誘惑のささやき





学校帰りに立ち寄った靴屋で、仗助は1時間近くも迷っていた。
目の前の棚に置いてある、2万円近くするブランド物の靴が欲しすぎてたまらない。
しかしどうひっくり返っても金が足りない。財布に入っている2千円で次の小遣いの日まで過ごさなくてはならないので、正直靴どころではなかった。
ここで色々考える。バイトでもしようか、それとも母親に金を借りようか。前者だとまだどのバイトにするかも決めておらず、そのうち売り切れるかもしれない。 後者は絶望的で、2万円もの大金をあの母親がそう簡単に貸してくれるはずがない。おそらく蹴りを食らって終わりだ。
店員がちらちらとこちらを見ている気がする。こんなに長い時間同じ場所に居座っているせいで、怪しい客だと思われていそうだ。
靴の表面に触れてはため息が出る。さっき履いてみたところサイズもぴったりで、まるで自分のために用意されたかのようだった。時が経つにつれ妄想も激しくなってきた。
これ以上ひどくならないうちに店を出ようとした途端、背後から肩を叩かれた。思わずびくっと身体を震わせて振り返るとそこに居たのは店員ではなく、よく知って いる人物だった。

「うわっ、出た!」
「ちょっとー、人を化け物みたいに言わないでよね!」

仗助が嫌な顔を向けている先では、ジョセフが唇を尖らせながら腕を組んで立っている。しかもお馴染みの若い姿で。

「なんであんたがここに居るんだよ!」
「いや、その辺歩いてたら店の外からお前が見えたからさ。俺、ちょっと前に他で用事済ませてきたんだけど、終わった後もお前まだ同じとこに立ってんのな! ああ分かっ た、その靴が欲しいんだけど悩んでるんじゃない?」
「うるせえな、あんたに関係ないだろ!」

まさに思っていたことを指摘された腹立たしさもあって、仗助は怒りの声を上げたがジョセフは笑みを浮かべたままだ。少し怒鳴ったくらいでは、全く動揺しない厄介な男だ と分かっていたが。
ジョセフは仗助の肩に手を回して、急に距離を詰めてきた。

「正直になれよ仗助、その靴本当はすげえ欲しいんでしょ」
「俺は、別に……」
「まーたまた強がっちゃって、それ履いて街歩いてるとこ想像してたんじゃね?」
「そ、それは」
「俺が買ってやるよ」

耳元で囁かれた、甘い言葉。今まで買う買わないで散々悩んでいたのに、ジョセフはこんなにもあっさりと。そういえばこの男は、とんでもない金持ちなのだ。
確かにこの靴を履いて歩くことができれば、どんなに嬉しいか。ここに居る間、そんな妄想で頭がいっぱいだった。次の日にはもう、棚から姿を消しているかもしれない。
一瞬だけ心が揺れてしまったが、ここで買ってもらうのは何か間違っている気がした。
普段ジョセフに対して反抗的な態度を取っているのに、都合の良い時だけ甘えるのは。

「何で迷ってんの、あんなに欲しがってたのに」
「……言いたくねえ」

もう、呆れてひとりで帰ってくれればいい。そのほうが楽になれる。よく考えれば、もしここでジョセフに靴を買ってもらったとしても、持ち帰った時に母親に見つかったら どう説明すればいいのか分からない。本当のことを言うわけにはいかず、困るだけだ。
先週あたりに小遣いを前借りしようとして断られているので、仗助にはこんなに高価な靴を買う金はないとすでに知られている。とにかく母親にジョセフの存在を知られたら大変だ。

「いいじゃん、少しは父親らしいことさせてよ」

人の気も知らずに軽々しく言うジョセフにイラッときた仗助は、肩にまわされっぱなしの太い腕を無理矢理振り解いて、ひとりで店を出た。
だいぶ歩いた後で振り返ってみたが、ジョセフは追いかけてきていない。感じた胸の痛みはたぶん気のせいだと、自分に言い聞かせた。


***


『じじいなら部屋に居るんじゃねえか』
「あの……何か様子がおかしくなかったですか? 落ち込んでるとか」
『さあ? いつも通りだったぜ』

帰宅して夕飯を終えた後、仗助は承太郎に電話をかけてジョセフの様子を探った。あんな別れ方をしたせいで、あれからどうしたのか気になって仕方がない。付き合いの長い 孫になら、心の中を見せているかもしれないと考えたのだ。

『何かあったのか』
「ちょっと今日、気まずくなっちまって」
『気になるなら直接会いに来ればいいだろう』

それができないからこうして電話しているのだが、承太郎の考えは間違っていない。
仗助は礼を言って電話を切った。やはりこれは自分とジョセフの問題なのだから、承太郎を巻き込むわけにはいかない。


***


ドアを開けると、部屋の中に居たのは本来の姿である老人のジョセフだった。

「仗助君のほうから来てくれるなんて珍しいのう、中に入りなさい」

嬉しそうに招き入れてくれるジョセフに、仗助は複雑な気持ちになる。この状態のジョセフには、若返っている時の記憶はない。妙な現象だが本当のことだ。
もちろん先日気まずく別れてしまったことも知らないのだ。それを詫びに来たのだが、もし用件を聞かれたら何と答えればいいのだろう。

「わしに何か用かな?」
「えっと、その……」

テーブルを挟んだ向かい側に座っているジョセフは、穏やかな表情で問いかけてくる。これはまずい、と思いながらも上手い返しが見つからない。

「じじいは父親らしいことってどんなもんだと思ってる?」
「これは面白い質問じゃな」

苦し紛れに思いついた仗助の質問に、ジョセフが自分の髭に触れながら考え込んでいる。仗助は今までずっと母親と祖父に育てられてきたので、父親からの愛情がどんなもの なのか、あまり想像できない。

「家族のために働いて、子供が成長できるように支えてやることかのう」
「……そうか」

ジョセフの存在すら知らなかった16年間を思うと、返ってきた答えが胸に重く響いた。追い詰められていたとはいえ、自分から話を振ってしまったのでどうしようもない。
母親はジョセフを恨むどころか、今でも涙を流すほど愛している。仗助も、日本に来たジョセフと接しているうちに父親として認めるようになっていた。 今の事件が解決した後は、再び離れて暮らすことになるとしても。

「若いうちは照れくさくて、同じことを聞かれても上手く答えられなかったかもしれんがな」

そう言ってジョセフは小さく笑った。


***


翌日の放課後、あの靴屋に行ってみると欲しかった2万円の靴は棚から消えていた。誰かに先を越されたらしい。しかし元から無理だったのだから仕方がない。 これからまた、もっと気に入る靴に巡り合えるかもしれない。そう思うことにした。前向きに考えなければ。
店を出た途端、大柄な身体に行く手を塞がれて立ち止まる。顔を上げると若いジョセフが、先日の件などなかったかのような笑顔で仗助を見ている。

「久し振りじゃん、もしかして例の靴見に来たの?」
「え、ああ……」

こんな調子だが忘れてはいないはずだ。とにかく謝らなくては、と再び口を開くと白いビニール袋を差し出された。中身は見えないが、まさかと思った。売り切れた靴が 一瞬だけ頭に浮かんだ。ジョセフは早く開けてみろと言わんばかりに、こちらの様子をじっと見ている。
息を飲み、震える手で袋を受け取って中を覗き込むと茶色の紙袋が入っていた。
有名なファーストフード店のロゴが描かれているその紙袋からは、肉とパンが混じった美味そうな匂いがする。

「こっちに来てから、なかなか食べる機会がなかったんだよな。これから暇? お前と一緒に食べたくてさ」
「……じじい」
「あれ、もしかしてハンバーガー嫌いだった?」

仗助は首を左右に振ると、じわりと胸が熱くなるのを感じた。高い靴を買い与えられるよりも、ずっと嬉しかった。比べ物にならないほどに。




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2011/1/29