通勤途中に現れたスーツ姿の女性に言われるままに黒いワゴン車のドアを開けると、後部座席に1人の青年が腰かけていた。
 顔立ちは恐ろしいほど北原に似ているが、雰囲気は全く違う。中に乗り込む俺を冷めたような表情で見ている。
「突然で申し訳ありません。篠原遥也です、初めまして」
 この前テレビに映っていた元アイドルの人気モデルで、北原の1つ年下の弟。俺は彼の隣に座ると、こちらも簡単に自己紹介をした。俺をこの車に案内した先ほどの女性は、篠原遥也のマネージャーらしい。
 やがて車が動き出した。このまま会社近くまで乗せてもらえるようなので、その言葉に甘えることにした。
「例のツイートの件、大変でしたね」
「俺は顔隠されてたし大丈夫だけど、北原くんが……学校でも色々言われたみたいで」
「松岡さんは兄を本気で愛しているんですか」
 ストレートにそう聞かれて俺はどきっとした。北原を思い出させる、きれいな目が俺をじっと見つめている。
「年の差もあるし最初は悩んだけど、北原くんと一緒にいると毎日が楽しいというか、仕事で疲れた気持ちが癒されるんだ。素直で優しくて可愛らしくて、とにかく好きなんだよ」
「なるほど……そうですか」
 篠原遥也は深く息をつくと、更に話を続けた。
「小学生の頃に両親が離婚して、俺達は父と母にそれぞれ別に引き取られました。それから10年くらい、俺が中学の頃に病気で療養していたのもあって兄とは会っていません。気になってはいましたけど、連絡先も分からなかったので。なのであのツイートの画像で、10年振りに兄の顔を見ました……確かに勘違いされても仕方がないくらい、俺と似ている」
 色々あって弟とは苗字が違うと北原が言っていたのは、そういうことだったのか。篠原遥也に北原の連絡先を教えようかと一瞬考えたが、兄弟とはいえ勝手なことはしないほうがいいと思い、諦めた。
 それに北原がテレビに映った弟のことを語った時、妙に素っ気なかったのも気になる。10年も離れていたせいで、血の繋がった兄弟という感覚が薄れているのだろうか。
 俺の会社のビルが見えてきた頃、篠原遥也が俺の名前を改めて呼んだ。
「これからも兄をよろしくお願いします」
「男同士だけど、俺を認めてくれたってこと?」
「俺の研究生時代の先輩にも、男同士で付き合っている人達がいたので今更抵抗は感じません。それにあの画像の兄は、あなたの隣でとても幸せそうだった。俺が反対する理由はないです」
 数分後、会社近くで車が止まる。どうなるかと思っていたが、いつもの電車通勤よりもずっと早く着いた。
 運転席の女性マネージャーに礼を言って降りようとすると、
「付き合っていくうちに、兄のことがもっと良く分かってくると思います」
「えっ?」
「子供の頃から、兄は自分の『底』を簡単には見せません。松岡さんはまだ本当の兄を知らないのだと、さっきの話を聞いてそう感じました」
 篠原遥也は最後の最後に、胸騒ぎのするような爆弾を俺に落としていった。車を降りて会社に向かう途中、俺の頭はそのことでいっぱいだった。
 俺と付き合うまでは誰ともキスすらしたことがなくて、女の子との交際経験もなかった。そう言っていた北原だが、スーパーの入り口で俺に告白してきた時、気持ちを伝えながらも俺の腕に意味深に触れてきたり、妙に大胆だった。別れてだいぶ経っているとはいえ彼女がいた俺のほうが経験は上であるはずが、気が付くと翻弄されている。
 今の北原が、俺に見せてくれている素直で可愛らしいところは当然好きだ。俺の仕事が忙しくてなかなか時間が合わなくても不満を言わず、メールや電話で応援してくれる。その分、会えた時はたとえ短い時間でも北原と濃密に愛し合う。
 まだ俺の知らない北原の一面を見てみたいと思う反面、少し怖かった。あの北原が簡単には見せないという『底』がどんなものなのか、俺には全く想像できないからだ。


***


「松岡さん、先日は本当にすみませんでした!」
 またしてもアパートの前で俺を待っていた成田さんが、今度はそう言いながら頭を下げた。遠くから彼女の姿を見た途端、また怒られるのではないかと思い、身構えていた俺は予想外の展開に驚いた。
「いや、いいよ……俺だって撮られた時は完全に油断してて、北原くんを守れなかったんだから」
「あれから私、北原くんからどれだけ松岡さんの存在が心の支えになっているかを教えてもらって……それまでは、北原くんはおじさ、いえ、年上の悪い人に騙されてるんだって思い込んでいたので」
 ……まあ、女子大生から見れば35の俺はやっぱりおじさんだよな。改めて言われると悲しいが、これが現実だ。
「男同士で好きだとか付き合うとか、正直よく分からないし理解するのは難しいです。でも北原くんが本気だって言うなら、私は陰ながら応援するしかないです。学校での北原くんは私達が守りますので、お任せください!」
「あ……あのさ、今の北原くんは学校でどのくらいの友達に支えられているのかな」
「え? えっと、私を入れて16人くらいですね。北原くんって何百メートル離れたところから見ても分かるくらいの超絶イケメンだし素直で優しいし、高校時代から友達すごい多いんです! 北原くんを今回の件で悪く言ってるのってせいぜい5人くらいなんですけど、人気のある北原くんに前から嫉妬してたモテない系のどうしようもない奴らですよ」
 疲れ切った様子の北原を見た時から俺は、学校中から酷いことを言われている北原を3、4人くらいの友達が必死で守ってくれているという壮絶な光景を想像していたので、それを聞いて拍子抜けしてしまった。


***


 常連の女性客達からの要望が毎日殺到していたらしく、北原は1週間ほどでバイト先の店に復帰できた。店をそっと覗いてみると、カウンター席の前でシェイカーを振る北原には前と同じようにスマホのシャッター音や歓声が上がっている。
 大きな騒ぎになったものの、北原が解雇されなかった理由が分かる気がした。
 学校のほうも時間と共に落ち着いてきているようで、とりあえずは一安心と言っても良いだろう。


***


 さすがに外でいちゃつくわけにはいかないので、俺は玄関のドアを閉めた後で中に連れ込んだ北原を抱き寄せる。バイトを終えて一服してきたらしい北原とのキスは、煙草の味がした。舌を絡めながら俺にしがみついてくる北原が愛しい。
「考えすぎだと思うけど、俺たまに不安になるんだよね」
「……何でですか?」
「君が、同じくらいの歳の誰かに口説かれて奪われるんじゃないかって」
 俺がそう言うと、こちらを見つめながら北原は目を細めた。セックスの最中に時折見せる、挑発的な笑みと共に。
 もしかすると北原は、普段とは違う一面を少しずつ俺に見せていたのかもしれない。若い身体を味わうことに夢中になっていた俺が気付かなかっただけで。
 北原とは高校時代からの友人だという成田さんも、北原に関しては俺と似たような印象を持っているようだった。表向きは素直で優しい美形、しかしその裏に潜む本当の北原は……。
「確かに俺は松岡さん以外との経験はねえっすけど……どうでもいい相手に流されるほど、弱くないんで」
 北原は視線を外さないまま俺の手を取ると、指に唇を押し当てた。そして温かく濡れた舌の感触。
「松岡さんとの気持ちいいこと覚えたら、もう他の相手じゃ満足できねえから。俺は松岡さん以外の誰のものにもならないんで、安心して俺を独り占めしてください」
 1度は手放そうとしたこの関係は蜜のように甘く、もはや後戻りできそうになかった。どうなってもいいから、底無しの魅力を持った北原の全てを知りたい。




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