伊織からかかってきた電話で突然「結婚する」と言われた俺は、あまりにも衝撃的すぎて声が出なかった。しかしその直後に笑い声が聞こえてきて、今度主演が決まったドラマで、社長令嬢と結婚する青年の役を演じることになった、というのが話のオチだった。エイプリルフールでもないのに、悪い冗談はやめてほしい。
 出会った頃は生意気な15歳だった伊織が、先月でとうとう20歳になった。堂々と酒を飲めるというわけで、今度お互いのスケジュールが合う時に2人で飲みに行く約束をしている。忙しくてなかなか会えなくても、俺達の関係は今も変わらずに続いていた。
 伊織は17歳の頃にプロデビューした後、夏に公開された映画で演じた盲目の三味線奏者の演技が高く評価されて、その年の主演男優賞を獲った。
 熱湯をかけられて火傷を負った自分の顔を、間宮潤が演じる弟子に見られたくなくて必死で抵抗する三味線奏者の姿は、薄暗い部屋の場面でも痛々しさが伝わってきた。俺の知らない「俳優」の伊織が、そこに存在していた。
 伊織が演じた三味線奏者は原作では女性だが、当時17歳の伊織は中性的な外見のおかげで驚くほど違和感なく演じていた。
 昔は目も当てられない棒読み演技だった伊織が、ここまで成長するなんて誰が予想しただろうか。伊織の演技指導を長年やってきた演出家・稲川幸也も受賞の知らせを聞いて涙ぐんでいたらしい。
 もし稲川幸也との出会いがなければ、俳優として活動していくのは難しかったかもしれない。
『そういえば水無瀬、知ってる? 藤村のこと』
「藤村がどうかしたのか?」
『ようやく事務所に所属できることになったみたいだよ。ネットに自分が歌ってるところを撮影した動画を上げてたら、音楽プロデューサーの目にとまって、声をかけられたって』
 藤村はバーテンのバイトをしながらダンススクールに通い、プロになる夢を諦めずに努力していた。元々、歌唱力は研究生時代から伊織にも負けていなかったのだ。藤村が解雇になる前、俺に語ってくれた夢がついに叶った。
 電話の向こうの伊織は、2人で酒を飲む約束を忘れないようにと強く念を押した後で通話を終えた。


***


 街の中にあるビルの高い場所に、篠原がイメージモデルを務めるブランドの大きな看板広告が掲げられていた。
 1年前にプロデビューを果たした篠原は、寺尾プロダクション所属の芸能人では初めて、海外で行われたファッションショーのランウェイを歩いた。その記事が雑誌に写真付きで紹介され、長身で体格もしっかりしている篠原は他の外国人モデルの中でも全く浮いていなかった。
 篠原の華々しい活躍により、寺尾は今まで存在しなかったモデル部門を立ち上げる計画を練っているらしい。
 研究生時代、俺がプロデビューするまで篠原とは最後までセンターを争うライバルだった。リニューアルのため一時閉館した渋谷の某ファッションビルをテーマにしたソロ曲で、篠原は再び東京ガールズフェスタのステージに立った。
 陰のある美形でモデルも兼任という、俺には真似のできない方向からファンを増やしていく篠原に、すごいと思いながらも焦っていた。


***


 先月、街で偶然会った矢野と短い時間だったが喫茶店で話をした。その時に、何年か振りに再会した学生時代の同級生と、良い雰囲気になっていると告げられた。
 矢野は俺と同じくゲイなので、相手は当然男だ。
 お前もすっかり売れっ子になっちまったな、と矢野が苦笑していた。俺は2年前にプロデビューした後、バラエティ番組などで熱湯風呂に落とされたり、全身粉まみれになったり、コントで女装させられたりと、どこかアイドルとは違うような感じの仕事が多い。そんな中でもたまに連続ドラマの3〜4番手くらいの役を演じたり、単独でのCM出演があったりと、有り難いことに仕事は途切れることなく貰えている。
 どんな仕事でも、その経験が俺を成長させてくれる。プロデビューした後でも学ぶべきことはたくさんあるのだ。
 研究生時代にトーク番組に出演した時、俺を気に入ってくれたらしい構成作家の人が、新番組のレギュラーの1人に推薦してくれたこともあった。コメンテーターとして弁護士や芸能リポーターなども出演して、1週間の芸能ニュースを振り返りながら意見を交わしていくスタイルのその番組は、何度かの番組改編期を乗り越えて今でも続いている。俺の大切なレギュラー仕事だ。
「ところで矢野さん、前からずっと思ってたんだけど……」
「ん?」
「矢野さん、本当はサラリーマンなんかじゃないよな」
「……どうしてそう思う?」
「何となく、只者じゃない雰囲気っていうかさ。常に命張ってます! みたいな」
 考え込む俺に矢野は表情を緩めたが、ふいに腕時計を見て椅子から立ち上がった。
「そろそろ時間だ……確かにお前の言う通り、俺はサラリーマンじゃない。嘘をついていて悪かった」
「だよな、やっぱり。でも矢野さんのことだから、言えない事情があったんだろ」
「ああ、でも今だから言う。水無瀬、お前といる時は全て忘れてただの男でいたかった。理由はそれだけだ」
「えっ……」
 矢野はペンを取り出して、テーブルに添えてある紙ナプキンに何かを書いて俺に手渡した。そして2人分のメニューの値段が書かれた伝票を持って、レジへ向かって行く。じゃあな、と言い残して。
 俺が挨拶を返す前に矢野は去ってしまった。溜息をつきながら、手渡された紙ナプキンに視線を落とす。そこに書かれていた聞き慣れない言葉をネットで調べてみると、その説明の中には「密売組織」、「違法薬物」、「おとり捜査」など、映画やドラマの世界でしか聞かないような物騒な言葉が並んでいた。
 検索に使ったスマホの画面を見つめながら、俺はしばらく呆然としていた。先ほど俺が軽い気持ちで語ったイメージは大体当たっていて、矢野は命の危険と隣り合わせの日々を送っていることがようやく分かった。
 紙ナプキンには整った字で、『厚生労働省 麻薬取締官』と書かれている。それが矢野の、本当の職業だった。


***


「水無瀬、おっそーい!!」
 チャイムを鳴らすとすぐにドアが開いて、拗ねた顔の伊織が中から出てきた。約束の時間にはしっかり間に合っているはずだが。
 今日は、前から約束をしていた2人で酒を飲む日だった。送られてきたメールの「ここで待ってる」という言葉と共に書かれていた住所は、どこかの店ではなく伊織が住んでいるマンションのものだった。要するに、宅飲みというやつだ。
 住所を見た時点で伊織の家だと分かったので、俺はアルコールの弱めな缶チューハイとおつまみを買ってきた。しかし伊織が用意していたのは、俺も飲んだことがないような高そうなワインや、美しく盛り付けられた様々な種類のチーズや薄切りのハム、伊織が作ったらしいエビフライや唐揚げなどが大皿に並んだオードブルだった。小さなクラッカーの上に、キャビアらしき食材が乗ったものまである。
「宅飲みってよく分からなかったから、ドラマの共演者の人達に聞いたらこんな感じだよって言われたんだ!」
「いや、これ……宅飲みっていうよりホームパーティーじゃねえのか」
 誇らし気に語る伊織に意見したが、あまり聞き入れられずに強引に椅子に座らされる。そして俺が買ってきた缶チューハイやおつまみは、伊織が用意した豪華すぎる料理と同じテーブルに並べられた。
 テーブルを挟んだ向かい側の椅子に座った伊織が、頬杖をついて俺と目を合わせる。今日の伊織は肩の辺りまで大きく開いて鎖骨が見える、露出の高い服を着ていた。俺に見られることを完全に意識している。
「僕、水無瀬とお酒飲めるのを楽しみにしてたんだ。出会った頃はまだ高校生だったしさ」
「その時は俺だって未成年だったぞ、誕生日が来たら早速飲みに行ったけど」
「芸能人はいつどこで、誰に見られているか分かんないもんね。気を付けないと」
 伊織はわがままで奔放に見えて、実は飲酒喫煙に関してはかなり徹底してそれらを避けていたという。夜遊びなど疑わしい行動も一切取らず、少しでも悪い噂のある人間とは関わらなかった。警戒しすぎて孤立することもあったらしいが。
 この日が来るまでの数年間も俺達はある意味、酒を飲むよりもっとすごいことをしていた。15歳の伊織をベッドの上で貪るように抱いていた19歳の俺は、かなり開き直って大胆だった。セフレの矢野と別れた直後だったせいもあって、性欲を持て余していたのだ。
「そろそろ飲もっか。まずは水無瀬が買ってきてくれたお酒からね」
 伊織はワインのそばに置いてある、桃の缶チューハイに手を伸ばした。俺はカシスオレンジを選んでプルタブを開ける。初めて酒を飲む伊織がどれを選んでもいいように、甘くて飲みやすいものばかり買ってきていた。
「準備できた? じゃあ乾杯しよう」
「何に乾杯するんだ?」
「そんなの当然……僕達の変わらない絆に、だよ」
 目を細めて微笑む伊織と、俺の左手薬指には今でも一緒に選んだ指輪がある。家族になると誓い合った俺達の関係は、最初の頃は何年続くだろうと思っていたが、もう5年目だ。
 伊織は俳優として有名になっていくにつれて新しい出会いも増えて、俺以外の誰かに目移りするかもしれないと考える時もあった。しかし伊織は驚くほどの一途さで、俺にずっとついてきてくれている。
 俺と伊織はプルタブを開けた缶を軽く合わせ、初めて2人きりで飲む酒と共に語り合った。長い時間をかけて積み重ねた思い出と、俺達の未来について。




END


参考/「春琴抄」谷崎潤一郎


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