レッスンを終えてアパートに帰ると、ドアの前に猫が座っていた。 首輪はしていない。大きな目と耳の、茶色の子猫だ。俺の姿に気付くと、こちらを見上げて想像よりも甘い声で鳴いた。 まるで突然ここに現れて、俺を待っていたかのような何かを感じさせる。少なくとも、雑種の野良猫には見えなかった。 「お前、どこから来たんだよ」 思わず話しかけながらしゃがむと、猫は俺にすり寄り甘えてきた。初対面のはずなのに、俺のことを何故か気に入っているらしい。 なので追い払う気にもなれないまま、再び立ち上がってドアを開けると猫は勝手に中へ入ってしまった。そしていつも伊織が使っている水色のクッションの上に乗り、心地良さそうに身体を丸める。 よく見ると猫の柔らかい茶色の毛が、伊織の髪を思わせた。あいつは昨日から仕事で大阪のほうに行っているので、しばらくは会えない。 そんな伊織の代わりに俺のところへ来たのかと、ありえない考えが浮かんでくる。 猫の姿をスマホで撮影して伊織へのメールに添付して送ると、仕事が終わって暇なようですぐに電話が来た。 伊織いわくこの猫はソマリという品種らしい。俺は猫には詳しくないのでその名前も初めて聞いた。 『何でこいつ、僕のクッションの上に乗ってんのさ!』 「お前のじゃなくて、俺の家のだろ……」 そんな俺の言葉を無視して、送った画像でしか知らない猫に対する文句を延々と垂れ流し続けた伊織は、明日は早起きだからもう寝ると言って一方的に電話を切った。 翌朝ベッドの中で目覚めると、俺の上にあの猫が乗っていた。微妙な重さを感じると思っていたら原因はこいつか。俺が起きたことに気付いた猫は、小さな舌で嬉しそうに俺の顔をぺろぺろと舐めてくる。 特に親切にしているわけでもないのに、ずいぶん懐かれているよな。元から人懐っこい性格なのか。 レッスンに行く準備をして出掛ける時間になっても、猫は例のクッションで丸くなって眠っていたので、そのままにして俺は部屋を出た。 駅に向かう途中で伊織からメールが来て、あの猫はまだいるのか、悪さをしていないかなどと猫のことばかり書かれていた。 あんなに文句を言っていたくせに、いや、実は結構意識しているからこそ気になるのかもしれない。伊織が帰ってきて猫と会ったらどうなるのか。興味半分、もしかすると喧嘩するかもという不安半分という感じだった。 それから数日が経ち、買ってきたキャットフードを食べていた猫が突然何かに反応したように顔を上げ、ドアのほうへと走る。 外に出たがっているのかと思いドアを開けてやると、そのまま飛び出して行ってしまった。 一緒に過ごした時間はそれほど長くなかったが、こうして急にいなくなると途端に寂しさが襲ってくる。 首輪もしていなかったので、このまま飼ってもいいかと思っていたところだった。 「水無瀬、どうしたの」 猫が去っていた方向をぼんやりと眺めていると、いつの間にかそばに伊織が立っていた。 大阪での仕事から帰ってきたばかりらしく、旅行用の大きなキャリーを持っている。 「あ……その、猫が」 「猫? この前送ってきた写真の?」 「いきなり出て行っちまったんだよ、もう戻らねえかも」 自分でも無意識のうちに猫に情が移っていたのか、俺の視界が涙でにじんで揺れた。 今、部屋に戻ったら食べかけのキャットフードが置いたままだ。それを見たら今度こそ泣いてしまう。 「僕がいない間、水無瀬が浮気しないように見張ってたんじゃない?」 「浮気なんかしねえよ」 「ふふ、どうだか……まあ、この僕がいるのに他の奴に心変わりなんかするわけないよね」 自信満々な伊織の言葉が、沈んでいた空気を変える。 夜風になびく茶色の髪や、自然に身体を寄せてくる仕草を見ていると、伊織はまるで猫のようだと思った。 |