始まりの予感 ペン先から原稿にインクを飛ばし、完璧にベタを塗った途端に真横から歓声が上がった。 「うわっ、すっげえ! 今どうやってやったの、もっかい見せて!」 大柄な男が興味深々といった表情で、露伴の手元を急に覗き込んでくる。癖毛なのか、上に向かってはねている前髪に視界を遮られた。 この男は遠慮というものを知らない。その彫りの深い顔立ちもやけに調子の良いところも、あの腹立たしい息子とそっくりだと思った。 康一と並び、イカサマ賭博を持ちこんできた仗助への怒りを抑えた数少ない存在。名前はジョセフ・ジョースター。 仗助の父親であり、人生の中で2度もの大きな戦いを乗り越えたという男。 それだけでも素直に尊敬できる上に、創作にも活かせるような刺激的で面白い話が聞けそうだ。親交を深めておいて損はない。 本来ならば79歳の老人であるはずが、原因不明の何かが起こりその身体は10代後半まで戻ってしまった。それまでの記憶を保ったままで。 血縁者の承太郎や仗助はさすがに動揺を隠せなかったようだが、ジョセフ本人はこの状況を楽しんでいる。元から物事をあまり重苦しく考えない性格なのか、ひとりで 杜王町を歩き回り、承太郎も手を焼くほどとにかくやりたい放題らしい。 ジョセフは本人いわく子供の頃から筋金入りの漫画好きで、漫画家の露伴はそんな彼の興味の対象になったというわけだ。 今着ている黒いTシャツとジーンズは、同じ体格の承太郎のものを借りているらしい。 「仗助って漫画読まないらしくてさ、全然話に乗ってくれないんだよな」 「あいつは僕の作品の素晴らしさが理解できない、ダサい男ですからね。無駄ですよ」 「俺、日本の漢字読めねえから教えてもらおうかと思ってたんだけど」 「僕がお教えしますよ、暇な時になら」 「えっマジで!? さっすが露伴君、やっさしー!!」 笑顔になったジョセフが、突然抱きついてきた。筋肉のついた太い腕からも想像できた通り、その力は強い。勢いで椅子から落ちてしまいそうだ。 こんなことをされても突き離せない自分はどうかしている。正体の分からないこの感情は全て、ジョセフへの尊敬や興味なのだと思い込む。多少強引にでも。 「露伴君ってさあ、好きな人いんの?」 「何ですか急に」 「居ないんだったら、俺が立候補してもいーい?」 「はあ!?」 とんでもない衝撃発言に、思わず声を上げてしまった。確かジョセフは結婚しているはずで、しかも不倫で仗助が生まれた。日本に来たばかりの頃は気まずい雰囲気だった 仗助とは、ようやく打ち解けてきたと言っていたのに。まさしく舌の根も乾かぬうちにこの有様だ。本気かどうかは知らないが、呆れるほど懲りない性格だと思う。 紳士の国と言われるイギリス人とは思えない、この軽いノリをいちいち真に受けていてはキリがない。こちらも軽く受け流すのが一番だ。 「全く……仕事場を見学したいって言うから連れてきたのに、目的変わってますよ」 「もう目的は果たしたからいいの!」 男相手なら不倫にはならないと考えているのかどうか、ジョセフの真意は謎に包まれている。しかしここまで来て、自分自身のことも分からなくなっていた。 ジョセフの昔話が知りたいのなら、今にでもスタンドを使ってその記憶を読めば済む話だ。わざわざ本人の口から語られるのを待つ必要はない。 それを実行する気にはなれないのが不思議だった。 もしかすると自分は、ジョセフのことが気になっているのではないかと思った。穏やかな79歳の時とは全然違う性格なのに。 「俺ってさあ、君みたいなプライド高い子っていじめたくなっちゃうのよーん」 白い歯を見せながら笑うと、ジョセフは露伴の耳に唇を近付けて舐め上げた。柔らかく濡れた舌が動くかすかな音や感覚に、身体をびくっと震わせる。 「……ジョースターさん!」 「あらら、感じちゃった? びんかーん!」 露伴が見せた反応が面白かったのか、ジョセフはそう言って笑った。こちらが強く出られないのをいいことに、調子に乗っているのだ。 しかも見れば見るほどジョセフは、 息子である仗助に似ているので複雑な気分になる。あの忌々しいくそったれ馬鹿が、とここには居ない仗助の顔を思い浮かべると胸の内で罵った。 「もっと遊びたいんだけどさあ、そろそろホテルに帰るわ」 ジョセフは露伴の額に唇を軽く押し当てると、身体を離した。一気に緊張の糸が解れる。 「ひとりでうろうろすんじゃねえジジイ、って承太郎が怒るんだよね。こーんな怖い顔してさあ! やれやれだぜって言いたいのはこっちだっつーの! ねえ露伴君!」 指で両方の目尻を引っ張り上げながら、ジョセフは大げさ気味に怖い顔を作って見せた。微妙な出来の声真似に、うっかり吹き出しそうになってしまう。 どう考えても、あの承太郎に関してそこまで言えるのはジョセフだけだと思う。この調子なら本人を目の前にしても、臆せずに同じことをやるだろう。 大柄なジョセフが玄関で身体を丸めながら靴を履く。そんな様子を眺めていると、履き終えてこちらを向いたジョセフと目が合った。 「また会ってくれる?」 「僕は構いませんが、ジョースターさんは大丈夫なんですか」 「承太郎のこと? まあ何とかなるでしょ!」 先ほど怒られるだの何だのと言っていたばかりなのに、恐ろしいほど前向きだ。むしろそこまでジョセフに会いたいと思われているのは、悪い気分ではない。 「今度は僕が……」 「え?」 「いえ、何でもありません」 ジョースターさんが泊まっている部屋に行きます、という言葉が出てきそうになり、露伴は我に返ってそれを飲みこんだ。考えすぎかもしれないが、ジョセフの部屋に ひとりで行ってしまったら、もう戻れない気がした。物理的な問題ではなく、今までの自分に。 |