脱出不可能





誰にも邪魔されず、好きな音楽や本を楽しむことができる眺めの良い部屋。わたしだけの特別な場所。
それを望むのは贅沢だろうか? 死んで魂だけの存在になった今は地位や名誉には何の意味もなく、紙切れ1枚分の価値にも届かない。とにかく欲しいのは心の平穏、それだけだ。
「仕事」を終えて、休める場所を探すために町を歩く。さすがに日曜のせいか人通りが多く、ぶつからないように進むだけで一苦労だ。
人間が生きていくためにはルールがあるように、幽霊のわたしにも厄介な制約がある。法律に縛られていないとはいえ、何でも好き放題やれるわけではない。むしろ人間以上に面倒事は多い。
まあ……生きていた頃のように町で見知らぬ奴に声をかけられて、時間を無駄にすることがなくなったのは幸いだが。

「ちょっと、そこの君!」

そうだ、こんなふうに勧誘だか何だか知らないが馴れ馴れしい態度で呼ばれるのが腹立たしかった。今もどうせ、頭の軽そうなナンパ野郎が通りすがりの女にでも絡んでいるのだろう。 やはり休日は人が多くて煩わしい。

「おい、このぼくがわざわざ声をかけてやってるんだぜ。無視するんじゃあないよ」

高慢な台詞を吐きながら、ひとりの男が急にわたしの目の前にまわり込んできた。
細身の若い男だが、その変わったセンスの服装が気になる。引き締まった腹や腕 を堂々と露出し、頭にはスーパーで売られている寿司の間に挟まったアレに似た形のヘアバンドを着けていた。間違っても、関わりたくない種類の人間だ。
そんなことよりも、この男にはわたしの姿が見えているようだ。あの女坊主と同じように、普通の人間にはない何かを持っているのか。そうでないとおかしい。
男はわたしの全身を無遠慮に、じろじろと舐めるように見つめてくる。理由は分からないが、妙な胸騒ぎがした。わたしは本当にこの男と会うのは初めてなのか? 名前も 何もかも記憶にないのに、もしかすると深い因縁でもあるのか?

「素肌にネクタイなんて君、面白い格好してるね。流行りに振り回されて逆に無個性になるよりはいいけどさ……分かるよ、君の気持ち」

こいつにだけは言われたくない、一緒のカテゴリに入れられるのも不快だ。胸騒ぎは治まるどころか酷くなってきているので、さっさとこの場を去りたい。
男の横を通りすぎて先を急ごうとした途端、あやうく腕を掴まれそうになった。わたしは反射的に身を翻し、伸びてきた男の手を避けた。

「オレに触るな!」

わたしが上げた叫びに、男は唇を薄く開けたままこちらを見ている。生きている人間に触れられるのは危ない。手足がばらばらになるイメージが頭に浮かび、冷や汗が出た。
固まっていた男が、にやりと笑う。何だその反応は。

「そう言われるとますます興味持っちゃうんだよなあ〜! ぼくに触られると何かあるのかい?」
「触るなと言ってるだろう、聞こえないのか!」
「ふふっ……後でぼくにも触らせてあげるよ、それなら文句ないよな」

周囲に視線を走らせると、何故かわたしと男の周りから人が消えていた。まるで違う空間に紛れこんでしまったかのように、気味が悪いほど静まり返っている。 そしてとうとう路地裏に追い詰められた。
隙をついて逃げようとした時、男の傍らに何かが浮かび上がるのが見えた。その正体を確かめる前に、わたしの意識はそこで途切れた。


***


強い振動が全身を揺らして我に返った。「仕事」を終えて乗った電車の中はまばらに人の気配を感じるだけで、うるさい子供の喚き声も聞こえない。
さっきのは夢だったのか、それとも幻覚か。幽霊の身で夢を見るのも不思議な話だが、どちらにしても嫌なものを見てしまったことには変わりなかった。初めて会ったはずの あの男に強い恐怖を感じていた。あれほど目立つなら、1度でも会っていれば忘れられない。わたしが死んだ理由と共に、記憶から消えてしまったのだろうか。
次の駅で降りるために、席から立ち上がったわたしは息を飲んだ。向こう側から通路を歩いてくる、大きなスケッチブックを肩から下げたひとりの男。服装は違うものの、例の男によく似ていた。 わたしの存在に気付いたらしく、しっかりと視線が重なった。
やがて男の歩みが目の前で止まる。今度こそ、いつかは消える夢でも幻覚でもない。




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2011/11/1