今の会社で働き始めて約13年、気が付くと俺は独身のまま35歳になっていた。
 奇跡的に採用された会社はもしかしたらブラック気味かもしれないと思いながらも、この不況の中で転職する勇気もなくひたすらずるずると生活のために働き、20代半ばから付き合っていた彼女とは28歳の時に別れてしまった。毎日夜中まで働いて、電話やメールの返事も疎かにしていた天罰だと思う。
 ああ、俺はこのままじいさんになって寂しく老後を送っていずれ孤独死するのかな。同僚の可愛い子はみんな彼氏持ちか既婚者だ、中年に足突っ込んでる俺が今更新しい彼女なんて……。
 今日もマンションに着くころには日付が変わっていた。駅から5分の道のりがやたら長く感じて、疲れのせいもあるんだろうけど俺もやっぱり年取ったんだな。ため息をつきながらスーツの内ポケットから鍵を取り出そうとしたら、手が滑って鍵を足元に落としてしまった。どんだけ疲れてんだよ。
 拾い上げるために身を屈めた俺の前に、突然誰かの気配を感じた。視線を上げた途端に俺は思わず息を飲んだ。
 正面に立って俺をじっと見つめているのは、北原という隣に住んでいる20歳の大学生。顔立ちの整った、背の高いイケメンだ。黒髪で服装もそれほど派手じゃなく、年齢の割に落ち着いた雰囲気を感じさせる。
 よく一緒にいるのを見かける友人たちも北原に負けず劣らずの美形揃いで、やはり類は友を呼ぶというのは真実らしい。
 ぼんやりとしていた俺より先に鍵を拾った北原は、それを俺の目の前に差し出した。
「今日も残業っすか」
 北原は俺に向けて低い声で、ぼそっと呟いた。テレビに出ている芸能人のような顔立ちなのに、常にテンションが低く喋り方が地味というギャップが面白い。
「まあね、北原くんも今帰ってきたのか?」
「俺はバイトだったんで」
「こんな時間まで大変だね」
「社会人の松岡さんほどじゃねえっす」
 俺は鍵を拾ってくれた礼を言うと、ドアの鍵を開けて中へ……入った直後に急に目眩がして玄関で倒れてしまった。
「松岡さん、大丈夫っすか」
 とっくにいないと思っていた北原が玄関に入ってきて、俺を抱え起こす。みっともないところを見られて恥ずかしい。北原は俺を支えながらベッドまで連れて行き、上着も脱がせてくれた。ベッドに倒れ込んだ俺は、ようやく一息つくことができた。シーツが疲れを吸い取ってくれている気がする。
 そんな俺を北原は、ベッドのそばに膝をついたまま見つめている。さっきから何でこんなに見られているのか分からないが、妙に緊張する。北原が無言なので、沈黙が気まずくなった俺は何とかして話題を探す。
「北原くんのその服、前から思っていたけど……似合ってる、と思う」
「これっすか」
 北原が今着ているグレーの長袖シャツは、春になってから時々着ているのを見かける。首筋や鎖骨が露出しているのがやけに色気があって、つい見てしまうのだ。俺は数年前まで彼女がいたし、決して男が好きというわけでもないのに。
「首まわりの空き具合がその、大人っぽいっていうか」
 俺がそう言うとそれまで真顔だった北原は、口元で両手の指を組みながら意味深な笑みを浮かべた。
「松岡さんから見ればまだガキかもしれねえけど、もう俺は大人っすよ」
「君を子供だと思ったことはない……」
 ふふっ、と目を細めながら小さく笑う北原の本心が全く読めない。確かに北原は俺より15歳も年下だが、子供扱いしたことは1度もなかった。どちらかと言えば、こうして北原の何気ない言葉や仕草に動揺している俺のほうが子供じみている。


***


 玄関で倒れたところを隣に住む大学生が介抱してくれたという話をすると、話の中の北原を勝手に女子大生と勘違いした3歳年上の先輩社員が、興味深々に身を乗り出してきた。しかし男だと分かった途端に冷めた反応になった。
「まあどっちにしても40代手前の俺達に、ハタチの大学生がまともに関心持ってくれるわけねえよなあ」
 先輩の言葉に俺は同意しながらも、心の片隅が痛んだ。昨日の北原は、軽い気持ちで俺をからかっただけに違いない。北原はいずれ可愛い彼女ができて、いやもしかしたらもういるのかもしれない……そして俺と関わったことなんか忘れて若者らしい青春を送っていくはずだ。
 毎日自宅と会社の往復だけで、休日はひたすら寝てばかりの疲れきった俺とは最初から住む世界が違うのだから。昨日俺の部屋で見せた表情に、一瞬でも期待してしまった愚かな自分を忘れたい。


***


 珍しく仕事が早く片付いて、今日は心身ともに調子がいい。久し振りに缶ビールでも買って帰るか。いつもより軽い足取りで近所のスーパーに立ち寄ると、入口付近の喫煙コーナーのドアが開いて若い男が出てきた。
「偶然っすね、松岡さん」
 北原が人懐っこく微笑みながら俺に声をかけてくる。本当にすごい偶然だ。今日は北原との出来事を頭から振り払おうとして、必死で仕事に打ち込んでいた。なのにその努力も空しく、こうして北原の顔を見ただけで俺の心はまた抱いてはいけない感情に染まってしまう。
「え、ああ、どうも」
 今日の北原は赤と黒のチェック柄のシャツに白いインナーを合わせている。昨日の色気のある服も良かったが、こっちも年相応な明るい雰囲気でよく似合う。大学でもモテているんだろうな、と想像した。北原の何もかもが眩しすぎて俺は近寄れない。
 軽く挨拶をして北原に背を向けた俺は足早に店内に入ろうとしたが、後ろから突然腕を掴まれた。振り返ると北原が硬い表情で俺を見つめている。
「機嫌悪いんすか? それとも俺、松岡さんを怒らせるようなことしましたか」
「別に何もないよ、気にしないでくれ」
「俺、松岡さんに冷たくされたまま帰りたくねえっす」
 いつもの低い声で呟いて目を伏せる北原に、俺は心臓がどうしようもなく激しく高鳴るのを感じた。俺達の様子に普通ではない何かを感じたのか、買い物を終えて店から出てくる他の客が、ほぼ全員こちらに注目しながら通り過ぎていく。
「何でそこまで俺にこだわるんだ、別に俺じゃなくても君には友達がたくさんいて、彼女も」
「彼女なんかいねえっすよ、俺は松岡さんのことが好きなんで」
「え、はっ……えっ!?」
 今あまりにも信じられない発言が聞こえた。いや気のせいだ。年のせいで俺は耳が遠くなったのかと思ったが、いくら何でも俺はまだ35歳だしそこまでいくには早いだろう。
「昨日着てた俺の服が似合ってるって言ってくれましたよね、俺は松岡さんのスーツ姿が好きっす。仕事から帰ってきた時の疲れた顔も、社会人って感じで」
「北原くんみたいな若い子が、俺みたいな疲れたおっさんに好きだなんて言うなよ」
「俺は本気の恋愛しかしたくねえっす。それに松岡さんみたいに朝から夜中まで働いているなら、疲れた顔をしていても当たり前だと思います。俺はまだ学生なんで偉そうには言えねえっすけど……」
 俺の腕を掴んでいた北原の長い指が、するりと下に動いて俺の手を握った。いくら突き放しても、その分北原はこちらに踏み込んで追い詰めてくる。ここはスーパーの入口で人目も気になるし、これ以上はまずい。
「と、とりあえず外に出ようか」
 今の何とも言えない空気を変えるためにも、俺は北原を連れて店の外に向かう。その時うっかり肩を抱いてしまったのが間違っていたのか、北原は俺の腕に収まると俯いて熱っぽい息をついた。
 北原からはさっきまで吸っていたらしい煙草の匂いがした。それに加えて感じる、北原自身の匂い。決して不快なものじゃなくて、ずっと無意識に北原を目で追っていた俺だからこそこうして感じているのかもしれない。
 こんな冴えない俺を好きだと言ってくれた北原がそばにいてくれれば、仕事漬けだった俺の味気ない毎日が鮮やかに色付くだろうか。からかわれていたとしても、騙されていたとしても構わない。
 年の離れた北原とは、今までのような健全な近所付き合いがずっと続くと思っていたのに。この匂いに心ごと奪われて、俺は逃れられそうにない。


***


 カウンターの向こうでは若い男のバーテンダーが、シェイカーをリズミカルに振って俺が注文した酒を作っている。
 こうして実際にその様子を見ていると、シェイカーに添える指の位置や振り方などは決まりがあることを初めて知った。テレビや映画でバーテンダー役の俳優が振るのを見た時は、ただ適当にやっているだけかと思っていたが。
 この店は朝から夕方まではカフェとして営業し、そして夕方から深夜までは酒類を提供するバーになる。スタッフは主に若いフリーターや大学生が中心で、男女共にルックスの良さが採用基準になるという噂があるのだ。
 今日初めてこの店に来た俺はテーブル席に行くつもりだったが、偶然空きがあったカウンター席に吸い寄せられるように座った。スタッフ用の黒いTシャツを着た北原が俺に気付いて、微笑みながら迎えてくれたからだ。半年近くこの店で、バーテンダーとして働いているらしい。
 やはりというか北原には熱心な常連客がついているらしく、慣れた手つきでシェイカーを振る姿を何人もの女性客が歓声を上げながらスマホで撮影していた。
 やがて出来上がった酒がシェイカーからグラスに注がれて、俺の前に置かれた。あまり酒に強くない俺が頼んだのは、女性が飲むような甘めのカクテルだ。仕事とはいえ、北原が俺のために作ってくれたと思うと妙に意識してしまう。
 数日前、俺は北原に告白された。背の高いイケメンで、俺よりも15歳も年下の大学生。マンションでは隣に住んでいるとはいえ、俺とは住む世界が全く違う。
 好きだと言われたのはムードの欠片もない近所のスーパーの入口だったが、誘うように腕に触れてくる北原の手や向けられた眼差しにすっかり溺れた俺は、北原からの告白を受け入れてしまった。
 年齢差があるとはいえ、北原は俺よりも恋愛の経験を積んでいるのだろうと思っていた。が、口ごもりながら北原が俺に告げたのは驚きの事実だった。
『俺、今までずっと彼女とか居たことねえっす』
『えっ、嘘だろ……!?』
『なんで嘘なんかつかなきゃいけねえんすか』
 大人びた顔立ちの北原がそう言って拗ねるのが、たまらなく可愛かった。場所がスーパーの裏ではなく2人きりの密室だったら、北原を抱き寄せて俺からキスしていたかもしれない。
 誰とも付き合った経験がないということは、まさか北原はセックスどころかキスもしたことが……いや、そんな。北原なら、若くて可愛い女の子がいくらでも寄ってきそうなのに。
 他の客からの注文を受けて再びシェイカーを振る北原を眺めながら、俺は澄んだ水色の酒をゆっくりと味わった。


***


「松岡さん、俺あと1時間で上がれるんすけど、その……」
 レジで俺にお釣りを手渡しながら、北原は遠慮がちに俺に話しかけてきた。一応、周囲の目は気にしているようだ。
「もし良かったらどこかで待っててもらっても、いいっすか」
「俺はいいけど」
 バーの時間になってから照明が少し落とされた店内で、濡れたような北原の目がまっすぐに俺を捉える。BGMや客のお喋りでざわめく周囲の音が、一瞬だけ聞こえなくなった。


***


 店の近くにあるコンビニや書店で時間を潰しているうちに、バイトを終えた北原からメールが届いた。待ち合わせ場所にした駅に向かうと、先に着いていた北原が改札口で俺を迎えた。
 そして電車が来るまで、周りには誰もいない駅のホームで北原が自身の足元を眺めながら語り出す。
「前に俺、彼女いたことないって言いましたよね」
「ああ」
「昔からずっと、俺には彼女がいるって周りに勝手に決めつけられて。いないって言っても、誰にも信じてもらえねえんすよ。あと、遊んでそうとか美人しか相手にしないんでしょとか言われて、意味分かんねえっす」
 北原には彼女がいると思っていたのは俺もだったから、何も言えなかった。女の子から見ると余計に、芸能人にも負けていない整った顔立ちの北原に対しては気後れするのかもしれない。
「そのうち女の子はどうでも良くなって、男同士でつるんでたほうが楽に思えてきたんすよ。彼女作るのは諦めたけど、でも、松岡さんのことは諦めたくなかった」
 線路の向こう側から、ホームに電車が近づいてきた。
 見た目からは想像できないほど、北原は純粋で素直で可愛らしくて、年上らしく理性を保ち続けるつもりだった俺の決意が揺らいでくる。
「俺、男なのに……松岡さんに受け入れてもらえたなんて、今でも信じられねえっす」
 足元から俺へと視線を移した北原の頬に手を伸ばすと、俺は断りもなく北原にキスをした。電車が来るまでのわずかな時間、舌を使わずに唇を重ねるだけの控えめなキスだった。
 突然の出来事にも拒む様子もなく、目を閉じた北原は俺に身を任せている。バイト中は休憩時間でも吸わないのか、今の北原からは煙草の匂いがしなかった。
 この先、付き合いを続けていくうちに北原とはキス以上のこともするだろう。数日前に北原に告白されるまでは、男とキスすることすら考えられなかった俺の胸にそんな予感が生まれた。




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