My Dear トニオは胸騒ぎがして、食器を洗う手を止めた。 窓の外を見ると薄暗く、いつの間にか雨が降っていた。 もうすぐ時計は5時になる。昨日、億泰からかかってきた電話では、兄の墓参りを済ませた後でこの店に寄ると言っていた。 それからは何の連絡もないので、このまま仕事を続けながら待っていればいい。そう思っていたが、今日に限っては何故か落ち着かない。 億泰は、トニオよりも強いスタンドを持っている。だから、何があっても簡単には……。 窓に当たる雨粒の音を延々と聞いているうちに、やはり居ても立ってもいられなくなった。 全ての食器を洗い終えると、トニオは普段の服に着替えて店を出た。黒い傘を開き、億泰と入れ違いにならないことを祈りながら。 店から数分離れたところにある霊園は、この雨のせいか人の気配を感じない。しかし更に奥のほうへ行くと、人影が見えた。 墓の前で、傘もささずにぼんやりとした調子で立っている学生服姿の少年。トニオは声をかけようとして1歩前に進み出たが、その足はそこで止まった。 雨を降らし続ける暗い空を虚ろな目で見上げ、かすかに口を動かして何かを呟いている。明らかに、いつもの雰囲気と違う。 先ほど感じた胸騒ぎが、再びトニオを揺さぶった。まるで今にもこの場から消えてしまいそうな、そんな予感がする。 もう店に来なくなるかもしれないとも思った。考えるだけで胸が苦しい。 「……億泰サン」 耐えきれなくなり、トニオは少年の名を呼ぶ。声をかけても反応はなかった。 「お兄様のお墓参りの最中に押しかけてしまって迷惑だとは思ったんデスが、何だか億泰サンのことが気になって」 「さっきからうるせえんだよ!」 ようやくこちらを向いた目は、燃えるような怒りに満ちている。トニオは言葉を失った。 数日前は店で出した料理を、美味そうに満面の笑みで食べてくれたのに。一体何が、彼をここまで変えてしまったのだろう。 気持ちが通じ合っていると思ったのは、自分だけだったのか。 「さっき、兄貴が言ってくれたんだよ……もう、俺を置いていかねえって。ずっと一緒に居られるところに連れて行ってやるって。なのに、邪魔しやがって!」 それらの言葉の意味を自分なりに考えたトニオの全身から、血の気が引いていった。 「あなたが見たその方は、億泰サンのお兄様ではありマセン」 「何言ってやがる、あれは俺の兄貴だ! 見てもいねえくせに適当なこと……」 「見ていなくても、ワタシには分かりマス」 少しの迷いもなくトニオがそう言うと、怒りを宿していた目に動揺が走る。そこに涙が浮かんできた瞬間を、トニオは何も言わずに見ていた。 その涙がこぼれ落ちる前に、億泰はこちらに背を向けて走り去った。それを追いかけようとした時、億泰が向き合っていた墓のそばに誰かが立っていること に気付く。その姿には見覚えがあった。 直接会ったわけではないが、前に億泰が見せてくれた写真でその存在を知った。しかしもう、この世には居ないはずの人物だ。 億泰とは違うデザインの学生服を着た青年は、冷めた目でトニオを見据えたまま動かない。先ほど億泰が会っていたという相手は、彼のことか。 億泰の涙を思い出して気を緩めたトニオの足元の辺りを、無数の何かが囲んでいた。それらはそれぞれ、銃を構えた小さな歩兵達だった。全ての銃口が、トニオに 向けられている。 そして再び青年の顔を見ることすらかなわぬまま、トニオの全身から血が噴き出す。 手から離れた傘が雨に濡れた地面に転がっていくのを、トニオは荒い呼吸を繰り返しながら見つめていた。 薄い色のシャツが、噴き出した血で真っ赤に染まっている。身体中の激しい痛みに耐えながら、倒れてしまわないように両足に力を入れて立ち続ける。 目の前には歩兵達だけではなく、攻撃用のヘリコプターや戦車まで現れた。それらは本物とは比べ物にならないくらい小さなサイズだが、一斉に攻撃されれば今度こそ 危ない。 切れた口の中では、ずっと血の味が広がっている。トニオは歩兵達を越えた向こう側に居る青年に視線を向けた。見れば見るほど、億泰が持っていた写真の人物に似ている どころか、全く同じ顔だ。しかし、何かが違う。 「あなたは、億泰サンのお兄様ではありマセン」 億泰にも告げた言葉を繰り返すと、青年は眉根を寄せてこちらを見る。 「確かに見た目は同じデスが、もし本当のお兄様なら自分の命と引き換えにしてまで守った弟を、連れて行こうとはしない。ワタシだけデスか? そう思うのは」 歩兵達が、再びこちらに銃口を向けて狙ってくる。トニオのスタンドは、相手を攻撃することも自分の身を守ることもできない。明らかに不利なのは承知の上で立ち向かおう としている自分は、愚かだろうか。 傷付いた身体を冷やし続ける雨の中、トニオは青年の元へと走り出した。青年の合図で、再び攻撃が始まる。手足を撃たれ、斬りつけられても、トニオは立ち止まらない。 本当はすでに動ける状態ですらなかったが、強い気持ちだけがこの身体を前へと進ませていた。 「お前は誰かのスタンドか? 本体はどこに居る」 ようやく届いた青年の肩を掴み、問いかけた。この町には、成仏することができず同じ場所に留まっている少女の幽霊が存在する。しかしこの青年は、その類ではない。 青年はトニオを射抜くような目で睨むと突然、青白い炎に包まれて姿を消した。周りを囲んでいた歩兵達やヘリコプターもほぼ同時に居なくなり、静かになった。 「終わった……のか」 小さく呟いたトニオは意識を失い、そのまま地面に倒れ込んだ。 目を覚ました時、見慣れぬ部屋のベッドの中に居た。身体を起こした途端に抱きついてきたのは、顔中を涙で濡らした億泰だった。 そういえばあれほどの傷を負ったはずなのに、何故かどこも痛みを感じなかったので不思議に思っていると、億泰の隣に立っている仗助の存在に気付いた。彼が治してくれ たのか。 後から聞いた話では、あれから少し経って霊園に戻ってきた億泰が倒れているトニオを発見して、傷を治せる仗助の元へ連れてきたらしい。 ここは仗助の部屋だ。こんなことでもなければ、多分一生出入りする機会はなかっただろう。 「俺……あんたが死んじまったら、どうしようってずっと思ってた。全部俺のせいだ、ごめんなトニオ……」 肩と声を震わせながら、更に強くしがみついてくる億泰をトニオは愛しく思った。1度は突き放されたことなど、消し飛ぶほどに。 「最近、兄貴の夢をよく見てたんだ」 雨上がりの空の下、コンクリートにできた水たまりを避けながら、億泰がトニオの数歩先を歩いていく。こちらからは、どんな表情で語っているのか全く見えない。 「兄貴にはよく厳しいことを言われてたけど、俺の心の支えで道しるべでもあったんだ。だから兄貴が居なくなって親父の面倒もひとりで見てるうちに、もしまだここに 兄貴が居てくれたらって、思うようになっちまって……」 歩いていた億泰の足が、急に止まった。 「そのうち兄貴が、俺を呼んでる気がしてさ。ついて行けたら、寂しい気持ちにならなくて済むんじゃねえかって。今思えば俺、どうかしてたよな」 億泰が霊園で走り去った後に現れた青年は、結局何だったのか。スタンド使いが散らばっているこの町では、いつ何が起きてもおかしくはないのだが、ただの幻覚にしては 生々しすぎるほどの存在感だった。今でも正体は分からずにいる。 「兄貴の分まで生きるって決めてたのに……それに、トニオにも酷いこと言っちまった。さっきの怪我も、俺が原因なんだろ? 何となく、そんな気がすんだよ」 億泰は、あの青年とトニオの戦いを知らない。知る必要はないと思った、そのほうがいい。 「ワタシではお兄様の代わりにはなれないかもしれマセンが、寂しい時に少しでも支えになれたら嬉しいデス。いつでもワタシを頼ってクダサイ、億泰サン」 「トニオ……」 こちらを振り向いた億泰の目には、うっすらと涙が浮かんでいて今にも泣き出しそうだった。 「もし時間があるなら、ワタシの店に来まセンか? 億泰サンの好きなもの、作りマスよ」 身体の隅々までしみこむような温かい料理も、とろけるような甘い菓子も。 全て、この手で。 |