苦くて甘い1日 朝から靴箱や机の中の隅々まで眺める行為を繰り返しているうちに、空しくなってきた。 休み時間に廊下を通るたびに、包装紙に包まれたものを渡したり受け取ったり、そんな光景がやけに目につく。どうせ自分には縁がないだろうと思いながらも、実は心の どこかで期待しては裏切られるという、年に1度の残酷な日だ。本当に早く終わってほしい。彼女持ちやモテ男の鞄から漂ってくる気がする甘い匂いが、傷付いた心に痛い。 ようやく迎えた放課後、待ち合わせ場所である玄関に現れた仗助の姿を見た途端に億泰は絶句した。仗助は鞄の他に手提げの紙袋をふたつも抱えていた。その中身は聞くまで もなく、様々な大きさのチョコレートだ。しかも紙袋からいくつかはみ出しているので分かる。 こちらに向かってくる途中に、とどめとばかりに登場した女子の集団に囲まれてチョコレートを渡されている。仗助と親しくなって初めてのバレンタインだが、まさかこれ ほどまで大量に貰うとは思わなかった。それにしても心底羨ましい。いくつも貰っていたクラスの男達とは比べ物にならないほどの、まさに真のモテ男だ。 「あっやべえ、この紙袋入りきれねえや! もう鞄に入れるしかねえかな……」 そう言って顔を上げた仗助と目が合い、軽く手を上げると向こうも同じように応えてくれた。両手に紙袋を持っているので、うまく手が上がらないようだが。 「よお仗助、大漁だな」 「まあな。嬉しいんだけどよ、来月のことを考えると頭が痛いぜ」 もしかして来月はひとりひとりにお返しをするのだろうか。とりあえず顔見知りと、名前を添えてくれた子には来月のホワイトデーにお返しをするらしい。モテ男も楽な ことばかりではないようだが、自分も1度はそういうことで頭を悩ませてみたいものだ。 後で仗助から聞いた話だと、康一は由花子と共に下校したようだった。彼女から、ふたりきりの部屋でチョコレートを渡されるのだろうか。こちらも涙が出るほど羨ましい。 仗助と別れた後、億泰は寂しくなったのでトニオの店に寄ることにした。最近は更にあの店に行くことが多くなった。料理は美味いし、トニオは優しい。イタリアの匂いを 感じさせる店内の雰囲気も良いので、いいことづくめですっかり癒しの空間になってきている。客とはいえ、あまり通いすぎるとさすがにしつこいと思われそうだが。 入口のドアを開けると、厨房から顔を出したトニオが笑顔で迎えてくれた。他に客は居ない。ふたつしかないテーブルの片方に歩み寄り椅子に腰掛けようとしたところで、 トニオが億泰の顔をじっと見ていることに気付いた。 「え、何だよ」 「億泰サン、今日は元気ないデスね」 「そ、そうかあ? 別に、いつもとおんなじだろうが」 トニオから目を逸らしながら言うと、椅子に腰掛けた。この店にはメニューがないので、普通の店のようにそれを眺めてごまかすこともできない。 確かにバレンタインのこの日に、チョコレートをひとつも貰えないことで落ち込んでいたが、それを口に出すのも恥ずかしかったので黙っておいた。紙袋に入りきれない ほど貰っていた仗助に愚痴るのは何となく嫌だった。康一のように彼女ができる気配もなく、将来の自分に期待するのも無謀かもしれない。 そういえばトニオには彼女は居るのだろうか。結婚しているという話も聞いたことがない。商売が成り立つほど料理の上手い旦那を持てば、結婚相手は幸せだなと思う。 「今日はせっかく億泰サンが来てくださったので、特別なメニューをお出しマス」 そう言ってトニオは厨房へと戻って行った後、しばらくして再び店内に現れた。片手に何かが乗った皿を持っている。銀色の大きな蓋に隠されていて、中身はまだ分からない。 開けてみてクダサイ、と言われて蓋を外すと、億泰は思わず驚いて声を上げてしまった。まさかこの店でこれが出てくるとは思わなかった、シンプルな飾り付けのチョコレート ケーキだった。しかもひとりで食べきるのは無謀な、カットされていないホールケーキだ。 「実はこれ、億泰サンの家にお届けしようと思っていたんデスよ。今日中にお渡ししたかったので……このケーキのお代はいりマセン」 「今日中って、もしかしてこのケーキは」 「億泰サンへ、ワタシからのバレンタインの贈り物デス。絶対に女性から男性へ渡さなきゃいけないという決まりはないデスからね」 「そ、そりゃあ……そうだけどよお」 「やっぱり女性から貰ったほうが嬉しかったデスか?」 普段は見せない、寂しそうな顔をするトニオに動揺してしまった。プロの料理人が作ったケーキを、本当にただで貰ってもいいのかという申し訳なさや、チョコレートを 貰えずに落ち込んでいたことを、まるで見透かされていたかのようなタイミングに対しての驚きも含めて。 「いや、すげえ嬉しいよ……美味そうだし」 「そう言ってもらえて、安心しマシタ。早速食べてみてクダサイ」 笑顔になったトニオは、持ってきたナイフでケーキをきれいに切り分けると皿に乗せて出してくれた。間にクリームや果物が挟み込まれている、本当に美味そうなケーキだ。 今までこの店で食べたものに外れはないので、甘い匂いに期待が高まる。 ケーキは予想以上に美味かった。女子からのものじゃなくても構わない、トニオが億泰のために作ってくれた特別なケーキの味が胸の奥までしみこんで、泣きそうになった。 「口の端についてますよ、億泰サン」 「え、何が!?」 慌てて口を拭おうとすると、それより先にトニオが億泰の唇に触れる。そしてその指を舌先で舐める仕草があまりにも意味深なものに見えて、思わず赤面してしまった。 |