領域 名前を呼ばれて振り向いた途端、頬に何かが突き刺さった。 「あははっ、露伴ちゃんが引っかかったわ!」 露伴の頬に埋まっていた指先をこちらに向けたまま、鈴美が愉快そうに笑う。それを見て露伴はため息をついた。こんな古典的な悪戯に引っかかった自分が情けない。 康一を除いて、もし相手が他の人間ならば黙っていなかったが、鈴美に対しては強い態度に出ることができない。彼女のおかげでここまで生きてこられて、漫画家として 充実した日々を送っているのだから。 小道に通じるコンビニ前は、かなりの確率で鈴美が出没する場所だった。それを分かっていて、暇さえあれば無意識に足を運んでしまう。君に会いにきた、と素直に言えない ので、毎回偶然を装っているが、もしかすると全てばれているかもしれない。 「今週の露伴ちゃんの連載読んだわよ! 次は一体どうなってしまうの?」 「それを言ってしまったら、次は読んでくれなくなるだろ」 「聞いても聞かなくても、ちゃんと読むから大丈夫!」 鈴美は無邪気な調子で、露伴の腕にしがみついた。こんなことを気軽にしてくるのは恋人として付き合っているわけではなく、単に露伴を異性として意識していないからだ。 呼び方ひとつでも、それはよく分かる。鈴美の中の露伴は未だに、『鈴美おねえちゃん』と呼びながら後ろをついてきていた小さな子供だ。成長して20歳になった今でも それは変わらない。 それでも全てが終われば、鈴美は成仏して永遠の別れを迎えることになる。このまま何事も起こらず、ただの幼馴染として見送ってやるのが最も正しく、 綺麗な流れだと思っている。寂しさも何もかも全て隠したままで。 「ねえねえ、またお友達も連れてきてよ!」 「友達? ああ、康一君のことか……今度誘ってみるよ」 「他にも居るわよね、仗助君とか!」 「……あのくそったれがいつ、僕の友達になったんだ」 「町の中で一緒に歩いてるの、よく見かけるわよ」 仗助を露伴の友達だと信じて疑わないような鈴美の純粋な微笑みを見て、困惑のあまり頭痛がしてきそうだった。 仲が良いから一緒に歩いているわけではなく、偶然遭遇した挙句に罵り合いになっているだけだ。 できれば会いたくないし、向こうも絶対にそう思っている。 しかしバスの中でもカフェでも、露伴が行くところにどこでも現れているような気がして不愉快だ。 「あいつとは友達なんかじゃない、妙なことを言わないでくれ」 「どうして仗助君の話になると、そんなに機嫌が悪くなるの?」 「君はあいつがどれほど腹の立つ憎たらしい奴か、知らないだけだ」 「この前少し話をしたけど、そんなに悪い子じゃなかったわよ」 以前、仗助と例の小道に迷い込んだ時に鈴美が挨拶ついでに仗助とふたりで話をしていたのを、すぐそばで露伴も見ていた。 自分と親しい人間が、嫌いな奴と楽しそうに会話をしている様子に、複雑な気分になった。 「露伴ちゃんがあまりにも刺々しい態度を出すから、仗助君だって怒るんじゃないの」 「そんなの知るか! 人の忠告も聞かない、言うこととやることが全然違う嘘つき野郎のことなんか!」 「何があったか詳しくは分からないけど、露伴ちゃんは大人なんだから少しは譲歩しなきゃ」 もっともらしいことを言われて、露伴は言葉に詰まった。見た目は16歳のままとはいえ、鈴美は露伴よりも人生経験を重ねているため、言うことに説得力がある。 そして、敵意は口に出さなくても相手に伝わってしまうものだと言われた。 それにしても危うく、仗助のせいで鈴美と気まずくなるところだった。あのくそったれはどこまで人のことに割り込んでくる気なのかと思い苛立ってきた。 とりあえず話題を変えたほうがいい。まるで鈴美が仗助を庇っているように感じて嫌な気分になる。認めたくないが、これは嫉妬なのかもしれない。 「そういえば僕の漫画の続きを知りたいって言ってたよな」 「え、でも露伴ちゃん、あんまり言いたくない感じだったし……」 「いいんだ、君なら何があっても僕の漫画の読者でいてくれるんだろう?」 露伴は笑みを浮かべて、鈴美を真っ直ぐに見つめた。こうしていると周囲の煩わしい騒音がかき消されていくような気がした。鈴美は何も言わずに露伴を見上げたまま、 小さく頷く。最初からこんな雰囲気ならば、ずっと穏やかな気持ちでいられたはずだ。 鈴美はこの周囲から離れられないので、小道にでも入って落ち着いた場所で話そうとした時、騒々しい足音と共に誰かが露伴にぶつかってきた。突然のことでバランスを 崩し、身体が前に傾いていくのを感じた。正面には鈴美が、と思った頃にはすでに鈴美の小さな悲鳴を聞きながら地面に倒れ込んでいた。 何がどうなったのかは分からないが、顔が柔らかいものに包まれているのに気付く。目を開けると自分は、一緒に倒れてしまった鈴美の胸の谷間に顔を埋めていた。 呆然としている鈴美と目が合い、露伴は申し訳なさと恥ずかしさで真っ赤になりながら慌てて身体を起こす。 「あーあ、先生大丈夫かよ。仗助の奴、思い切りぶつかってたもんなあ」 「すんません、ちょっと俺達急いでたもんでー」 聞き覚えのある声が背後から聞こえてきて、振り向いた先に立っていたのは仗助と億泰だった。 しかも先ほど聞こえた会話で、露伴にぶつかってきたのは仗助のほうだと知ると怒りで身体が震えてくる。 鈴美を巻き込んだ上に、わざとではないがセクハラまがいのことまでしてしまい、取り返しがつかない。鈴美の顔がまともに見られなかった。 「露伴ちゃん、大丈夫!?」 「ああ、でも僕より鈴美のほうが痛かったんじゃないのか……それに僕は、君の」 「さっき先生、鈴美さんの胸に顔埋めてなかったっけ」 露伴の言葉を遮るように聞こえた仗助の声に、露伴は眉間に深い皺を刻んだ。鈴美の前でも、怒りを抑えるのはもう限界だと心の中で声がする。 「このくそったれ仗助、いい加減しろ!」 「露伴ちゃんダメよ、落ち着いて!」 「落ち着いていられるか! もう許さん!」 「おい億泰、とりあえず逃げるぞ! あいつのスタンドで本にされちまう!」 スタンドを発動させながら露伴は、逃げる仗助と億泰を追いかける。 鈴美との関係が壊れるのを恐れ、ずっと踏み込まなかった領域を汚されたような気がして、今度ばかりはどうしても許せなかった。 |