。
その瞳は、心の内を反映したかのように複雑な色をしていた。
様々な感情が入り乱れた・・・の心、すべて受け止めたくてそのまま抱きしめる。
「 大丈夫だ、。不安にならないで 」
抱き締めた彼女の背中が震えていた。
きっと・・・自分でも『 解って 』いるのだろう。だから、こうして迷っている。
依存した世界から一歩を踏み出す時は、誰であろうと臆する。
それは恥ずかしいことではない。
「 私は急に居なくなったりしない。貴女を・・・時間の狭間に置いていったりしないから 」
長い月日、孤独を感じなかった日はないだろう。それでもは照らし続けた。
去っていった恋人が、いつ帰ってきても自分を見つけてくれるように。雨の日も、風の日も。
けれど・・・もう、いいだろう。貴女自身の『 道 』を照らしても。
の光が私をここに導いてくれたように、私も灯の守り人の足元を決して暗くはしない。
諦めずに照らし続けたその灯を、今度は二人で・・・護っていけたら、いいと思う。
必要ならいくらでも手を貸そう。
照らされた貴女の顔が、いつだって笑顔であるなら、私も嬉しいから。
だから・・・選んで欲しい、貴女に。
貴女を置いて去ってしまった恋人ではなく、貴女を広い世界に連れて行こうとする私を。
ぎゅうっと強く抱きしめられたは、私の背中に手を回してそっとその身を委ねる。
隙間なく合わさった二人分の温もりに・・・吹き荒ぶ木枯らしの寒さを、しばし忘れた。
- written by 灯 -
2015-11-01