Harlem 「僕がこうして、夢を叶えてここに居られるのは全てあいつのおかげなんです」 「あいつはいつも僕を子供扱いするんです。おかしいですよね、僕はひとりでも生きていける大人なのに」 わがままで変わり者として有名な岸辺露伴が、こんなに穏やかな表情で語る、美しく清らかで、そして誰よりも大きな存在。 閉ざされた空間の中に立つ、色白の細い身体。常に寄り添う愛犬を撫でるしなやかな手。 自分の元を訪れた者を迎える時の、優しい微笑み。目の前に居なくても、恐ろしいほど鮮明に思い出せる。 皆であの小道に集まっていると、露伴はいつも彼女の隣に居る。触れるか触れないかの、微妙な距離で。 「言わねえのか」 「何をです?」 「後悔するぞ」 「……あなたの言ってること、時々よく分からないですよ」 目を細めて微笑む露伴を見て、軽く息をついた。あの場所で、共に過ごせる時間は永遠ではないことを分かっているのだろうか。 その胸にしまいこんでいる気持ちは、別れの瞬間を迎えても封じたままか。 露伴を見ているだけで分かる。彼女の前では強がっているくせに、本人が居ないところでは大切な宝物のように語っている。 自分だけのものにしたいとか、誰にも触らせたくないとか、そんな俗っぽい感情とは違う。だから、易々とは言い出せないのか。 そして彼女は多分、露伴が抱く想いには気付いていない。 小道を訪れた直後に、首から血を流している犬がこちらに駆け寄ってきた。その頭を撫でてやると尻尾を大きく振りながら承太郎の手を舐めた。 「アーノルドは、承太郎君のことを気に入ってるのね」 少し遅れて、その声の主が現れた。杉本鈴美。昔、その命と引き換えに幼い岸辺露伴を殺人鬼から守った女。 この町で、承太郎を君付けで呼ぶのは鈴美だけだ。もし生きていれば、彼女は承太郎よりも年上になる。今の姿は命を落とした16歳のままだが、普通に歳を重ねた鈴美も見てみたかった。想像よりもずっと、いい女になっているだろう。 「どうしたの?」 鈴美と視線が重なり、承太郎は帽子のつばを下げた。 「承太郎君って、よくここに来てくれるわよね」 そう言うと鈴美は、塀に背を預けて立つ。 「ああ……そうだな」 「前はおじいちゃんと一緒だったけど、最近はひとりなのね」 ここに初めて来た時は、赤ん坊を抱いた祖父を連れていた。祖父も鈴美のことは気に入っているらしく、普段からよく話題に出す。 「俺とふたりきりだと、落ち着かねえか」 「ううん、そんなことないわ……あなたの匂い、好きなの」 「匂い?」 「煙草と、海の」 鈴美の視線が、遠くを見るものに変わった。確かその方角には、承太郎もよくひとりで向かう海がある。 この場所に長く縛られている彼女は、同じ景色しか見ることができない。 鈴美の正面からすぐ隣に移動した承太郎の肩に、かすかな重みが乗った。寄り添い、距離を詰めてきた鈴美の存在を感じる。その生々しさは、この世で生きている人間に限りなく近いものだ。彼女が幽霊であることを忘れそうになる。 「俺の匂い、感じるか?」 「……ええ」 「遠慮しなくていい、もっとそばに」 「これ以上、そばに?」 見上げてきた鈴美の肩を抱き寄せ、承太郎はその細い身体を自身の胸元に閉じ込めた。 「承太郎、くん……」 鈴美は抵抗する様子を見せない。ためらいがちに承太郎の腕に触れる手。生前の、大切な思い出が詰まっているという指輪。それは露伴絡みのものだと、以前来た時に聞いていた。 今の状況は、客観的に見ればいかがわしいかもしれない。男の次は、幽霊とも不倫をするのか。 日本に来てから、普通ではできない経験ばかりしている。しかし、こういうのも悪くはないと思ってしまう自分は、救いようがないほど歪んでいるのだろう。露伴が密かに大切に想っている女を相手にしていても。 「急に、悪かったな」 そう言って承太郎は腕の力を抜いたが、鈴美は離れようとしない。 「……あたし、自分が分からない」 「ん?」 「いきなり抱き締められて、びっくりしたのに。こうされてるの、嫌じゃないの……ねえ、どうしてかな」 胸元に額を埋めたまま問いかけてくる鈴美に、承太郎は答えが出せない。 口を閉ざしたまま鈴美の髪に触れた時だった。少し離れた場所から、ばさっという音が聞こえた。顔を上げて視線を動かすと、そこには露伴が居た。 足元にスケッチブックを落として、呆然とした表情でこちらを見ている。こうなる可能性が全くないとは思っていなかったが、やはり気まずい。 しかし鈴美に対して、本心を隠し通す露伴がもどかしいのも事実だった。 「ああ……来てたのか」 「来てたのか、じゃないでしょう!? 鈴美にまで手を出すなんて!」 「何だ、嫉妬か? あんたも混ざればいいじゃねえか」 困惑する鈴美を、承太郎はこの状況でも抱き締めたまま離さなかった。まるで露伴に見せつけるように。 すでに自分は露伴と周りには言えない関係になっているが、彼が鈴美に惚れていても承太郎は気にならない。鈴美が幽霊だからという理由ではなく、露伴が承太郎と鈴美、それぞれに向けている想いの種類は違う気がするからだ。人の気持ちには敏感なほうではないので、それを上手く説明するのは難しい。 「だめよ承太郎君……こんなこと」 「さっきまでは大人しかったのに、どうした?」 囁きながら露伴の表情をちらりと見ると、彼は明らかに苛立っていた。承太郎の腕の中に居る鈴美に鋭い視線を向けている。 「僕が来るまでは承太郎さんに好き放題されてたってわけか」 「違うの露伴ちゃん、話を聞い……」 それを言い終わらないうちに、承太郎は鈴美の首筋に唇を押し当てた。触れた部分から、動揺が伝わってくるようだった。 火に油を注いだ張本人の承太郎の元へ、露伴が無言で近づいてくる。 「僕にもしてくださいよ……いつもみたいに」 低い声で誘う露伴に、承太郎は望み通りのくちづけを与えた。 そうしながらも、鈴美を解放せずに承太郎の手は背中や腰を撫で続ける。自分にこんな器用な真似ができるとは思わなかった。 キスに応える露伴、そしてされるがままの鈴美。両手に花、という言葉が頭をよぎり、たまらない気分になった。 |