September 2015


純粋嗜好 with 呂蒙




 回廊より中庭にさしかかったところで、魯粛がにやりと笑った。
「ときに呂蒙よ、嫦娥殿は息災かな」
「は?」
 今しがた、朝議に出ていた案件について話し合っていたはずだ。
 思い付きで物事を進める孫策の代から仕えているので、突発的なことには慣れてきたつもりの呂蒙も一瞬思考が追いつかない。
 そんな様子にまた笑って、魯粛は顎を一撫でした。
「お前が囲っているのだろう? せっかく美しく育ったものを、独り占めすることはあるまいに」
「・・魯粛殿が、人の物に指くわえる性情とは知りませなんだ」
「おいおい、嫉妬深い男は嫌われるぞ。いや・・・・あの子に限って、それはないか」
「からかわんでください」
「夫婦仲が良いのはいいことだぞ。めっきり姿を見せなくなったのは、寂しいと思うがな」
「・・・・・・」
「あの見た目では、遊楽どころか散策も難しかろう」
 しんみりと呟く男に返す言葉はない。
 嫦娥と揶揄した女は、呂蒙の妻だ。稀有な色彩を持つせいで、肉親に迫害されていた過去がある。酷い有様で見るに見かねてというわけでもない。偶然の出会いを果たした時から、互いに目が離せなくなっていた。
 つまりは、そういうことなのだ。
 最初から妻にする気はなかった。年頃が近くて、性格の良い男を婿に選んでやろうと本気で考えていた。慕われている自覚はあったものの、それが恋情だとは思いもしなかった。
(色香に惑わされた、とも言えなくはないか)
 元々が愛らしい顔立ちで、成長するにつれて美しさを増していった。
 幼い頃こそ一族の特徴は残っていたものの、今はもう跡形もない。美貌を誇る高位女官たちにも劣らない。まろやかな肢体と芳しい匂いのせいで、理性と自制心の弱さを痛感している。
「呂蒙」
「何でしょう」
「お前は女を口説いたことがあるか?」
 至極真面目な顔で問われ、呂蒙の思考が真っ白になる。
「女はいつでも言葉を欲しがるものだ。出し惜しみをして、あの子を寂しがらせるなよ。月に逃げられては困るだろう?」
「逃げません!」
 大きな声に振り向けば、ぷっくりと頬を膨らませた妻がいた。
 珍しいことに文官姿ではなく、控えめながらも上品な衣装を身に纏っている。兎の耳のように束ねた髪が二つ、後は背中へ流していた。薄化粧でも十分すぎるほど美しく、この姿を何人に見られたかと思うだけで腹が煮える。
 普段は人目を気にするくせに、今日に限って何だというのか。
 にやにやと上機嫌の魯粛が横目に見えて、呂蒙の機嫌はより悪化する。
、体は良いのか」
「慣れました。おかげさまで」
「おやおや」
「おっほん! 今日は休みだろう。何の用向きで城まで来たのだ。供はおらんのか」
「大喬様にお茶席へ招かれております」
「一人で参ったのかと聞いているのだ!」
「魯粛様もいかがですか? 美味しい瓜が手に入ったそうなのです」
っ」
 無視されるとは思わず、つい声が大きくなる。
 しかし彼女は怯えるどころか、とてもいい笑顔で視線を合わせてきた。紅をさした唇が見事な半円になっているのに、目が笑っていない。
「呂蒙様はお仕事がありますので、ご遠慮くださいませ」
「違う。まず俺の質問に答え――」
「何度も止めてくださいと申し上げましたのに」
「ま、待て。そういう話を、このような所でするものではないっ」
「形勢不利だな、呂蒙」
 さりげなくの背に回そうとする手を、ぺいっと払った。
 妹か娘のように可愛がっていると公言する男だが、婚儀を終えてから心が狭くなっている自覚はある。何よりもの好きな「立派なお髭」があるのだ、魯粛には。
 も幼い頃からの付き合いで、魯粛に対する警戒心が薄い。
 女の口説き方なんぞを話題に出してきた辺り、何も企んでいないとは言い切れない。単に呂蒙をからかうためだったとしても、に何かしてくるかもしれない。その可能性が思考を狂わせる。
 ふと冷たい手が頬を撫でた。
「・・大丈夫です、呂蒙様。わたしは呂蒙様だけのものですから」
・・」
「お前たち、そういうのは屋敷でやれ!」
 見てられんと魯粛が諸手を上げ、夫婦は揃って小さく笑った。

- written by 武藤渡夢 -

2015-09-01