遠い世界から/後編 「知らねえ曲ばかりだ」 安っぽい造りのソファに腰掛けている青年が、テーブルの上に置いてあった分厚い本をめくりながらそう呟いた。 壁の向こうから他の客の歌声がうっすらと聞こえてくる以外、この個室の中は静かだった。 とりあえず仗助は、このカラオケボックスに向かった。ここなら人目を気にせず、ゆっくりと話ができる。当然ながら、いかがわしい展開を狙っているわけではない。 先ほど聞いた話で分かったのは、青年は母親の命を救うために訪れたエジプトから、この杜王町に飛ばされてきたということ。 そして彼が、今から11年前の世界の人間だということ。 仗助の考えが正しければつまりこの青年は、17歳の承太郎だ。 今までは何となく思っていたことが、ようやく固まった気がした。青年が出していたスタンドを見ても、心のどこかではまさかという考えがあった。 あまりにも現実離れしているからだ。 仗助の知らない過去の承太郎が目の前に現れ、こうしてすぐそばに座っているなんて。今でも夢を見ている気分だ。 青年の正体を知った途端に、ますます意識してしまっているのが恥ずかしかった。 「……また人の顔をじろじろ見やがって」 「み、見てねえっすよ!」 「まさかてめえ、そういう趣味の奴か」 こちらを見下すような表情で言われて、仗助は言葉を失った。殴られた時よりも大きな衝撃を受けた。 他の人間ならともかく、承太郎と同じ顔でそんなことを言われるなんて。ずっと抱いてきた気持ちを、言い出せなかった想いを、全て否定されたようで辛かった。 もしかすると仗助のよく知っている承太郎も、目の前に居る青年と同じことを思っているのだろうか。 仗助はこみ上げてくる悲しい気持ちを振りきるかのように、青年をソファの上に突き飛ばし、その上に覆い被さった。 「あんたに何が分かるんだよ! どうせ俺のこと、気持ち悪いって思ってるんだろ。それでも俺は、簡単には諦めらんねえ……」 向こうの立場を考えれば、普通の学生同士のように好きだから、愛しているからと言って気持ちを伝えるわけにはいかないのだ。 どんな状況でも我慢しなくてはいけない。困った顔は見たくない。 気が付くと、今にもくちびるが触れ合いそうな距離まで、青年に顔を近付けていた。 あっ、と小さな声を上げながら仗助は慌てて青年から離れた。 「わけの分からねえ奴だな」 仗助から解放された青年は無愛想な調子で言うと、身を起こした。学ランの襟の辺りについている鎖が、じゃらっと音を立てる。 いきなり押し倒されてあんなことを言われれば、わけが分からないと思うのは当たり前だ。 それにしても、この青年なら今日初めて会ったばかりの男に押し倒されたら、余裕で抵抗できるくらいの力は持っているはずだ。公園で仗助を殴り飛ばした、あの時のように。 なのに何故最後まで、そんな様子を見せなかったのだろう。 たどり着いたホテルの325号室の前に立った仗助は、密かに息を飲む。 このドアの向こうには、現在の承太郎が居る。彼がもし、過去の自分と対面したらどういう反応を示すのか。決して好奇心で青年をここに連れてきたわけではなく、 今の状況について相談できる人間といえば承太郎しか思い浮かばなかったからだ。 「この部屋に入れば、何とかなるのか」 「そう、思いたい」 緊張しながらドアを開けようとした時、すぐそばに立っていたはずの青年の気配が消えた。辺りを見回しても、自分以外の人間の姿はどこにもない。音も立てずに青年は、 どこかに消えてしまった。 『……おい、どこを見てやがる』 「どこって、こっちが聞きたいっすよ。何でいきなり消えたんだよ」 青年の声は聞こえたが、今も姿は見えないままだ。 『未来の俺自身がどうなってんのか興味はあるんだが、どうやら俺はもう、ここには居られねえみたいだな』 「えっ、一体どういう」 『向こうに帰れるかもしれねえってことだ』 青年の言葉が、仗助の胸にゆっくりとしみこんでいく。今日は放課後からずっと、青年が元の世界に戻るための方法を考えていた。なのでもし、これで帰れるのなら青年に とっては知らない世界に居るよりはずっと好都合なことだ。こちらも安心して送り出すのが正しいと思う。 しかしこれは、あまりにも突然すぎる。 『世話になったな』 「……」 『まあ、てめえにはまた会えるんだろ。未来の俺が、その部屋に居るってことはな』 「でも……」 『俺はもう行くぜ。じゃあな、仗助』 一瞬だけ、青年の姿が見えた気がした。学ランの裾を翻しながら、こちらに背を向けて去っていく姿が。そして声はもう、聞こえなくなった。 しばらく呆然としていた仗助は、やがて身体中の力が抜けて床に両膝をついた。出会ってからは殴られ、睨まれ、そして罵られたりとろくな目に遭わなかったが、仗助は 青年が居なくなったこの場所で泣き出しそうだった。仗助、と名前を呼ばれたのが、別れ際で最初で最後になってしまった。 ドアの前で膝をついたまま、仗助は堪え切れずに承太郎の名を叫んだ。それは目の前から消えた青年に向けたものなのか、それとも部屋の中の人物に向けたものなのか、 仗助自身にも分からなくなっていた。 数秒後、部屋のドアが開いて中から出てきた承太郎は、床に座り込んだ仗助を見て驚いた顔をした。 「仗助、お前どうしたんだ。何があった?」 「じょ、たろ……さん」 「ひとりで来たのか?」 承太郎の問いに、仗助は目を伏せて首を左右に振る。優しい承太郎にすがるように、その胸元にしがみつくと声を上げて泣いた。 時間も国も飛び越えてこの町に来たあの青年と、ここに居る承太郎の匂いも温もりも全て、確かに同じ人間のものだった。 |