異国の狼 授業中は睡魔に襲われていたはずが、休み時間になると何故か突然目が覚めた。伏せていた机から顔を上げようとした億泰の耳に、近くの女子達の話し声が聞こえてきた。 「焦らし、ってたまには必要じゃない?」 「何それ」 億泰もそれを聞いて謎だったので、とりあえず寝ている振りをして聞き耳を立ててみる。 「どっかで聞いたんだけど、男って簡単に手に入るものってすぐに飽きちゃうんだってさ」 そんなもん人それぞれだろ、と声に出さずに突っ込んでいるうちにチャイムが鳴り、クラスメイトが自分の席に戻っていく足音で周囲が騒がしくなった。 次は数学の授業だ。始まって数分で再び眠くなるのは確実だが、とりあえず教科書とノートだけは用意して机に広げる。定年間近の数学教師がドアを開けて入ってくるのを眺めながら、先ほどの会話を思い出す。 要するに相手をたまに焦らしてもったいぶるのが良い、という解釈をした。トニオと初めてキスをしてからしばらく経つが、それを拒んだことはない。むしろそうする理由が見つからなかったのだ。 しかし向こうは経験豊富な大人だ。いつまでも子供の相手をしているとそのうち飽きられるかもしれない。男同士でキス以上の行為をどうやってするのか想像できず、教えてくれそうな相手も思いつかなかった。 あの変わり者の漫画家なら何か知っていそうだが、以前酷い目に遭わされた上に結局ろくなことにならない気がする。せめて兄が生きていれば。 「いらっしゃいマセ、億泰サン!」 放課後に訪ねたトニオの店に客の姿はなく、用意されているテーブルや椅子は空いたままだ。厨房から嬉しそうに歩み寄ってきたトニオに、片手を軽く上げて挨拶する。 「腹は減ってねえんだけどよ、その……あんたに会いたくなって」 「億泰サンならいつでも大歓迎デス、さあ座ってクダサイ」 客用の椅子を引いて迎える優しい男の言葉に甘えて、座り心地の良い椅子に腰掛ける。やはりこの店の雰囲気は好きだ、日本の町にいながらもイタリアの匂いを感じさせる全てがたまらない。 新作デザートの試食をして、そのまま雑談をする。オチが弱いと思う話でも笑顔で聞いてくれるのが嬉しい。が、今日ここに来た本当の目的を思い出すと急に落ち着かなくなった。 「どうしマシタ?」 「え、ああ、なんでもねえよ……」 手に持っていたスプーンを皿に置き、視線をさまよわせる。焦らす、という言葉が延々と頭の中を巡り、そのうち意味不明なごちゃごちゃとした黒い塊となって億泰を襲う。 こちらが急に黙ったのをきっかけに沈黙が流れ、そばの椅子に腰掛けていたトニオが億泰の名前を甘い声で呼びながら唇を寄せてきた。これはいつもの展開だ。学校の女子達の会話を再び思い出して我に返る。 「あっ、今日はその、だめだって」 さりげなく身を引こうとしたがバランスを崩す。店内の洒落た雰囲気に似つかわしくない大きな音を立てながら、億泰は椅子ごと床に倒れてしまった。 「大丈夫デスか!?」 「いってえ……ん、大丈夫だぜ」 これくらいの痛みでどうにかなるほど、やわな人間じゃない。椅子から立ち上がって顔を覗き込んでくるトニオに心配をかけないように、笑いながら手を振る。 これまでの葛藤を振り切るように、億泰はこちらからトニオにくちづける。こんなに積極的になったのは初めてで、我ながら驚いた。唇が離れるまでトニオは固まったままで、目を閉じるのも忘れていたようだ。 「あんたとのキス、やっぱり好きかもしんねえ」 やはり自分には駆け引きだの小細工だの、そういうものは性に合わないようだ。 どの時点でトニオの欲望に火をつけたのかは分からないが、レストランを早めに閉めた彼の住むマンションに連れて行かれて深いキスをされるまでは、あっという間だった気がした。 「億泰サンに嫌われたのかと思って、焦りマシタ」 「嫌ってなんか、ねえよ。あれはなんつーか、その」 「こんなことをして、大人げないのは分かっていマス。でもワタシは本気で」 切羽詰まったような強引なキスに、呼吸が追いつかない。普段の穏やかなトニオとは違う一面を見ている。ここまで熱烈に想われているとは、全然考えていなかった。 イタリア料理店のオーナーではなく、ひとりの男になったトニオは情熱的だった。身体を密着させながら舌を絡めるようなことは、客がいなくても店内ではしてこない。 腹のあたりに硬く膨らんだものが押し付けられてる。同性である自分にはその正体はすぐに理解できた。このままいけば食われるんだろうな、とシンプルな色合いで統一された寝室で億泰はぼんやりと思った。どうやら盛大に煽ってしまったらしい、異国生まれの狼に。 |