氷菓





扉を開けると、そこは異国の香りがした。
見慣れた町とは違う空気を感じるこの店に、もう何度訪れたことか。放課後でも休日でも、何に導かれる ように足を運んでしまう。
心の拠り所であった兄を失って以来、頼れる存在を無意識に求めていたのかもしれない。 店主であるトニオが作る、料理のひとつひとつがとんでもなく美味だということに加えて、 世界中を旅し、自分で店を持つほど人生経験が豊富な年上の男という存在に、惹かれるものを感じていた。

「ワタシの味がするデショウ、億泰サン」

暗闇の中で、トニオの声が聞こえる。ここはトラサルディー店内で、明かりが落とされているわけではなく、 タオルか何かで億泰だけ目隠しをされているのだ。

「何も見えねえし」
「それがいいんデスよ、ワタシの指の感覚だけを感じてクダサイ」

トニオの言うとおり、確かに店内からは他の客の気配は一切感じなかった。遮られた視界の中、口内に浅 く入れられているトニオの指が動き、億泰の歯列や舌に触れた。 不意に指が引き抜かれると、飲み込めていなかった唾液が濡れた音を立てる。厨房で繊細に動くあの指が 、今は億泰の口内を探るように動いていた。

「客がきたらどーすんだよ、こんなことしててよお」
「もう閉店の時間は過ぎマシタ」

トニオにこのような趣味があるとは思っていなかったが、不思議と違和感や嫌悪感はなかった。難しいこ とを考えると頭痛がしてしまうのだが、たぶん自分はこの男に特別な好意を持っているのかもしれない。
元からイタリア人のセンスは好ましく思っていた。初めてこの店に足を踏み入れた時も、自分の好みにぴ ったりとはまる空間に、思わず感嘆の声を上げた。
スタンドの力を使った不思議な料理には驚かされたが、それ以来億泰はこのレストランにひとりで足を運 ぶようになっていた。 前に仗助も誘ってみたが、初対面の日に厨房の掃除をさせられたり、怖い目で睨まれたりしたことがトラウマになっているら しく、引きつった顔で拒まれてしまった。
店を訪れるたびにトニオは、億泰を快く迎え入れてくれた。もしかすると気に入られているのかと、 自意識過剰ながらそう思った。

「あんたは、俺なんかでその、感じちゃったりするわけ?」
「どちらかといえば、億泰サンを感じさせるほうが好きかもしれマセン」

再び入りこんできたトニオの指は、冷たくて甘い味がした。前に食べさせてもらったことのある、バニラ の味だった。つられて舌を動かすと、同調するようにトニオの指も動いた。

「億泰サンのために作ったアイス、今日はワタシの指から味わってクダサイ」

耳元で囁かれた声はいつもより低く、ゆっくりと響いた。指のかすかな温度で溶けてしまっているが、億 泰はそれを余すことなく舌を動かして舐め取っていく。
指からアイスの味がしなくなる頃に、トニオは指を引き抜いて再びすくい取ったアイスを億泰の口に運んでくる。 指先から溶けて溢れる甘い雫も、残さずに舐めて味わう。用意されたアイスがあとどのくらい残ってい るのか分からないが、全部舐め終えるまでこの行為は続いていく予感がした。
もう何度繰り返されたのか分からなくなった頃、唇に感じたのは指よりも柔らかく温かい何かだった。知らない感覚の 正体が分からずに激しく動揺したが、それはすぐに離れていき深く考える間もなかった。

「今の、何だったんだ?」
「秘密デス」
「気になるだろうがよお」
「億泰サンがワタシをもっと好きになってくれるまでは、お預けにしマス」

どこか胸騒ぎを感じさせるような意味深なことを言った後、トニオは指を差し出してこなくなった。アイスはもう なくなってしまったのだろうか。

「いつか億泰サンを、ワタシの故郷に連れて行きたいと思っていマス」
「イタリアに?」
「はい、この店の雰囲気や料理を好きになってくださった億泰サンなら、きっと気に入ってくれるはずデス」

トニオの話を聞いて、テレビや雑誌でしか見たことのないイタリアの風景を頭に思い描いた。
1度は行ってみたいと、ずっと思っていた。しかし億泰には、この町を離れられない理由があった。

「誘ってくれんのは嬉しいけどよ……俺の親父が身体弱くて、面倒見なきゃいけねえんだ」

父親に関する詳しい事情は、トニオにはまだ話していなかった。本当のことを告げれば長くなる上に、反応が怖い。
仗助は何もかも知っていながら付き合いを続けてくれているが、あまり人に広めたくはない。 どんな姿になっても父親であることには変わらず、今ではたったひとりの家族だ。何日も放っておくわけにはいかない。
億泰がそう答えると、トニオの気配が目の前から消えた。見えなくても分かる。まさかこのまま放置されるのではと思っていると、 少し時間が経った後で目隠しが解かれた。視界に突然差し込んできた店内の明かりが眩しい。
久し振りに顔を見たトニオはステンレス製の、携帯できる大きさのポットを持っていた。笑顔で手渡されたそれは中に何が入ってるのかは分からないが、 ほんのりと温かい。

「ワタシの特製スープデス、億泰サンのお父様に食べさせてあげてクダサイ」
「え、いいのか……」
「優しい億泰サンのために、少しでもお役に立ちたいのデス」

ポットを抱える億泰の頬に、トニオの大きな手のひらが触れて撫でられる。 目隠しをされていた時とは違う、身も心も委ねてしまいそうなほど穏やかで優しいものだった。




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2009/11/28