近所のスーパーに立ち寄り、ガラスの壁で仕切られた喫煙コーナーのドアを開ける。
 すると中にいた他の客が途端に引きつった顔をして、横をすり抜けて逃げるように出て行く。それまでは大声を上げて笑っていた男2人も、こちらと目を合わせたくないのか俯いて無言になった。
 昔からよくある状況だが、何もしていないのに空気を壊して申し訳なくなる。やがて自分1人になった喫煙コーナーのベンチに腰掛けながら、矢野はスーツのポケットから煙草を取り出して火を点けた。
 意味もなく群れるのは苦手だが、本当に心を許した誰かと過ごす時間は好きだ。ここ数年は仕事漬けで余裕がなかった反動か、ある日出会った相手に驚くほど急速に惹かれて本気の恋に落ちた。
 スマートフォンに映し出されたメールの文字を眺め、矢野は思わず表情を緩めた。心身ともに疲労するハードな仕事の後でも、このメールを送ってきた相手の姿を思い浮かべると癒されるのだ。
 明日の休みに会う約束をしているその相手は、6つ年下の19歳……矢野と同じ、男だ。


***


「俺、矢野さんに会えるの楽しみにしてたんだ」
「ああ、俺もだ」
 ハンドルを握っている矢野がそう答えると、助手席にいる水無瀬が嬉しそうに笑う。まるで恋人同士の会話だが、水無瀬との関係はそんなに甘いものではない。
 喫茶店で待ち合わせをして、矢野の車で向かったのはラブホテルだった。先日、ゲイの集まりで知り合ったばかりの水無瀬とは友達でも恋人でもなく、セックスフレンドだ。会うたびに抱いたり抱かれたりするだけの関係。
 個室でシャワーを浴びて深いキスをした後、水無瀬はベッドに仰向けになった矢野の胸元に顔を伏せて、乳首を舌先で転がしたり吸ったりして刺激を与えてきた。快感はそれほど強くないが、水無瀬がそうしてくれているだけで愛しくてたまらない。できれば今すぐにでも水無瀬を押し倒して貪りたい気持ちを、ぐっと堪える。
「矢野さんの身体、すげえ好きなんだよ。胸板厚いし、がっちりしてるだろ。大人の男って感じ」
「そんなふうに褒めてくれるのは、お前だけだ」
「今日こそは……ちゃんと、気持ち良くするから」
 水無瀬は用意していたローションを手のひらに出して、緊張した様子で矢野の後ろの穴に触れた。指先を少しずつ埋めながら中を丁寧に解していく。
 矢野が水無瀬に対する衝動を抑えたのは、いつも自分が抱かれる側になっているからだ。
 見た目はどこにでもいる普通の青年である水無瀬は、ゲイビデオの男優をしている。矢野ほどごつくはないが、裸を撮られる仕事をしているためか身体もそれなりに引き締まっていて、余計な脂肪はついていない。
 逞しい大人の男が好みだという水無瀬は、矢野のことをかなり気に入ってくれたらしい。そしてそんな矢野を抱く側になりたいと、初めてセックスする前に真剣に打ち明けてきた。
 矢野自身はどちらでも構わなかったので迷わず受け入れたが、水無瀬はゲイビデオの仕事をしているという割には、あまり慣れていない印象だった。フェラをしても矢野の快感を引き出すまでに結構な時間がかかり、しかも水無瀬のほうは矢野がキスをしながら少し扱いただけで、すぐに達してしまう。
 手慣れているよりは、初々しいほうが好ましく感じる矢野は水無瀬に失望することはなかったが、ゲイビデオの男優をやっていくのはかなり厳しいのではないかと思った。
 指で矢野の中を解した水無瀬は、勃起した自身の性器にコンドームを被せると正常位で挿入してきた。まだしっかりと解れていなかったせいで痛みを感じたが、矢野は何も言わずに水無瀬が奥へたどり着くのを待つ。
 大柄でごつい体格と強面な顔立ちのせいで、学生時代のあだ名は組長だった。考え事をしながら眉間に皺を寄せて歩く矢野を恐れた通行人は、慌てて避けて道を開ける。暴力や脅しが嫌いな矢野は、そういう扱いは心外だった。
 先日行われたゲイのオフ会でも孤立していた矢野に、唯一笑顔で近づいてきたのが水無瀬だ。機種変更したばかりで使い慣れていないスマートフォンの操作を、分かりやすく説明してくれたのをきっかけに距離が縮まった。外見で差別をせずに好意を示してきた水無瀬に、矢野は早い段階で本気になっていた。しかしセックスフレンドという立場上、なかなか告白できずに身体の付き合いを続けている。
 矢野は密かに、水無瀬が20歳の誕生日を迎えた時に気持ちを伝える決意をしていた。誕生日まであと数ヶ月の間に、もし水無瀬に恋人ができれば何も言わずに諦めて身を引くつもりだ。
 根元まで矢野の中に性器を埋めた水無瀬の腕を引き寄せて、矢野は身体を密着させる。
「……あのさ、矢野さんって下の名前何ていうんだっけ」
「浩樹だ」
「ひろ、き」
 小さく呟かれたそれを聞いて、興奮した矢野は水無瀬の性器を中で無意識に締め付けた。いつも名字で呼ばれているので、下の名前を呼び捨てにされたのが新鮮だった。
「そんな、締められたら俺、すぐいっちまうから……だめだよ」
「我慢しなくてもいい」
「でも、終わりたくないから」
 身体だけの関係のはずなのに、この甘い雰囲気。勘違いしてしまいそうになる。もし自分が水無瀬を抱く立場だったら、今頃何度も体位を変えながら獣のように水無瀬を犯していた。矢野を抱きたいという水無瀬の気持ちを尊重して、ぎりぎりのところで堪えているのだ。セックスをしていない時でも嬉しそうに矢野に懐いてくる年下の水無瀬が、本当に可愛い。激しく愛して夢中にさせたい。仕事でもプライベートでも男に1度も抱かれたことがないらしい水無瀬を、いつかは自分が……。
 ゆっくりと腰を動かし始めた水無瀬と舌を絡ませながら、矢野はじわじわと襲ってきた快感に身を任せる。内側を抉る水無瀬の性器の感覚を楽しんでいたが、今日も結局先に達したのは水無瀬のほうで本人は気まずそうに目を伏せてしまった。


***


 違法な薬物の流通や犯罪を取り締まり、麻薬中毒者が社会復帰できるようにサポートをするのが、矢野の主な仕事だ。
 厚生労働省に所属する国家公務員だが、水無瀬には普通のサラリーマンだと言ってある。水無瀬の前では普段の激務を忘れて、ただの男でいたいからだ。
 仕事帰りに水無瀬にメールを送ると久し振りに会うことになり、いつも通りラブホテルで抱き合う。服を脱いだ後でシャワーを浴びに行こうとすると、正面からしがみついてきた水無瀬に引き止められた。
「どうした」
「今日は……もう少しだけ、あんたの匂いを感じたい」
 同じく全裸になっている水無瀬は甘えるように矢野に密着して離れない。健気な言葉に煽られた矢野は、水無瀬を強引にベッドに押し倒し、逃げられないように両手首を掴んで頭の上で拘束した。そして荒々しく唇を貪ると、水無瀬は息を乱しながら矢野を見上げてくる。その目は潤んでいて、泣いているのかと思った。
「悪いな、乱暴にしちまって」
「矢野さん、俺……いいよ、このまま」
 吐息混じりにそう言う水無瀬の性器はいつの間にか反り返っていて、先走りをこぼしていた。触って、扱いてほしいと訴えるように濡れているそこを、思わず凝視してしまう。矢野の視線を受けて感じたのか、水無瀬はもぞもぞと腰を揺らしている。
「矢野さんは俺に抱かれても、あまり気持ち良くないだろ」
「……そんなこと、ねえよ」
「分かってるから、気を遣わなくていいよ。俺さ、ゲイビデオの男優やってるけど正直全然売れてねえんだ。顔もそれほど良くねえし、セックスも下手くそだし、決まりかけてた仕事も他の奴に持って行かれて……いつクビになってもおかしくないって状況」
 矢野に組み敷かれたまま、水無瀬は自嘲気味に笑った。今までは仕事の愚痴を矢野に吐き出すことはなかったので、かなり追い詰められているのだろう。
 どんなに誘われても、このまま水無瀬を抱く気にはなれなかった。
「お前とは会った時からセックスばかりだったな。でも、これからは俺で良ければ話聞いてやるから」
「え、いいのか……?」
「もっと、お前のことを知りたいんだ」
 ようやく手の拘束を解くと、自由になった水無瀬は矢野の背中に両腕をまわしてきた。肩を震わせて泣き出した水無瀬が落ち着くまで、矢野は何も言わずに待ち続けた。


***


 身分を隠し、密売人と接触して違法薬物を購入するために、矢野は指定された場所へ向かっていた。
 これは正式な捜査方法のひとつで、違法薬物を取引しても罪に問われないために必要な手続きもすでに済ませていた。事前に矢野が手に入れた麻薬取引の許可証には、取引する予定の薬物の種類や量、日付まで細かく書かれている。
 自分は厚生労働省の人間で警察官ではないが、同性とはいえ未成年に手を出している事実にはやはり後ろめたさはある。プライベートでゲイの集まりに参加していたことも含めて。
 それでも、出会ってしまった水無瀬を今更突き放すことはできない。身勝手な事情で打ち明けられないことは色々あるが、水無瀬の支えになりたいと心の底から思っている。
 やがて密売人との取引場所が近づくと、矢野は意識を仕事に切り替えて気を引き締めた。
 ふいに顔を上げて、暗い色の空を眺めた。夜明けにはまだ遠い。




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